事務所とクッキーと関西弁
夏一について来てしまった晴佳は、怪奇事務所こと怪奇現象調査探偵事務所の前に立っていた。
見た感じ特に変わった点は見当たらない。というかむしろちょっとお洒落ですらある、小綺麗なオフィスだ。なんだ怪奇事務所とか言うからどんな胡散臭いところかと思ったら普通に普通じゃないか。
「ここ、ですか」
「そうそう。ここが我が怪奇事務所こと怪奇現象調査探偵事務所だ。想像してたのと違ったか?」
「はい。普通の事務所ですね…。でも名前がどこにも見当たりませんが」
この普通に綺麗な事務所、どこにも名前がない。怪奇事務所やら怪奇現象調査探偵事務所やら、なんだったら普通に探偵事務所とかでも、普通なにかしら名前があるものじゃないのか。それらしき日本語も英語もなにもない。夏一を見るとああ、と言って笑った。
「そりゃ、怪奇現象調査探偵事務所なんて看板出したら胡散臭いにも程があんだろ?いくらなんでもそりゃねえよ」
自覚はあるのか。というかそりゃねえよ、ってあんたその胡散臭い事務所の一員なんだろ。おいおい。
夏一が事務所のドアを開けて中に入って行く。クーラーの冷気が涼しい。
事務所の中は思ったより広くて外観を裏切らない小綺麗さだ。怪奇事務所だなんて言われなければ誰もそうとは思わないだろう。空調もきいてるし。
夏一は晴佳を応接スペースのソファに座らせると所長を呼んでくると言ってどこかへ行ってしまった。普通に綺麗な事務所とはいえ「怪奇事務所」などといういかにも怪しげな場所に一人で置いとかれるのは若干心細い。入ったとき涼しいと感じたクーラーが、なんだろう、今すごく寒く感じる。
あ、でも栞さんが後ろにいるのか。幽霊だろうがなんだろうが三年間付き合った仲だ。見知らぬ場所(すごくあやしい)に一人という心細すぎるシチュエーションにおいてはそれなりに心強い。さっぱり霊感がないらしい晴佳には全く感じないがイマジネーションで補う。栞さんがいる。俺はひとりじゃない。……とりあえずナツイチ先輩早く戻ってきて。
なんにしても暇なので十秒ほど迷った後、テーブルの上に置いてあった美味しそうなクッキーをいただくことにしてさくさくもぐもぐやっているとふいに肩をぽんと叩かれた。晴佳は死ぬほど驚いた。静かな空間にも関わらず全く気配を感じなかった。早くも3枚目に入っていた手元の齧りかけのクッキーが膝に落ちた。
「そのクッキー美味いやろ?」
慌てて膝の上のクッキーを救い上げ振り返ると至近距離にいやに綺麗な顔が。近い。
「あ、ごめんごめん驚かせた?でもそのクッキーほんま美味いやろ?それ俺が作ってん」
目の前の関西弁の男はそう言ってにこにこ笑っている。近い。それにしてもえらく綺麗な顔をしている。あと、クッキーは確かに美味い。見た目からして美味そうだった。実際とても美味かった。さくさく感がたまらなかった。いや、そうじゃなくて。
「えと、この事務所の方ですか?」
「ん、多分ね。俺は鹿原幹言うんやけど、君、名前は?見かけん顔やなあ、依頼人さん?」
「工藤晴佳です。……依頼人というかなんというか」
今この人多分って言ったぞ。なんだ多分って。怪奇事務所の人じゃないの?晴佳は目を細めて目の前の彼を見つめた。恐ろしく綺麗な顔が眩しい。そして、顔が近い。
とりあえず聞かれるままに名前を言うとやっと顔を離してくれた。心に平穏がちょっとだけ戻ってきた気がする。近すぎるんだよ。顔が綺麗すぎてどきどきした。なんというか、この世の不条理を呪いたくなるくらい綺麗な顔だ。神様は不公平だ。
鹿原幹とやらはそのまま一歩足を引くと晴佳を上から下まで観察するように見回した。そして視線は晴佳の背後に固定される。…栞さんか。
「ところで、晴佳。後ろに連れてる彼女はオトモダチ?」
栞さんだ……。この人も見えるのか。やはり怪奇事務所の人間だけある。多分、らしいけど。それに夏一と違って栞さんを見ても全く驚く様子を見せない。平然としている。どう見ても幽霊を見た人の反応じゃあない。実はすごい人なのかもしれない。料理上手なだけじゃなくて。
「友達ではありません。栞さんです」
「へえ、栞さん。君見えてへんみたいやけど彼女のこと知ってはいるんや。しかも名前まで。変わってんなあ。……まあその栞さんやろ?君がここにおる理由」
そう言うと鹿原幹は晴佳の向かい側のソファに座るとクッキーに手を伸ばした。
「その様子やったらナツあたりに連れてこられたってとこかな。待たされてんやろ?」
「……そうです。所長さんを呼びに行ってくるって」
「ああ…せやけど、所長おらんで。今日から二泊三日で箱根旅行やって言うてたわ」
二泊三日で箱根旅行…。すごいのんきなんだけど、こういうノリなのだろうかここは。目の前の男もさらっと普通に言っているし。というか夏一は知らなかったのか。なんで。……ナツってナツイチ先輩のことで合ってるよな?
「ナツの奴、所長今日から箱根なん知らんかったんか。まあすぐ戻ってくるやろ、所長室空っぽやし。……それにしてもこのクッキー我ながら美味いなあ。やろ?どんどん食べ。せやけど、栞さん食べられへんのかわいそうやなあ」
自作のクッキーを自画自賛しつつ晴佳に勧める鹿原幹。どうやら栞さんは食べられないらしい。幽霊はやっぱり食事しないのか。実体がないのだから当然か。クッキーは確かに美味い。美形で料理上手か……それに関西弁もなんかモテそうだな、と晴佳は目の前の美味しそうにクッキーを頬張る綺麗な顔を見ながら唸った。




