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少年と子羊と妖精の話

作者: ナオユキ

 何とよい香りのする風であろう。


 香りのひとつは木の香り。多くの枝をひろく張り、幹のすみずみにまで生気をみなぎらせ、斧をひとたち入れれば滋養をふくむ樹液が泡をなしてあふれ出る。


そんな樹木がおりなす森からふいてくる、吐息の香り。


 また一つは、丘陵を明るい緑色に染めぬく草花の香り。太陽の恵みに満腹し、互いに手をとりあって風の音楽にあわせダンスをする、華麗な紳士淑女たち。細いスラリとした葉をヒラヒラと振るダテ者や、丸みをもった青い衣装に身を包む道化者、鮮やかな赤色の髪をしたシャレ者や、しとやかな白い髪をした乙女。


彼らのつどう舞踏場はやわらかな大地。


草と、花と、土の、良き香り。


 また一つは、はるか遠くに城郭のごとく立ち並ぶ巨大な山脈のつめたい雪の香り。大きな山々の威容は神話の巨人を思わせ、大地の牙を思わせ、異国の大都市を思わせる。遠い距離は空気の層を重ね、より厚く、より青く、より濃く、より冷たくさせ、山を宝石に変える。


 その山々から森を越えてやって来る、高い空の清水の香り。


 そして、ひろい丘陵のひろい草原には、白い羊の群れがよく似合う。


 彼らはダイヤモンドをとかしたジュースよりも清清しい風をごくごく飲み、噛めば噛むほど甘さの出る草花をむしゃむしゃと食べる。


 大事な家族であるつがいの雌や自分の足ほどにしかない子羊と体をすり合わせる。元気な盛りの年少羊は友達同士と力比べをするために角をぶつからせ、周りではヤンヤと声援を送るも、その様子はどこか寝ぼけ眼で行なっているように穏やかである。


 またこっちではつがいになる前の初々しい雄と雌のわかい羊が、たがいに涙でうるむ目を向かわせて秘密のむつ言を交わしている。


 白いモコモコの羊毛に身を包んだ彼ら。


 ロンドンの市外をねり歩く立派な身なりの人たちよりも立派で、王室に働きに出る華美な服装の人たちよりも美しく、コーカサスの雪の民たちやシベリアの氷の民たちよりも暖かそうな彼ら。


 穏やかな春のよそおいをして吹き過ぎる風が、ときおり彼のマントの下に隠した剣を抜いて突き刺すこともある。だが、羊たちのぶ厚い外套はその刃を通さない。風は悔しまぎれにそこだけ外に出ている鼻先を刺して、彼らの鼻粘膜をむずむずさせ、くしゃみをさせる程度が関の山。


 これら羊の群れを飼っていたのはまだ幼い少年。名前はカップといった。短く切りそろえた金髪がそよ風にゆれる。地面から突き出た小さな岩をイスにして腰かけ、杖をブラブラと上げ下げして遊んでいる。


 彼の目は羊たちを見張ってはいるが、その意識は草原をかけめぐる風にさらわれてうつろである。


 固いホイップクリームのような雲が空の端から端へと流れ行く光景に見とれ、風力の不思議な運行に思いをはせ、太陽の位置から現在の時間をはかり、それらの中に働く「移行」という止めることのできない大きな力をしみじみと思っていた。


 冷えてムズムズした鼻の穴から水が垂れているが、彼は気づかない。そのままにしていたらいつまでもそんな間抜けな顔をしていたであろうが、群れのどこかから数匹の子羊が鳴き合うのを聞いて、彼の顔に表情がもどった。


「こらっ、おまえたち、マグをいじめるな!」


 少年は鼻をすすり上げ、笑いながら駆けつけた。彼は鳴き声だけで羊の個を区別できた。行ってみると、三匹のやんちゃ子羊が、一匹の子羊を頭でつついて、群れから追い出そうとしていた。


「やめなさい! 何でもっと仲良くできないんだ。色がちがうだけでこんなことをしちゃいけないよ!」


 カップは間に入って三匹をにらみつけ、杖を振って追い払った。彼が出てくると三匹は攻撃をやめておとなしく向こうへ行ってしまった。


 彼の守った子羊はさっきの三匹よりも小さかった。そして、群れは白い羊ばかりであったのに、どういうわけかこの子羊だけ黒のぶち模様があった。その色ちがいのせいでこの子は仲間から毛嫌いされているらしく、さまざまな所に傷や毛の抜けた箇所などのケンカの痕があった。また、足に病気をもっており、右の後ろ足の関節に大きなコブができていた。そこが痛むらしく右後ろ足を地面につけずにヒョコヒョコと歩いている。全体的に弱々しい、かわいそうな子羊であった。


「マグ、よしよし。いい子だな。よく我慢した。あいつらは追っ払ったよ。やったことは悪いけど、許してやるんだよ。僕にはあいつらもかわいいんだから。それにしても、おまえくらい苦労して生きている羊は見たことないよ。ほら、おいで」


 子羊は少年からマグという名前をもらっていた。彼はこの哀れな子羊に名前をつけて呼ぶほど、ことのほか溺愛していた。彼から体をなでられるとマグはもうとろけんばかりになって体をすりよせた。鼻先を彼の胸に押し当てて小さな体に似合わずグッと力強く押した。


「うわっ!」


 彼は背中から草の上に倒れた。小さな体のマグはノシノシと小さな体の少年の上に乗ってきて、額をコツンコツンとぶつけてきた。ふさふさの体毛が彼の体をくすぐった。少年も喜んで両手で子羊の体をなでまわした。その時、彼の手は腹の下で小さなブツブツにふれた。まだ未発達の固い乳房であった。


 少年は悲しげな顔になって言った。


「おまえのこれが役に立つ時が来るんだろうか。母親になって自分の子どもに乳をあげることがいつか出来るんだろうか」


 マグは彼の言葉を知らず、まだ顔をスリスリさせていた。他の羊たちはじゃれつくふたりにかまうことなく、みんなぼんやりと好きなことをして過ごしていた。


 しばらくじゃれあった後、カップは立ち上がってもとの岩のイスにもどった。マグは彼の後をヒョコヒョコとついてきた。彼は座るとまた風の音に耳を澄ませ、心の向くままに歌を歌った。旅人が草原を通りかかると必ず話題にする羊飼いの伝統的な牧歌であった。人の口から口へと伝わって遠い地にまで知られている歌であったが、少年はそのことを知らない。今、彼の歌の鑑賞者は群れの羊と、彼の片側にひかえて静かに座っているマグだけであった。彼の手はしらずしらずマグの方に伸びていて、その背中をなでていた。彼の歌はしだいに愛する子羊だけに向けて歌われるようになった。少年の哀憐にみちた眼差しは子羊の肢体にやさしく触れていた。


「マグ、おまえは成長しても、こんなに嫌われていたら、つがいになる雄はきっといないだろうね。僕たち羊飼いは、できれば体の丈夫な子孫を残せる羊だけをつがいにしたいから、おまえに雄をあてがうわけにはいかない。本当にかわいそうだ。夫も、子どもも、おまえに見せてやれないなんて。死ぬまでひとりなんだね。でも、大丈夫だよ。僕がいるから。僕がおまえのつがいになってやる。年とっても僕が最後まで面倒みてやるからな。死ぬときも、いっしょにいてやる。僕はいつもそばにいてやるから」


