プロローグ 滅びの炎
・第一章は、プロローグやエピローグまで含めて全二十二話となります。明日の12/19からは、第一章が完了するまで、毎日一話ずつ更新していく予定です。
・第二章からは、執筆ペースにあわせて更新の頻度を決めていきます。
新大陸歴六二八年、赤の月の九日。
西の王都アルグラッドの銀獅子宮が、滅びの炎に包まれた。
石の宮殿は崩れ落ち、赤い豪炎に容赦なく蹂躙されていく。そこには逃げ遅れた小姓や侍女たちの黒い影が浮かび、苦悶と無念の絶叫をほとばしらせて、それがいっそう激しく炎に渦を巻かせているかのようだった。
かろうじてその災厄からまぬがれた人々は、美しく緑の刈りこまれた前庭や冷たい石畳の上にへたりこみ、口々に西方神の名を唱えている。
この炎の中には、小姓や侍女ばかりでなく、もっと貴き身分の人々――王や王子たちまでもが閉じ込められているはずであるのだ。その恐ろしい事実を知る者は、ほとんど半狂乱になって嘆きの声をあげてしまっていた。
白銀の甲冑を纏った兵士たちの指示に従い、噴水から汲まれた桶の水が手から手へと受け渡されていく。しかし、そんなものは焼けた炉に水滴を垂らすにも等しい行いに過ぎず、真紅の炎はすべての生贄を貪欲に喰らい尽くすまでその勢いを弱めようとしなかった。
そうして六百余年に渡って西の王国セルヴァを支配し続けてきた銀獅子宮は、赤の月の九日に朽ち果てることになった。
しかし、これで王家の血が絶えることはなかった。
むしろ後世の人間は、この日から王家の新しき歴史が紡がれ始めたのだ、とさえ評するかもしれない。
ともあれ、そのような未来を予見することもかなわない人々は、絶望に曇った目でひたすら神の名を叫び続けたのだった。
◇
それと同じ年、災厄に見舞われた王都アルグラッドを遠く離れた北の地にて、昼なお暗き森の中をひた走る少女の姿があった。
外套の頭巾を深々とかぶった、ごく小柄な娘である。背には小さな荷袋を背負い、腰には水筒や物入れの小袋を下げ、足には革の短靴を履いている。それなりに旅人らしい装いをしてはいるが、しかし、このような辺境の地を旅するには、あまりに用心の足りていないいでたちであった。
足もとは、ほとんど道とも言い難いような獣道である。そこは西の王国セルヴァにおいてもほとんど人間の侵略にさらされていない、北西部の辺境区域なのだった。
まだ夜の訪れにはいくばくかの猶予があるはずであったが、頭上には暗緑色の葉が何重にもかぶさり、黄昏刻のような薄暗さをもたらしている。その暗鬱なる気配そのものから逃げまどうかのように、少女は暗い森の中を一人でさまよい続けていた。
(大神セルヴァよ、どうか汝の忠実なる子に救いの手を……)
王国と同じ名を持つ神の名を、少女は胸中で懸命に唱える。
その次の瞬間、少女は愕然と立ちすくむことになった。
行く手の薄暗がりからこちらに向かって進んでくる、二つの人影を発見したのだ。
(先回りされた……?)