 とうとうと語る幼い口、正直な心が原形のまま表に出た言葉であったが、彼はその言葉の重みを知らなかった。子羊もまた、少年の言葉の意味を理解することもなかった。ただ風の精だけが、少年のいたいけな言葉を集めて持っていき、クスクスと笑ってお手玉遊びをした後、地上にパッと投げ捨ててばらまいたのだった。


 日が落ちて、夜となった。気温もグンと落ちて、手足は凍えそうだ。空気中をたくさんの針が飛んでいて、むきだしになった所をチクチクと刺す。星空は高く、とても明るい。半分の月が照りだしていて、地表は明るく、帰り道も迷わない。カップは羊が一匹でも遅れないように気を配りながら家路を急いでいた。草の中の道を見分けながら、絶えず声を出して群れを導いた。やがて丘の上の家が近づいてきた。こちんまりした小屋とそれより少し大きいくらいの畜舎があった。家に着くと少年は、畜舎の扉をあけて杖をふりまわし、群れを中に追い立てた。逆らうものは一匹もいなかった。みんな従順に畜舎へと入っていった。最後の一匹が入り終わると、少年もあとに続いて中に入り、ランプに火をつけた。ほのかに明るくなった畜舎の中では、いっぱいの羊が混雑していた。少年は一匹ずつ決められた囲いの中に収め、最後のマグまで囲いに入れ終わった。


「じゃあね。みんな、また明日」


 少年は元気よくあいさつすると、ランプをもって外に出ていった。閉まった扉の外側からかんぬきをかける音が屋内までとどいた。暗闇に閉ざされた畜舎の中では、一日の勤めをおえて一休みする羊たちだった。マグだけが少年を恋うようにかぼそい鳴き声をあげていた。


 さて、草原からはなれ、森をぬけていった先に深い峡谷があった。それは巨大な大地の割れ目であり、神の手が大地を双方にひきさいたようであった。谷の上から見下ろすと、ずっと下方に川の流れているのがかすかに見えるほど、その谷は深く、また大きかった。谷の崖のうえに一つのお城がたっていた。といっても大げさなものではなく、地方に分布する砦か要塞にちかいものだ。なかば谷の中にななめにはみ出した建ち方をしていた。石造りの、かなり古いもので、こけや木のつるにおおわれていた。そのために遠くからだと陰が濃く見え、近くからだと濃い緑色をした外観であった。


 その城に住んでいるのは人間ではなく、森を治めている妖精の一族だった。王座についているのはスプーン王だった。彼は、体はすらりと細長いのに、顔は横にひろく、ふくよかである。


 その他、王の間に列をなしている家来たちは、左大臣と右大臣、武官と文官、将軍と千隊長、料理長、侍従長、詩人、そしてずらりと整列する兵士たちだった。


 みな、普通の人間にくらべると幼児くらいの大きさで、頭には小さな角が二個あり、宙をまう羽虫にみられる類いのうすい一対の羽があった。玉座の周囲にいならんでいる者たちは今は厳粛に羽をとじている。


 スプーン王は声を発した。


「我は他国との会議のために遠方へおもむかねばならぬ。長い道のりゆえ、多くの家来と物資とを要す。ついては留守番を二名ほど残し、おまえたちの全員を引き連れて行きたいと考えておる。すみやかに備えよ。」


 家来たちはわっ、と騒ぎ出し、にわかに城は上を下への大騒ぎとなった。大臣らは重要な書面をととのえ、武官文官は地図をにらみ旅の道程を計り、料理役らは道々の食糧を倉庫からとりだし、侍従らは必要な資材と車の用意をし、兵士らは隊長の指示を受けて装備をととのえた。


 そうして、準備ができた。王様は服装をただし、家来らも城の外で号令を待っていた。また、車の用意がなされた。この車はスプーン王だけは乗ることができ、たくさんの侍従たちがからだに縄を結わえてひっぱり走ることになっていた。


「それでは、行ってくる。留守はしっかりするんだぞ。」


 王は、残された二名の奴隷、フォークとナイフに言った。フォークは頭がギザギザにわれ、ひらべったい顔をしていた。ナイフは全体的に細長く、三角木材をたたきのばしたようだった。このふたりは城に仕える者のなかで一番下の者たちだった。


 ふたりは、「はいっ」と返事をし、姿勢をただしてふかくお辞儀をした。王はそれを見て満足そうな面持ちをした。


「行けっ」


 王がかけ声をかけると、車につながれた妖精たちは羽をひろげ、ブーンとうならし、パッと空中に飛び上がった。するとそれに引かれて、車も空を飛び、また他の家来たちも続いて飛んでいき、みるみる空の彼方に消えていってしまった。


 残された二名の妖精は、王の一行が完全にいなくなるまで待っていた。そして、頭をあげると、互いに目配せした。


「行った?」


「行った。」


「よしっ。」


 彼らは城にかけもどると、扉をとざして鍵をかけ、食糧倉庫のところに急いでいった。倉庫の内部にはたくさんの食べ物が貯蔵されていた。また、地下には、岩をもってこしらえた天然の冷蔵庫があり、いたみやすい肉類が保存されていた。また酒蔵にあったぶどう酒や蒸留酒なども取ってきた。彼らは、これらのものを手あたりしだいにひっぱり出し、いつも王の食事のときに使用される長テーブルにどっさり盛り上げると、貴賓席とよばれる豪華に飾った椅子を出してきて座り込み、食べたり飲んだりをしだした。


 実は、彼らはもともと妖精ではなく、人間だった。しかも、同胞に対して悪事をかさねる犯罪者だった。特に、彼らは「貪欲」であり、自分の野放図な欲望を満たすためなら、盗み、殺しをいとわなかった。彼らが犯した犯罪は、明らかになったものと隠しているものとを合わせればどんな国の法律でも裁ききれない数にのぼった。しかし、すべての秘密を知っておられる天のお方がそのお力を示され、このふたりに罰をくだした。彼らは人間から、力の弱い悪鬼に変えられ、この城の奴隷にされてしまった。普段は、王や家来たちにこき使われ、一日の行動はなにもかも規則にしばられ、食べる物もパンと水であり、彼らの大好きな酒類などはいっさい禁止されていた。だが、ふたりは逆らわず、日々の仕事をまじめに行なっていたため、周りの者らから安心をかちとっていた。そのために留守番をまかされたのだが、こうして誰の目にもふれられない状況になると、彼らはその本性を表さざるをえなかったのだ。


 フォークとナイフは、それまで禁止されていた期間を取り返そうとでもいうように、食べ物を食べ、酒を呑んだ。それが何日も続いた。それでも、城の中の倉庫にはまだ食べ尽くせないほどのものが残っていた。さらに、こうした日々の中で、彼らはその本性にかなう、残酷なことを思いついた。


「どこかから、家畜を盗んできて、食ってやろう」


 彼らは、肉が食べたいのではなかった。それは、城の中にいくらでも貯めてあった。そうではなく、盗むことや、殺すこと、という悪事そのものが彼らの求めるものだったのだ。


 ふたりの妖精は城の正面扉を勢いよく開けて、扉の鍵も閉めるのも忘れ、夜空へと飛び立っていった。二枚の羽を元気よく羽ばたかせて、鳥にも負けない速度で森林地帯の上空を一直線に突き進んでいた。ふたりは地上から見れば二つの流れ星であった。風のない穏やかな晩であったが、ふたりが通るとビゥン、ビゥンと音がして、風圧のために木の枝や葉がゆれた。葉のうえで休んでい虫の群れが突風にあおられて混乱をきたし、じまんの喉の笛を吹いていたフクロウは警戒して枝の奥に隠れた。


 やがて、ふたりは目的地の草原にたどり着いた。


 上空を旋回してターゲットの様子を偵察していた。飼い主の家の方には明かりはなく、眠っていることがわかった。運がいいと意地悪い笑顔を浮かべ、二人は畜舎へと降り立った。かんぬきを解き、扉を開けた。外の月の光が畜舎の中に舌を伸ばし、その中に妖精の異様な影がさしていた。突然の侵入者に、羊たちの安眠は破られた。みんな闇の中で目を光らせ、警戒を強くした。


「こんばんは、羊さんたち。気持ちよく眠っていたのに起こしてしまって申し訳ない。だけど、君たちには俺たちの願いをどうしても聞いてもらいたいんだ」


 フォークが話し始め、ナイフが後をついだ。


「俺たちはね、飢えてるんだ。とても、とおっても飢えている。何にだと思う?」


 ふたりはクスクスと気味悪く笑った。


「君たちの中から俺たちに食べられたい羊を募集しようと思う。立候補したい羊は素直にそう言ってくれ」


 羊たちはただ事ではない悟り、いっせいに総毛立った。囲いや壁をガシガシと体で押し、警報にも等しい鳴き声があちこちから上がり出した。


「静かにしなさい。静かにしろ! そうだ、そうして大人しくするんだ。まったくそんなに騒いだりしたらいけないじゃないか。こんなんじゃ立候補を募っても無駄みたいだね。ナイフ、困ったな」


「じゃあさ、こうすればどう? 立候補じゃなくて推薦にさせたら?」


「いい考えだ。おい! お前たち、どいつか、俺たちに食べられるのにお奨めの仲間はいるか?」


 畜舎の中はシンとして、どの羊も物音一つとして立てなかった。


「ちぇっ、うんともすんとも言わないや」


「仕方ないよ。俺とフォークとで手ごろな子羊を選んでやろう」


 そこでふたりは、囲いの中に囲われている羊たちを扉の近くから奥の方へ順繰りに点検していった。


「この子羊なんか良さそうだ。丸々として、うまいだろうな」


 フォークは気に入った子羊に触ろうと手を伸ばすと、親羊が出てきてその手に噛み付こうとしてきたので、その前に急いで手を引いた。


「おおっと、危ない、危ない」


 こんなことが何度も続いた。どの子羊も親羊がしっかり守っていて、近づこうとする相手には固いアゴや鋭い角が猛威をふるった。このままでは手ぶらで帰ることになるな、と嘆き合っていたところへ、囲いの中に一匹で震えている哀れな子羊がいた。


「おやおや、君には身を守ってくれる親はいないのかい?」


 怪しい光を宿らせた四つの目は闇の中より子羊の全身をジロジロと観察した。


「これは好都合なのが見つかった。きっとみなしごだぜ」


「かわいそうにねぇ。でも、俺たちにはうれしいねぇ。うへへ」


 ナイフはツバを飲み込んだ。ふたりは檻をあけて、囲いの中に入り込み、子羊を取り囲んだ。


「見なよ。さっきまでのやつらはみんな白かったのに、こいつだけ黒のまだら模様がある」


「本当だ。牛みたいだ」


「これじゃ、色のせいで仲間はずれにされていたんじゃないかな。おいみんな! 俺たちはこれらからこの子羊を連れて帰って、殺して、台所で調理して、熱々のうまい肉料理にして、腹いっぱい食ってやろうとしてるぞ。こいつを連れて行ってもかまわないか?」


 どの羊として、声を上げるのはいなかった。


「あらら、抗議の声はなし。仲間が連れて行かれるというのに、わが子のこととはえらい差だ。やっぱりこの子羊は仲間に冷たくされている、かわいそうな子羊らしい」


「そんなかわいそうなやつを、俺たちは持っていっていいの?」


「まったくつらい話だぜ」


 四本の腕が子羊を捕まえた。しかし、子羊でも、敵の思惑通りにいかせるものかと激しく抵抗し、物凄い力で反発した。暴れる子羊に、妖精ふたりはどうにか抑えつけようと汗をかいていた。

 

「くそっ、いやに暴れるなぁ。おい、おとなくしくしろ!」


「フォーク。俺たち、こいつを連れていたら飛べないよ!」


「仕方がない。ナイフ、こいつから足をもぎとれ」


 フォークが全身の力をつかって子羊を持ち上げている間に、ナイフは暴れる足の一本をつかむと、ぐいっと引いた。足は根元からスポンと簡単に抜けた。まるで接着剤でくっついていた粘土の足のようだった。その調子でたちまち四本の足は地面に落ちてしまった。ところが、抜けた箇所からも、抜けた足からも、血らしきものはいっこうに吹き出る気配はなかった。フォークの腕の中に残った子羊の胴体には、足のあった痕跡はきれいさっぱり消え、毛深い団子のようだった。足の方でも、先に蹄のついた木の棒と聞かされれば納得できそうだった。


 足を引き抜かれたというのに、子羊は悲鳴さえ上げなかった。痛みはない様子だった。それでも、生まれて初めて体験する違和感に困惑して、しばし暴れるのも忘れていた。


「よおし、楽になった。さっさと帰ろうぜ」


「待ってよ。足も持って行こうよ」


「いいから、ほっとけ。胴体だけでも十分な量だ。それより、ナイフも片方を持ってくれ。重くてならないよ」


 妖精たちは子羊の胴体を担ぎ上げると、城へ引き返すために畜舎から夜空へとまた飛び立った。

 

 あくる日、早朝。仕事のためにカップは寒い空気をがまんして起き出した。外の草原には濃い朝もやが立ち込めて、草原をすべっていた。露にぬれている花は動物と同じく眠っているように花びらを下に垂らしている。もやに隠れて姿は見えないが、早起きの鳥が上空でかん高く鳴いている。小さなイタチのような獣がエサの虫を求めて草の間を這い回っている。カップ少年は火をおこして温めたミルク一杯を腹におさめると、昨日のうちに用意しておいた携帯食のパンをいれた子袋を持ち、厚い毛皮のマントを身にまとい外へ出ていった。


 風のない穏やかな朝であったが、空気は氷結したかのように硬く、冷たい。湿りついてくる水気がたちまち手などの末端から温度をうばっていく。それでも、太陽が昇りさえすれば徐々に気温も上がり、昼頃には心地良いそよ風が森から吹いてくるであろう。特に今日のようなガラスじみた清気の朝は、気温が上がってからがすばらしい天気となるのだ。カップにはそれが楽しみであった。


 畜舎に入り、羊を草原に放す前に、一匹一匹を検査することにした。昨晩、妖精たちがやったように扉から奥の方へ順繰りに囲いの中をのぞいてまわった。しかし、ほどなくして彼は羊たちの様子がいつもと異なることが気にかかった。何かに怯えて警戒心が強く、そこにいるのが飼い主の少年であるとわかっても落ち着きのない目をして彼の方をジッと見つめていた。いつもならば彼が来ると歓迎の鳴き声を聞かせてくれるのに、今日はいやに静かであることも少年の心に引っかかった。特に変なのは親羊であった。子羊を懐にかばってかたくなに他者に目に触れさせたくない様子をしていた。首をひねって検査を続けていたカップは、ついにマグの囲いに来た。