絶望のあまり、少女はへたり込みそうになってしまった。
しかしそれは、少女を追う無法者などではなかった。
二つの人影の片方は、その手に巡礼者の杖を携えていたのだ。
それに気づいた少女は新たな驚きに見舞われつつ、よろよろと彼らの前にまろび出た。
「お待ちください、巡礼者様! どうか――どうかお助けくださいっ!」
少女は叫び、巡礼者の足もとに身を投げ出した。
巡礼者は、いぶかしそうに小首を傾げている。彼らも少女と同じように革の外套と頭巾を纏っているため、人相はわからない。
「わたしは悪漢に追われているのです! どうぞこの身に、西方神のお情けを……」
「お情けをって、巡礼者なんかに悪漢を叩きのめす力などあると思うのかい?」
少年とも少女ともつかない澄み渡った声音が、森の中に低く響く。
銀の鈴を転がすかのような、それはあまりに玲瓏なる声音であった。
「ど、どのような無法者であっても、神にその身を捧げた巡礼者様に刃を向けようとはしないでしょう。お慈悲ですので、どうぞお情けを……」
「ふーん? この旅を始めてから、そこまで信心深い無法者に出会った覚えはないけどなぁ。どんなに神を崇めようとも、腹がふくれるわけではないからねぇ」
とうてい巡礼者とは思えぬような言い草である。
そうしてその人物は、くすくすと笑いながら細い杖の先を少女のもとに突きつけてきた。
グリギの木でできた黒い杖の先端が、少女の頭巾を背中のほうにはねのけてしまう。
「それに、君みたいな人間が巡礼者に助けを乞うなんて、まったく道理が通っていないんじゃない? 西方神セルヴァが救うのは、西の民の魂だけだよ?」
少女は慌てて頭巾をかぶりなおそうとしたが、この期に及んではそれも詮無きことであった。
唇を噛む少女の頭上に、意地の悪そうな笑い声が響く。
「金色の髪に、紫の瞳、それにちょっぴり赤みがかった白い肌――その姿は、どこからどう見たって北の民、マヒュドラの民じゃないか?」
「違います! わたしは――」
そのように言いかけて面を上げた少女は、そのまま口をつぐむことになった。
少女は地べたに身を投げ出していたために、彼らの頭巾に隠された素顔を覗き見ることがかなってしまったのだ。
その内の一人、さきほどから少女と言葉を交わしていた人物は、したたる鮮血を凝り固めたかのような、真紅の瞳を有していた。
しかも、その瞳を彩る睫毛は白銀であり、肌は北の血を引く少女よりも白い。まるで日の光をあびたことがないかのような白さであった。
「悪い子だね、巡礼者の顔を覗き見するだなんて……それこそ、西の神の怒りに触れて、炎の裁きを受けてしまうよ?」
血の色の透けた唇を吊り上げて、その人物はにいっと笑った。
それは妖しい魔物のような笑顔であった。
また、その人物は魔物のように美しくもあったのだ。
鼻筋はすっと通っており、頬から下顎にかけては至極なめらかな曲線が描かれている。透き通るような肌と相まって、それは精緻な硝子細工の彫像めいた美しさを織りなしていた。
なおかつ少女は、別の驚きにも打たれていた。
これだけ間近からその姿を見ているのに、少女にはその人物が男であるか女であるかを判別することができなかったのだ。
年齢は、せいぜい十代の半ばていどであろう。外套の下にはゆったりとした暗灰色の巡礼服を着ており、とてもほっそりとした体格をしている。背だって、年若い少女と頭半分も変わらないぐらいだろう。西の民としては、女性と考えたほうが自然である身長と体格だ。
それでこれだけ美しいのだから、若い娘が野盗や無法者の目を逃れるために男の格好をしている、と考えれば得心もいくのだが、それでも少女にはなかなか判別がつかなかったのだった。
「何をじろじろと見ているのかな? 僕みたいな人間がそんなに珍しい?」