 そこにいるはずのマグがいないと分り、彼は驚いた。最初は、マグが畜舎から逃げ出したのかと思った。だが、すぐに思いなおした。あのマグが脱走を企てるはずがないし、普段からまともに歩けもしないのに鉄の柵を越えられるはずもなかった。では、どうしていないのか。


 彼は囲いの中に直接入って調べてみることにした。彼の目はすぐに地面に転がっている奇妙な四本の棒にすいよせられた。それはよく見慣れた羊の足であった。それだけでも胆が冷えることであったが、さらに少年を恐怖させたのは、その中の一本にマグが持っていた腫れ物ができていたことだ。


「ああっ!」


 思わず声がもれた。その小ささ、特徴から、そこにあるのがマグの足であることは明白であった。しかし、なぜ足だけなのか、胴体はどこにいってしまったのか。


 少年は恐ろしい空想をした。夜、にごった黄色の眼をギラギラ光らせた獰猛な野獣が、息を殺して畜舎の中に侵入し、少年の愛しい子羊に爪と牙をむき出すのを。


 少年の体はブルリと震えた。それが空想にすぎないことはわかっていた。畜舎の扉はしっかり閉まっていたのだから、四足の動物が入れるわけがない。とはいえ、全然ありえないとも限らない。とにかく、マグの身に異常な出来事がおこったことは事実であった。


 そうしていると、少年は突然、地面の物の変化に気づいた。四本の足が、動き出したのだ。


 少年は、思わずうしろに退いた。目をみはってことの成り行きを眺めていた。四本の子羊の足は、ピクピクと関節を折ったり曲げたりしていたが、やがて前右足にあたる足が立ち上がると、今度は前左足も同じように立ち上がり、ついに後ろの二足も立った。

 

 カップはさっきとは別の恐ろしさのために震え上がった。切り捨てられた足がひとりでに動き出したのだ。どうしてよいのか考えつかず、混乱はふくらむばかりだった。


 そうしていると、足は歩き出した。そう、まるで、足の上には胴体がちゃんとくっついているのだけれど、透明になって、目には映らなくなっただけだとでも言わんばかりであった。足が自分の方に近づいてきたので、それがマグのものであるとはわかってはいても、あまりに異様なため、ついバッと避けてしまった。足は囲いの外に出ると、テクテクと蹄を鳴らして、畜舎の出入り口へと歩いていった。


 カップは恐る恐る、その後をついていった。

 

 ついに日は昇り、山々の頂をバター色に染めたのち、金色の光線は丘の草原にも降り注ぎ、立ち込めていた冷たい朝もやをぬぐい去った。草原は寂として、いつもの羊の群れは一匹もおらず、かわりにその真中を一組の影が通る。血の気がなく顔をこわばらせた少年と、その前を行くのは四本の蹄のある獣の足である。


 足は丘を下りて行き、やがて草原の終わりにある森へと入っていった。カップは森の入り口で歩みを止めた。彼は、普段なら森へは絶対に入らなかった。森の中には狼や熊などの野獣が住んでいるので、それらと出会わないためである。だが、手がかりの足は森の中へと休みなく進んでいく。このまま迷っていたらたちまち木々の陰のために見失ってしまう。カップは決意し、森へと入っていった。


 さて、朝になると、フォークとナイフは草原へと引き返してきていた。彼はまだ、盗んだ羊を食べてはいなかった。城に運んだあとで、やはり置いてきた足も料理したいという話になったのだ。


 彼らは森の上空を飛んでいた。その時、彼らは森の中を行く少年の姿を認めた。そちらに興味をひかれ、音を立てずに樹木の上におりてきて、葉陰にかくれ、様子をうかがった。


「あの子はどこに行くのだろうね?」


「さあね。それにしても、あの子の前にあるあれは何だい? 不思議だ!」


「あれは足だね。しかも、よくよく、見てごらん。右後ろ足にコブがある。あれは俺たちが昨夜、もぎおとした子羊の足ではないだろうか!」


「なるほど。不思議だ! 不思議だ! ということはね、やっぱりこの子らはどこへ行こうとしているのだろうね。」


「決まっているさ。あの足がくっつく体のあるところ。つまり、俺たちの城さ!」


「ではでは、願ったり叶ったりだね。俺たちの望んだものが、向こうからやって来てくれるなんて。さっそく捕まえて丸焼きにしてしまおう」


「まてまて。あの子はだれだい? きっと子羊の飼い主さ。かわいい羊がうばわれたので、勇気を出してここまで探しに来たのにちがいない。」


「ほうほう。それは良いことだ。でも、困ったことだ。俺たちには邪魔でしかない。あの子を黙らせて、足だけもらう方法はないものか。」


「いや、あの子も城に招待しよう。子羊で宴をする前に、あの子をからかって遊んでやろう。ただ食べてしまうよりも、その方が楽しい。」


「名案! 名案! そうしよう! そうしよう!」


 ふたりは、木の上から声を出した。


「おーい、そこの子! お待ちなさい!」


 カップ少年は驚いて、上を見上げた。しかし、姿を現した妖精を見て、彼はさらにビックリしてしまった。


「恐がってはいけない。僕たちはやさしい妖精さ」


「そうそう。とっても優しい。あの、おっかない熊や狼に比べたらね」


 熊や狼と聞いて、少年はびくびくと質問した。


「やっぱりこの森には、熊や狼がいるの?」


 フォークが答えた。


「いるよ! この近くにいたっておかしくないくらいにね。」


「それだけじゃないよ。もっと恐いのもいる。毒の蜂は一噛みで大人を死なせてしまうし、大きな蛇なんか木の上から下をとおる獲物にむかって襲ってきたりするんだぞ」


 少年は、彼らの話を信じて、今にも泣き出しそうになった。


「大丈夫だよ! 僕たちが助けてあげる。」


「君の行きたい所まで僕たちが守ってあげるよ。」


 少年は希望に輝いた顔をした。


「ほんと?」


「ほんとだとも。それで、君はどこへ?」


 少年は、四本の足を指さして、今朝からの出来事を説明した。


「朝、起きてみたら……このマグが、足だけになってて……そしたら足が動き出して……僕は、どうなっているのか知りたくて……ついて歩いてて……」


「そうかそうか! でも、問題はもう解決かもしれないよ。」


「え? どうして?」


「なぜなら、マグは僕たちの家にいるからさ!」


「そんな!」


「マグをさらったのはこの僕たちさ! 足を残していったのも僕たちなんだよ!」


「マグを返して!」


「返すとも! 僕らは、君の真剣な愛情に感動してしまったんだ。今から君を、僕らの家に案内する。そして、マグを元に戻したら、また無事に草原まで送り届けてあげるよ」


 少年は、彼らの言葉を信じた。そして、先に行く彼らに従って森を抜けていった。


 道中は、幸い、猛獣や毒虫などとめぐり合うこともなく、安全に進んだ。ただし、完全な獣道である森の中を歩いていくのは大変なことだった。しかし、妖精たちは比較的安易な道筋を選んでくれたので、後をついていく少年と足は余計なことに気を使わずにすんだ。


 やがて、空の太陽が赤くなり、ようやく峡谷の城へと到着した。少年はへとへとに疲れきり、地面に座り込んでしまった。


 一方、妖精たちにはまったくその色はなく、むしろいっそう楽しそうに笑っていた。


「ようこそ、僕らのお城へ! さあ、入ってどうぞ!」


 フォークとナイフが扉をあけると、マグの足は中へかけこんでいった。疲れていたカップもそれを見て、体を起き上がらせ、後を追いかけていった。フォークとナイフも内側にすべりこむと、扉をガチャリと閉めた。


 玄関の広間では、カップ少年と、足がついて元に戻ったマグとが抱き合っていた。少年は、黒白のぶち模様のうすい体毛に顔をおしつけて、声を出さずに泣いていた。子羊も、遠い道を自分を探すために来た情厚い飼い主にこたえるように肩に自分のアゴをこすりつけた。


 少年は、本当に愛おしいという気持ちを、背中を何度もなでさする、右後ろのコブの部分をなでて慰めるなど、口にする前に体でもって表していた。事実、長い距離をほぼ休みなく歩きつめたために、マグの足にはかなり負担がかかり、特にコブのある右後ろ足などは力も入らないらしく、今にも崩れ落ちそうに震えている。それでも、少年と喜びを共に分かち合うために必死で体を支えていた。


「よかった! よかった!」


 少年はただ、「よかった」の一言しか言えなかった。それだけが何度ものどもとに上がってくるのだった。子羊もまた、彼にこたえて鳴いた。


 そうしていると、ふたりの妖精がかたわらに立った。


「本当によかったね! 感動の再開だね!」


「なんてうるわしいのだろう! 君たちくらいに心の結び合った羊飼いと羊が他にいるだろうか! 君たちのいる草原は幸福だ!」


 カップは、服の袖で涙をゴシゴシとぬぐい去ると、妖精とマグの間に、マグをかばうように立ちはだかった。


「君たちは、どうしてマグをさらったの!」


「食べるためさ!」


「食べるだって? 僕のマグを!」


「でも、食べない。安心して! 僕らはね、心を入れかえたんだ! 君たちのおかげで幸せな気分さ。どうかこの城と僕たちを祝福してちょうだい!」


「それじゃ、僕とマグを草原に帰してよ。そういう約束だったよね?」


「約束は守るさ! でもね、窓の外を見てごらん。お日様は沈んで、外はもう真っ暗だ。」


「こんな時間に外に出るなんて危険だよ。夜の森は恐いところだ。木の陰には、狼の群れが獲物をもとめて隠れている。」


「狼なんて出なかったじゃないか!」


「やつらは利口なのさ。昼よりも、夜のほうが狩りのしやすいことを知ってる。それで、今もこの城の外の近くで、君が出てくるのを隠れて待っているんだよ。」


 ちょうどその時、森のどこかで狼の群れが呼び交わしているのが聞こえた。少年はすっかり青くなってしまった。


「日が出たら……朝になったら、送ってくれるの?」


「そのつもりさ!」


「約束する?」


「大約束だ!」


 カップはひとまず納得した顔をした。


 マグはいまだに不安そうに体を飼い主にすりつけていた。妖精らが声を出したり、近づいたりすると、かわいそうに彼はぶるぶるとおびえて、少年の小さな体の陰に隠れてしまいたそうだった。


 フォークとナイフは、ぶうんと羽をはばたかせ、空中に浮きあがった。


「君たちはお腹がすいているだろう? 何も食べずにここまで歩いてきたんだから。」


「うん……ペコペコだ……」


「この城には食べ物がたくさんある! こっちにおいで!」


 少年と子羊は、妖精らのあとに従って、立派な扉のある所にいった。


 扉が開かれると、とてつもなく香ばしい空気が少年にふりかかった。


「こ、このにおいは、何?」


 嗅ぎなれないにおいに、少年はつい顔をしかめ、鼻をおさえてしまった。


「肉料理だよ! うまそうだろ?」


「肉だって! 何の肉なの?」


「牛や、豚や、鳥や、馬や、猪や、熊や、兎や、狐や、狸や……」


「そして、羊だね」


 最後の言葉に、カップ少年は体がふるえるのを感じた。


 そこは、大きな食堂であった。本来なら、王様が貴賓客をもてなすのに使われる場所であり、それは華やかな飾りつけがされている。中央には縦に長い大テーブルが置かれていた。漆黒の木を組み上げた重厚な品であった。その上には数限りない料理が山をつくって並べられており、すべてが湯気と油気をただよわす肉料理であった。


 少年は圧倒されて、扉のところに立ちすくんでいた。


「さあ、どれでも好きなものを、好きなだけめしあがれ!」


「い、いやだ! 僕は食べない!」


「ええっ? こんなにあるのに満足できないの? まるで北半球に住む国民のようだね。」


「そうじゃないよ!」


「僕たちはずっと昔にそういう人の食事をこの目で見たことがあるよ。彼らときたら、お金持ちでもないくせに、夢みたいな食べ物の数々をてきとうに買ってひと口かふた口かじったら、あとはもう興味もなさそうにゴミに捨ててしまうんだからね。」


「君はその人の子どものようだ。その子というのが傑作でね。母親が彼に食べさせようとしても、全然言うことを聞かずに、ペットの犬を棒で叩いたりして遊んでいるんだからね。しまいにはその母親も、その子に脳天を叩かれたっけ!」


「ちがうよ! ちがうよ! 僕は動物の肉なんて食べないんだ!」


「うそだ! それじゃ、君はいつも何を食べているんだい?」


「ミルクとか、豆とか、野菜だよ。あと、木の実……」


「野菜だって! 木の実だって! まったく血の気が引くことを言わないでくれ!」


「僕らはそんなものは大嫌いだ。パンも水も大嫌いだ。僕らは肉がいい!」


「君たちはそうしたらいいじゃないか。僕は、遠慮するよ……」


「だめだね。僕らの好意を踏みにじるなんてゆるさないよ。絶対に肉を食べてもらう。」


「そんな! それに、マグはどうなるの? マグに食べさせられる草はあるの?」


「その子には野菜をあげよう。」


「僕にも野菜を食べさせて!」


「だめだ! 君には僕らと同じ物を食べてもらう。そうでなければ、何もあげない!」


 こうして、カップとマグは部屋のすみに追いやられた。少年は床の上でひざを抱え、皿に盛られた青野菜を食べるマグを見ていた。妖精たちはといえば、旺盛な食欲をむきだしにしてテーブルのあちこちを行ったり来たりし、「ああ、この牛のももは最高だ」とか、「この肝がうまい」とか、わざと少年の耳にはいるように声を出すのだった。


 少年は、そんな彼らを時折眺めては、気持ち悪そうに顔をしかめるのだった。


「動物の肉を食べるなんて、信じられないよ。どうかしてるよ。」


 少年は、また慈愛にみちた目を野菜を食べるマグの姿に注いだ。すると急に、お腹がキュウッとなった。少年はあわてて腹をおさえた。妖精らに聞かれたら面倒なことになると思ったからだ。