そんな言葉を投げかけられて、少女は慌てて目をそらす。
そらしたその先には、もう片方の人物が立ちはだかっていた。
こちらはもう、まぎれもなく精悍なる男である。年齢は、二十を少し超えたぐらいであろうか。連れよりも頭ひとつ分は背が高く、外套の上からでもそうと知れるぐらい鍛えぬかれた身体をしている。
非常にすらりとはしているが、肩の幅も胸の厚みも尋常ではなく、そして、何故だか右腕にだけ分厚い革の篭手をはめている。腰に吊るされているのは、兵士が戦場で使うような大振りの長剣だ。
髪と瞳は黒みがかった褐色で、肌は日に焼けた黄白色。ラグールの大鷹のように厳しい眼差しをしており、鼻は高く、口もとは引きしまっている。それもまた、名匠の手による闘神の彫像を思わせる凛然とした面立ちであった。
しかし、その面は無残な傷痕に蝕まれてしまっていた。
右頬から咽喉のあたりにまで、赤黒い火傷を負ってしまっているのだ。
そんなに古い傷ではないのだろう。強く触れれば血膿のにじんできそうな、生々しい傷痕である。もとが秀麗な容姿をしているため、その傷痕はいっそう惨たらしく見えてしまった。
「で? 君はいったいどこから逃げてきたマヒュドラの民なのかな? 悪いけど、主人のもとを逃げだした奴隷なんかにかかずらってるひまはないんだよねぇ」
嘲笑をはらんだ声音で言われて、少女はハッと我に返る。
「ち、違います! こんな身なりですが、わたしはれっきとした西の民なのです! 北の民などではありません!」
「だから、金色の髪に紫色の瞳をした西の民なんてありえないと言ってるじゃないか。ま、僕なんかが髪や瞳の色についてとやかく言うのは滑稽かもしれないけれどね」
「わ、わたしは――その、北の民を母に持つ人間なのです。でも、西の民としてこの地に産み落とされ、西の民として育てられてきたのです!」
その言葉に、少年とも少女ともつかぬ美麗な若者は初めて心を動かされたように身を乗り出してきた。
「北と西の間に生まれた人間だって? 本当に?」
「はい! ……わたし、スタッグの子リヴェルは、西方神セルヴァの子であることをここに誓います!」
少女リヴェルは立ち上がり、右手の指先で心臓をつかむような仕草をして、左の腕を真横にのばし、西方神への宣誓をしてみせた。
「何それ? 神の子の誓いってやつ?」
うろんげに言いながら、彼――あるいは彼女は、連れのほうを振り返った。
猛禽のごとき眼差しを持つ青年は、無言のまま首を縦に振る。
「へーえ、それじゃあ本当の話なんだね。四大神の誓いを破ったら、魂を粉々にされちゃうんだもんねぇ。ふーん、へーえ、北と西の混血かぁ」
「し、信じていただけましたか?」
「うん、信じた信じた。巡礼者を襲う野盗はいても、神の誓いを破る人間はいないだろうからねぇ」
そのように言ってから、その者はふいに口もとをほころばせた。
それでリヴェルは、また心を乱されてしまう。
それは、さきほどまでの魔物じみた笑みとはまったく異なる、無垢な幼子のごとき微笑であったのである。
「面白いね。僕はナーニャで、こっちはゼッドだよ。それで、西と北の混血たる君は、こんな辺境の地で何をやっているのかな?」
「で、ですからわたしは、悪漢に……」
リヴェルがそのように言いかけたとき、鋭い音をたてて地面に矢が突きたった。
リヴェルは悲鳴をあげ、またナーニャの足もとでうずくまってしまう。
「ああ、信心を忘れた無法者の登場かぁ」
ナーニャは呑気そうにつぶやき、ゼッドが一歩前に進み出た。
樹木の陰から、悪漢と呼ぶに相応しい身なりの男たちがわらわらと飛び出してくる。
「何だ、巡礼者かよ。こんなさびれた場所にまでわざわざ出向いてくるなんて酔狂なこった」