 マグはふと、顔をあげ、飼い主の様子をしげしげと観察した。そして、頭を皿にコツンとぶつけ、食べかけの野菜を少年にさしだした。


 それを見て、少年の目は涙でうるんだ。


「いいのかい? ごめんね……」


 残り少ない野菜をひろいあげ、そっと口にいれると、噛みしめるように静かに食べた。

 

「今夜だけの辛抱だからね。明日になればまたあの草原に帰れるからね。そうすればもう安心だから。がんばろう。」


 それは、マグを慰めると同時に、自分自身にも言い聞かせる言葉だった。


 ところが、それを妖精らに見られていた。


「あ、あ、あ! なんてことだ。君という人はひどいやつだ。僕らの温かい好意はがんこに拒んでおきながら、這いつくばって、家畜のえさはうまそうに食うだなんて!」


 ナイフの言うように、少年はべつに這いつくばってなどいなかった。しっかり手で拾って食べていたのだが、非難するためにわざとそう言ったのである。


「ひどするぎるっ! ブベツだ。ブジョクだ。クツジョクだ。お客様にこんな仕打ちをうけたのは生まれて初めてだ。これはどうにも動かしようがない。腹の虫があばれておさえられないよ!」


「ゆるして! だってしょうがないでしょ! 僕は本当にこれしか食べられないんだ。」


「君はマナーを知らないね。人から出してもらったものは、自分が嫌いでもありがたく頂いておくべきなんだよ!」


「あんまりだよ。そんなのってないよ。」


「君は、僕らを怒らせてしまったね。こうなったからには、明日、君と君の子羊を家まで送るという話はなしだね。」


「ひどい!」


「ひどいのは君だ! でも、反省して謝るっていうなら考え直してもいいよ。」


「ごめんなさい。まちがってたのは僕でした。」


「よろしい。素直さは世の中を生き抜く尊い知恵だ。では、反省したのなら、僕らといっしょに食事ができるね? 僕らは楽しみにしているんだよ。」


「それが、明日をよい日にするただ一つの条件さ。」


 少年は、両手をかたく握り、口をぎゅっと結び、無言で、うなずいた。


 フォークとナイフは、カップの右と左に立つと、腕をつかんでテーブルまでグイグイとひっぱっていった。体の小さな男の子には不つりあいなドシンとした肘掛け椅子に押し込むと、焼いた骨付きの鳥肉を口もとにさしむけた。


「食べてごらん。目から火花が散るよ!」


「髪の毛がさかだつよ。足がぬけてしまうよ!」


 それから立ちのぼる熱とこげた臭いに、顔をなでられると思った。少年は、胸が悪いのがおさまらなかった。がまんして、口をあけたが、食べ物を前にしてあごに重しがついていると感じたのは生まれてはじめてだった。少年の豆粒のようなコロコロした歯が、油をしみださせる興奮した悪漢のようなものに食い込んだ。瞬間、白く、細い、少年の首筋が強くこわばった。ひたいから鼻筋にかけて汗が流れ落ち、あごにとまって雫となり、その玉汗が落ちる時に少年は肉をかみちぎり終わった。


 彼に肉をさしだしていたのはフォークであったが、その手にあるものには猫がかじった程度のあとが残っていた。もう片方にいるナイフは、地上のねずみを見つめる鷹の眼差しで何もいわず少年の動く口を見ていた。少年の首筋は今度は飲み下しのために力が入り、そして、ゴクリと鳴った。


 三者沈黙。その間およそ十秒だった。


「どうだい? うまいだろう?」


「………うん」


 その答えに気をよくして、妖精らはニヤリと笑った。


「君が口をつけたこの肉は最後まで食べるんだ。そうじゃないと、明日の約束はなしだよ!」


「………うん」


 少年は、さして抵抗するそぶりもみせず、フォークから渡された鳥肉をむしゃむしゃ食べた。すぐにそれは骨だけになってしまった。


「次はこれを食べてみないかい? 次はこれも」


「うん」


 目の前に次々と寄せられる皿。鳥や牛や豚。少年はどんどん食べる。もくもくと口を動かす。顔は汗の玉でびっしょり濡れる。少年の清潔だった手の平は、すでに動物性脂肪と数週類の調味料のためにてらてらと光っている。そんなことはかまいもせずに、少年のペースは早まっていく。しかし、それと平行して、ひと噛みごとに彼の瞳からは精気が失われていった。


 やがて、少年の胃袋に限界がきた。


「……もう、食べれない。」


「そのようだね! こんなに食べてくれて僕たちはうれしいよ!」


「明日はちゃんと君の家まで案内するから。」


 テーブルの上には、少年と妖精らがつくった空の皿のほかにもまだ料理が残っていた。だが、妖精らは、客人のまわりで立ち働く主婦のようにせっせとそれらを片づけてしまった。


「明かりは消すよ。寝るところはてきとうに。おやすみ。」


 それだけ言い残すと、暗くなった大広間に少年を置いてふたり共どこかへ消えてしまった。お客に寝室を与えることさえしなかった。


 窓からは月のほのかな明かりが入っていた。少年は、慣れない物を食べ過ぎたのと、その他にも多くの理由で胸焼けに苦しんでいた。ギイッと椅子をすべらせ、立ち上がると、窓辺の月の下でひざを折り休んでいるマグのところに行った。いつものようにマグの背をなでるつもりだった。だが、そこで少年は、自分の手が汚れていることに思い至った。


 少しの間、躊躇していた。結局、手を握りしめると、マグには触れず、床の上に横になった。マグといっしょに光の下にいることはできず、意識的に暗闇の中に自分の位置を定めると、マグには背を向けた。今までに一回としてなかったことだった。


 少年が寝入ると、交代してマグが目をさました。耳をピンと立て、少年が自分から離れた場所にいるのを知ると、歩いていって少年の背中に身をくっつける形に座りこんだ。そして、ふたたび眠った。


 次の日。窓の外をみると空は灰色に曇り、朝からの雨がジョウロで水をまく音をさせていた。カップは、窓の所に立ってにぶく光る空を眺めていた。彼には昨日までの元気が見受けらず、わずかなうつ気がその顔に表れていた。彼のそばにはマグがいて、飼い主と同じく外を見ていたのだが、少年はやはり子羊に触れようとはしなかったし、目を向けることさえしなかった。少年と子羊の間にはわずかな間隔があいていた。


 静かであった大広間に、突然、ふたりの妖精、フォークとナイフが現われた。


「おはよう! 昨日はよく眠れたかい?」


「そりぁ、眠れたことだろうよ。なにせあんなにたくさん食べたんだから!」


「………家に帰れるの?」


 少年は、ふらりとよろつきながら妖精らにふりかえった。


「そのことだけど、申し訳ない! 今日は行けないんだよ。」


「この天気のせいだ! すべてはこの天気が悪いんだ!」


「………どういうこと?」


「僕らの羽を見てごらん。とてもうすいだろう?」


「妖精の羽は水気に弱いんだ。雨に日に外へ出たら、たちまち役に立たなくなってしまうのだ!」


「歩いてはいけるだろう?」


「だめだね! 君は、鳥が足だけで朝から夕方まで地上を歩き通せると思うかい? 僕らは足の力が弱いんだ。途中で力尽きてしまうよ。」


「おねがいだ。僕らの命を守ってくれ。そうすれば、僕らも君の心を尊重しよう。わかるかい? 僕らへの思いやりは、自分への思いやりでもあるんだ。」


「わかった。……でもなんとなく、こうなる気はしていたんだ。」


 少年はしょんぼりと答えると、また窓へと顔を向けてしまった。


「腹を立てないでおくれよ。ほら、もうすぐ朝食にするから!」


「お腹が満ちれば、幸せさ。イライラも、ショボショボも、なんにも治っちゃう。物事は腹から始まるのさ!」


 妖精らは、テキパキと働いて、大テーブルの上に料理を並べはじめた。少年は、皿が鳴るカチャン、カチャンという音を後ろから聞き、時間とともに部屋のなかを変えていく肉のにおいを嗅いでいたが、打ち沈んだ表情がくずれることはなく、窓の外を眺めてばかりいた。


 朝の食事の用意ができた。予想するまでもなく、肉料理ばかりであった。熱をだす油のかたまりが、部屋の湿気を異様なものにさせていた。火であぶった物らの香気そのものに味があるようであった。


 自分を呼ぶ声に、しかし少年は無言で椅子に座った。近くの皿をひきよせると、上にのっている肉を手でつかみ、かぶりついた。彼の動作はどこか投げやりで、乱暴ささえ感じさせた。心のなかにたまった憤激や鬱憤を、そのことにぶつけているのだった。食べれば食べるごとに、心はうつろになっていくのに、それをやめることができなかった。



彼のひと噛みは、

くもの巣にかかった蝶のばたつき。

暴れるごとにくもを誘い寄せる。

じっとしていることができないのだ。

どうして黙っていることができよう? 

一度、わなに落ちれば、

あとは運命のギロチンを待つだけだ。

錯乱した蝶に二重の意味がある。

ひとつ目のばたつきは

「助けてくれ」の叫び。

ふたつ目にばたついて

「終わらせてくれ」と乞う。

くもよ、退け。

くもよ、来てくれ。

七つの赤い目にうつった蝶、

愚かしくも悲しい生命の歌、

その牙がむきだされる時、

くもは理解してくれるのか?



 そうして、食事がおわった。少年は、またしても限界までふくらんだ腹のために苦しげに息をしていた。テーブルの上がかたづけられる。少年は、腹を休めるため床に大の字に転がる。まだ日も高いのに、そのまま眠ってしまった。


 その日は、朝から晩まで、雨が降りつづいた。昼、少年は妖精らにおこされ、腹いっぱいに動物の肉をつめこみ、眠った。夕方、少年は妖精らにおこされ、腹いっぱいに動物の肉をつめこみ、眠った。その晩、大広間にはグーグーという下品ないびきが鳴った。


 カップとマグが城に来てから二日がたった。その日は前日までの雨模様から一転、空の底がぬけたように晴れ渡った。雲などどこへやらに注ぎだされて一つとして浮かんでいない。さんさんとした太陽の一人舞台であった。あのなつかしい草原に帰るには絶好の機会といえた。しかし……


「まあまあ。前途は長い。とりあえず腹ごしらえをすませないと。」


 少年は文句もいわず、それどころか自分からいそいそと席につき、前日からつづく暴飲暴食をくりかえした。そしてさらに、食べ終わったあとのこと。


「ごちそうさまでした。」


 彼の口は、こんな冒涜のことばさえ吐いた! 向けるべきではないものへ、出すべきではない状況で、神聖な感謝の言葉を使ったのだ。この城へ来る前と、来た後の少年の変化は、ここまでに至ってしまったのだ。


 食事の後、少年は例によって眠ってしまった。そのせいで貴重な日中の時間をまるまる浪費し、起きてみればすでに夜中になっていた。


「だって、あんまり気持ち良さそうに寝ていたから、起こせなかったんだよ。僕らの優しい心をわかってくれ。」


「帰るのは明日にしたっていいじゃないか。ほら、食べて食べて。」


 少年はべつに怒ることもせず、もう慣れた風に席についた。愛しいたくさんの羊たちを残してきて、一刻もはやくつかねばらぬ帰路をむざむざ逃してしまったその晩は、とても楽しい夕食になった。


 こんな調子で七日がたった。そのころには、少年には最初のころにみられた鬱気は消え失せ、明るさが戻っていた。いや、それは以前とは別種の明るさといえた。粗雑で、粗暴で、いやらしい明るさだった。彼の笑い方には、なんとも耐えられないゆるさが混じるようになった。それで、時としてはまったく別人に見えることもあった。


 また、少年と妖精らは仲良しになっていた。今の彼らの食事は以前までの無言の格闘ではなく、和やかな団らんと化していた。おしゃべりをしながら余裕しゃくしゃくと肉をほおばる姿は、すっかりサマになっていた。


 食べて、寝て、妖精らとなれあう生活のなかで、しだいにマグの存在が希薄になっていった。食事時にはしっかりと野菜を与えられるが、それ以外ではほとんどほうっておかれていた。そんな毎日で、マグは時々、不満げな目を飼い主にむけるのだが、少年はマグをずっと無視していたので、だれにも気づかれなかった。


 ある時、少年は、それまでしきりに避けていた羊の肉を食べてみることにした。妖精らに促されてのことだったが、自分でも興味があったことは事実だ。その体験を、少年は一生忘れないだろう。口から入り、胃袋に行くまでの間、体の奥から湧きあがってくる冷たい水が全身を回るのを感じた。腕や足の筋肉がけいれんした。それはまさしく、裏切りの毒であった。ここが垣根であり、少年は飛び越えてしまった。 それから先、彼には躊躇する物は何もなくってしまった。


 一ヶ月がすぎた。この間にいろいろな日があった。天気の悪い日や、よい日。帰るのはいつでもよかった。だが、カップはすでに家に帰る意欲を忘れているようであった。時々、帰りたい旨をにおわせることもあったが、それは妖精らが全力で打ち消してくれることをわかっていて言うのであって、引き止められればしばらくは口にも出さないのだ。彼の心は変ってしまって、いつまでもダラダラとしていた。


 また、変ったのは心だけではなかった。見た目もそうとう変わってしまった。以前は、乾いたそよ風と草原の寂寥がにあう貧しい少年であったのが、いまや腕といわず腹といわず体中のどこにも肉がついて、マルマルコロコロした太っちょになってしまった。下あごにたまった肉など、動くたびにフルンフルンとゆれる始末だ。


 フォークとナイフは、そんな少年を満足そうに見ていた。彼らの思惑通りに事が運んでいたからだ。そこで、彼らはついに最後の仕事にとりかかることにした。それは、三人がいつもの通り、大量の肉料理をテーブルにつみあげ、口と手をせっせと動かしている時のことだった。


「ねえ、君がここに来て、どれくらいたったと思う? 一ヶ月だよ。」


「そうなんだ。もうそんなにたったんだ。」


「これまでいろいろなお肉を食べてきたね。」


「うん。牛や、豚もいいけど、ねずみや、蛙もよかったな。」


「ここには世界中の動物の肉がそろっている。君はもうこの世の動物という動物を味わい終わってしまったのさ。」


「そうなんだ。」


「でもね、最後にたったひとつだけ、君が逃している肉がある。君の一番『愛しているもの』だよ。」


「僕が愛しているもの?」


 妖精らはしきりにあごをしゃくった。少年がふりむいてみると、壁際においやられて寂しそうにえさの野菜を食べているマグがいるのみであった。少年は、言われた意味を理解して驚愕の表情をした。