「何でもいいや。その奴隷女を置いて、とっとと立ち去りな。……もちろん銅貨と食料も一緒に置いてな」
薄汚れた毛皮や布の装束を纏った、五、六人ばかりの無法者たちである。傭兵くずれか、あるいは仕事から逃げ出した農奴のなれの果てか、手に手に蛮刀や粗末な弓などを携えている。黄色い肌は砂塵に汚れ、瞳には粘ついた光が宿り、まるで腐肉喰らいのムントのように醜悪な姿である。
「銅貨と食料ね。そんなもの、こちらのほうが恵んでほしいぐらいだけど」
ナーニャがそのように応じると、悪漢の一人が欲望に目をぎらつかせた。
「何だ、女の巡礼者――いや、男の餓鬼か? 何でもいいや、こいつは拾い物だ」
「ふーん? 僕を慰み者にでもしようっての?」
ナーニャは小馬鹿にしたように言い、そのほっそりとした腰に手をやった。
「あんまり余計なことを言うと、ゼッドを怒らせるだけだと思うよぉ? ま、僕たちなんかに関わってしまった時点で、君たちの悪運は尽きてしまっているのだろうけどねぇ」
「ハッ! いつまで小生意気な口を叩いていられるか見ものだな」
下卑た笑みを浮かべながら、男たちがじりじりと近づいてくる。
リヴェルは絶望的な心地でナーニャの足もとに取りすがったが、次の瞬間、信じ難いことが起きた。
背負っていた荷袋を放り捨てたゼッドが一歩足を踏み込むや、先頭に立っていた男の生首が宙に舞ったのである。
気づけば、ゼッドの篭手に覆われた右手には長剣が握られていた。
その一撃が悪漢の首を飛ばしたのだ、と理解した瞬間には、もう次の血煙があがっていた。
断末魔をあげる間もなく、二名もの悪漢たちがぐしゃりと崩れ落ちる。
「な、何だこの野郎は!?」
「怯むな! 囲っちまえ!」
男たちの惑乱した声が森の静寂をかき乱した。
しかし、しょせんは野盗の群れである。足場の悪い森の中で彼らが散開を果たすより早く、ゼッドの長剣はまた一人の生命を屠っていた。
「くそっ!」と男の一人が弓を引き絞る。
しかし、至近距離から放たれたその矢もあっさりと鋼の刃に撃ち返され、返す刀で男の胴体も斬り払われた。
鬼神のごとき剣技である。
そして、瞬く間に四名もの人間の生命を奪っておきながら、ゼッドの面には人間らしい感情も戦士としての昂ぶりも浮かんではいなかった。
「ば、化け物だ!」
「セルヴァよ、お慈悲よ!」
残った二人が、森の向こうへと身をひるがえす。
その片方は、背中をななめに断ち割られた。
もう片方は、森の中を何歩も行かぬ内に腰を蹴られて、倒れ伏したところで、頭を砕かれた。
たまらない血臭が森に満ちている。
その血臭の中で、ナーニャは笑っていた。
「容赦ないなぁ。ま、僕たちに刀を向けたんだから当然の報いだけどね」
「あ……あなたたちはいったい……?」
リヴェルは呆然とつぶやいた。
その姿を見下ろしながら、ナーニャはにっこりと微笑む。
「僕たちはただの風来坊さ。でも、どうやら行き合う相手に凶運をもたらす運命にあるらしくてね」
「きょ、凶運……?」
「そう、国を滅ぼしかねないほどの凶運さ」
幼子のように微笑みながら、ナーニャはその赤い瞳に奇妙な光を渦巻かせた。
それはまるで、この世のすべてを燃やし尽くさんとする地獄の業火のごとき妖しいきらめきであった。
「君もこの凶運に巻き込まれたくなかったら、とっとと逃げ去ったほうがいいんじゃないかな。奴隷に身を落としたほうがまだしも幸福だった、と思うことになりかねないよ?」
それでもリヴェルは、ナーニャに取りすがった手を離すことができなかった。
恐怖と混乱で震えは止まらず、心臓を握り潰されてしまいそうな心地であったのに、リヴェルはまるで悪神に魅入られたかのように身動きをすることさえかなわなかったのだ。
そうして彼らは、暗い森の中で今後の運命を定める邂逅を果たすことになったのだった。