「そんなことできないよ! どうしてそうする必要があるの?」


「それが最後の美食だからさ。君はマグが好きだろう? かわいいだろう? そのマグを舌で味わった時、どれだけおいしいのだろうね?」


 少年は、妖精の言葉に酔わされたようにうつろな瞳になると、ごくりとよだれを飲み込んだ。


「おいきなさい。いまや子羊は肥えて食べごろだ。君の欲望のままにやればいい。」


「………うん。」


 少年は立ち上がり、ふらりふらりしながらマグのところへ行った。フォークとナイフは顔を見合わせて、ヒソヒソと話し込んだ。


「俺たちにも昔、こんなことがあったな。」


「この世でもっとも愛する者をあやめてしまった。」


「俺は妻を亡き者にしてしまった!」


 フォークの目から涙が流れた。


「俺もだ! どうしようもないアレクレ者だった俺を心の底から愛してくれた。俺なんかにはもったいない女だった。」


 ナイフもまた泣いていた。


「そのおかげで、俺たちはいまはこんな姿になっちまったんだな。背負った罪の重さははかりしれない。」


「あのボウズにも同じことをさせる。俺たちと同じ罪を背負ってもらう。そして、俺たちの仲間になってもらうんだ。なにせ、さびしいからな。」


「そうだな。さびしいものだ! 罪人というのはさびしい!」


 彼らの顔は絶望にみちていた。


 後ろでなされている会話など知る由もなく、少年は「マグを食べる」という新しい目的に夢中となっていた。マグもこの一ヶ月で成長し、前よりも大きくなり、肉つきもよくなった。まさしく、「食べごろ」といえた。


 マグは、こちらへ来る飼い主の様子が尋常でないのに気づいた。いつもならば、少年にかけよって体をすりつけるのに、今は毛をさかだてて警戒し、少年の一歩ごとに壁の方へ後退していった。


 少年は、そろりそろりいくのにたえきれなくなったのか、勢いつけてかけていき、一気につかまえようとした。肥満した体からは思いもつかぬ俊敏さだった。しかし、彼よりも早く反応したマグは少年の手を逃れていった。彼が壁に手をついて時には部屋のはしにまで去っていた。


 少年は、轟然と走り出した。おいかけて、つかまえようというのだ。子羊も、急いで逃げた。もはや、昔時の羊飼いと子羊の関係ではなかった。捕食者と被捕食者の関係であった。


 妖精らは泣きながら、奇妙な風に笑い出した。


「あはは! 逃げた、逃げた! ほらほら、はやくつかまえないと!」


「追いかけて、逃げられて! このまま日が暮れてしまうよ!」


 彼らの「あはは」「あはは」という笑いは、次のことで即座に断ち切られた。


 城の表から大声がおこったのだ。


「王の帰還だ! 扉を開けよ!」


 それと共に、いくつものラッパの音楽が鳴り響いた。


 妖精らの顔面は蒼白になり、周章狼狽の様子だった。


「王様が帰ってきちゃった! どうしよう、どうしよう!」


「全部かたづけてしまわないと! 王様をお出迎えしないと!」


 しかし、彼らがモタモタしているうちに、表では業を煮やして、出迎えを待つまでもなく城の中へと入ってきてしまった。そして、大広間の扉はあけられ、王様と家臣の全員に、彼らのしでかした全てを見られてしまった。


 スプーン王は、かんかんに怒った。


「この有り様は一体どういうことだ? なぜ我が食事席がこうも汚れているだ? それに、そのうるさく走り回っている肉玉と毛玉はなんだ? ええい、言い訳するな! 我のいない間、貴様らは我のいいつけを聞いて城を守らず、好き勝手に遊んでいたのだ。弁解の余地など与えない。我はいまこの瞬間、貴様らにそうおうの処置を命ずる。死刑だ!」


 妖精の奴隷、フォークとナイフは、首に大きな石をくくりつけられ、深い谷底に落とされてしまった。


「この人間と獣を城から追い出せ! やつらは、こいつらを森の向こうの草原から連れてきたそうだ。そこまで運んでいって、捨てて来い。」


 王の命令で、妖精の群れは少年と子羊を縛り上げてしまうと、大空を飛んで森をこえていき、なつかしの草原へと彼らを帰してくれた。草の上に放り投げると、妖精たちはすぐにいなくなってしまった。


 さて、カップはまだよだれを垂らして子羊を追いかけた。子羊もまたそれを知って逃げた。彼らは城にいたときと何も変らず、追いかけっこを続けていた。


「食べてやるぞ。マグ、おまえを食べてやるぞ。」


 少年はそう言い続けながら、マグを追って草原のうえをぐるぐる旋回していた。


 一方、畜舎にいた羊達は、カップとマグが帰ってきたことを知り、畜舎の中から顔をのぞかせた(一ヶ月前、少年は畜舎の扉を開けっ放しにしていた)。少年は、羊達を見ると、大声でどなった。


「マグの次はおまえたちだ! みんな食ってやるぞ!」


 その乱暴で、下品な声に、羊たちは恐がり、畜舎の中に隠れてしまった。


 少年とマグの追いかけっこはずっと続いた。いつまでも続いた。草原に着いたころは日も高かったのに、もう夕方になった。それでも止まらなかった。夜がきて、かがやく星空の下でもまだやっていた。朝が来て、新しい太陽のみおろすところでも飽きもせず続いていた。彼らは三日も止まらなかった。


 しかし、ついに終わりの時がきた。少年は疲れきり、草の上に倒れてしまった。苦しげそうに息をして、腕一本と動かせそうにない。


 マグは、かなり離れたところから少年の様子を観察していた。こちらも疲れていたが、もし少年が起き上がったらまた即座に逃げ出せただろう。


 こうして、彼らは動かなかった。少年は倒れ、マグは座り、そのまま時間が過ぎていった。


 さらに七日がたった。少年は倒れていたが、生きていた。彼はすっかりやつれ、ついた肉はすべて落ち、前の貧しい身なりに戻っていた。水も食物も何も口にしていなかったので、唇はかさかさに乾き、肌には血の気がなかった。このままでは命はないものと思われた。


 マグは彫像にでもなったように動かなかった。マグもまた、何も食べていなかった。少年と苦しみを共にしていたのだ。しかし、この時、やっと動き出し、少年へと近づいていった。まず、自分のひたいで少年のあたまをこつんこつんと突いてみた。そして、自分の腹部を少年の口もとにもっていった。そこには乳首があった。


 少年は、ハッと気がつくと、考えるよりも先に無我夢中で乳首に吸いついた。マグもやつれていたのに、そこからは甘いミルクが出た。


 再び力づくと、少年は起き上がって、マグの体をだきしめた。彼の動作からは、粗暴さはなくなり、優しさだけがあふれ出していた。マグのぶち模様の毛の中に顔を埋めると、わんわんと泣いた。


 畜舎から羊たちが出てきた。少年と子羊をかこみ、身をよせつけてきた。彼らはもう、少年を恐がったりなどしなかった。マグを仲間はずれにもしなかった。


 こうして、草原の平和は回復したのだった。





 

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんだか、会話のやりとりが童話のような感じで愉快でした。 [一言] 登場人物達が食器の名前とは面白いですね! カップも闇堕ちをしてから再び愛を取り戻せたのは良かったです。 欲望と罪、戒めと…
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