私とお母さんの喋る包丁
(カップラーメンの塩味って、ホントは何味なんだろう?)
よもや塩のみで味付けられている訳ではあるまい。でも肉の味じゃない。野菜の味なのかな?そう疑問に思いながら私は麺をつまみあげる。波崎優衣、ランドセルが良く似合う小学3年生。今夜の夕食はお手軽なカップ麺だ。でもこの夕飯は小学生にしてはやや栄養に欠けているとは思う。
私は特別ジャンクフードが好きと言う訳じゃない。
しかし手軽に食べれられるものと言えばコンビニ弁当かレトルトカレー。コンビニ弁当は沢山あるように見えても毎日食べると案外種類が少ないので、既にもう飽きてしまった。
時計は20時を過ぎていて、今日もお父さんは帰りが遅い。
だから私は仏壇に供えてたお茶だけ降ろした。炊飯器でご飯を炊かなくなって久しいので、そこに置いてあるのはお米では無く買って来たお餅だ。お母さんもお餅好きだったし、問題はないはず。
私のお母さんは今空の上にいる。
お母さんは元々身体が強くなくて、物心ついたころから入退院を繰り返していたように思う。けど口癖は『健康は堅実な食事から作るのよ』で、家に居る時は見かけは華やかではなかったけど中身はこれ以上ないというしっかりした、一日三十品目を本当にクリアする凄い食事を用意してくれてた。友達のお弁当みたいにクマやウサギをかたどったお弁当じゃなかったし、すごく煮物が多いし、苦手なピーマンもいつも入ってたけど、それでも大好きだった。クマやウサギを自慢されても、私も自慢し返せるくらい凄いお弁当だった。
そんなお母さんは凄く心配性で、入院してる時はいつも私に沢山の事を尋ねていた。
ご飯大丈夫?お洗濯できてる?学校は――?
私はいつもお母さんの質問に「大丈夫だよ。だから早く良くなってね」と言っていた。
実際にはいつもご飯買ってたんだけどね。でもお母さんは何度も守ってくれた。でも、最後の一回だけ守ってもらえなかった。
目を瞑ったまま家に帰って来たお母さんを見ても、私は泣かなかった。
だって、泣いたらお母さんもっと心配しちゃうから。お母さんには安心してお空で暮らして貰わなくちゃ困る。
だって――もしも心配して今も傍にいたりしたら……例えば私がお母さんの事が見えてないだけだとしたら、絶対こんな食生活怒られちゃうから。
私はいわゆる育児放棄……ネグレクトっていうんだっけ?に、遭ってるわけじゃない。
残業ばっかりで遅いお父さんには「何かあったら連絡しなさい」と携帯電話を貰ってる。何かあった事が無いから、連絡したことはないんだけど。お父さんは大学の先生で、お家に居る事は余りない。勉強が好きだったから学生の時からいつも遅くまで学校にいることが多かったってお母さんに聞いたことが有る。あとは……お母さんはよく「お母さんの病院代を稼がなくちゃいけないから、いっぱい働いてるんだよ」って言ってた。もしそれが本当なら、今はお母さんがいないお家に帰るのが辛いんだと思う。お父さん、可哀そう。だからあんまり我がまま言えない。
でもこんな事を考えながらも私はラーメンをずるずると啜るから、全然真面目には考えていないんだと思う。塩味が何の味か私が理解していないように、私には少し難しい。
一人の食卓は何時も静かで、でもそんなに気にした事はなかった。
でもふと「テレビでもつけてみようかな」と思った私はリモコンに手を伸ばし――ガタン!!という音が耳に入った。……ガタン?
音の方向は台所だ。家には誰も居ないはず。何か物が落ちた?――いや、モノが落ちるほど台所には何もない。だとすればネズミでもいるの?居たら居たで嫌だけど、居るなら居るで追い払わなくてはならない。
私はお箸を置いてのろのろと立ち上がった。
けれど、台所にはネズミなんて居なかった。
でももっととてつもない現象が起きていた。
『ちょっと!!ここから出しなさいよ!!!』
「?!!」
電気も付いていない真っ黒な台所には非常に場にそぐわない女性のどなり声が響いていたのだ。私は固まる。誰だって固まると思う。ど、泥棒?!そう思った私は慌てて台所から飛びのいた。……でもちょっと待って、泥棒が出しなさいっておかしくない?そう思った私はこっそりと台所を除いた。
『出しなさいってば!!私を誰だと思ってるの!!』
『うーごーけええええ!!』
『ちょっと、誰かいないの!?』
黒い空間で相変わらず叫ぶ声に、私は唾を飲み込みつつも照明のボタンを押した。
部屋が一気に明るくなる。が、相変わらず『いい加減暗闇は飽きたわぁああ!!』という女性の声は状況に変化が無い。
だんだん恐怖より変だと思う感情の方が大きくなってきた私は、声を辿って台所を歩いた。人の声は聞こえているのに人の気配はしなかった。何だか変な感じだった。
私は台所を二周回って、そして声の場所を特定した。
間違いない。ここだ。そう思ったのは食器庫の前で、場所は恐らく引き出し部分だ。
私は息を飲みつつ引き出しに手を掛け一気に引き抜いた。ガコンという音と共に『ふおわっ!?』という声が聞こえた。それは引き出しの中にある、一つの長細くて平べったい箱の中からだった。
『誰?!レディに対する扱いがなってないのは!!』
箱が喚いた。私は迷い、けれどその箱を掴んで、開けずにリビングに走り戻った。
そして自分のランドセルから携帯電話を取り出した。かける先は一つだけ。
「お父さん!!大変!!箱が喋ってる!!変なこと言ってる!!」
『……箱?』
そう、お父さんの所だ。私は確信を持っていたのだ。
これはきっと呪いのブツで何かが取り憑いてるに違いない、と。だから家が呪われていると大変なのでお父さんに言わないと、と。だが父親の反応は実に私の思いとピントがずれていた。
『箱?箱は喋らないよ。中に何かの機械でも入ってるんじゃない?』
「違うの、もっと、怖い女の人の!!」
そう、私が戸惑うお父さんに返答した途端『誰が怖い女の人よぉおおおおおおおおお?!』箱が鳴いた。電話の向こうでお父さんが固まった気がした。
『だ、誰かいるのかい?』
「だから、箱!」
『ちょっと待ちなさいよ、箱じゃないっていってんでしょうが!!!』
非常に残念だけど、私とお父さんと箱は話がどうも通じていない。
けれど私にとっては箱が喋っていると言う事が全てだし、箱が箱じゃないって言っても箱にしか見えない。中身を見る勇気はない。
やがて最初に諦めを見せたのはお父さんだった。
わかった、出来るだけ早く帰るから。その彼女?を、大人しくさせておいてくれ。
そうお父さんは言ったけど、無理だと思う。箱、煩いし話を聞きそうにないんだもん。
そもそもこんな箱、怖すぎて一人で開けるには勇気が必要すぎる。
距離を置きながら座って箱を眺める私とは対照的に、箱はお父さんが帰ってくるまでずっと喚いていた。
そして一時間と少し経った頃お父さんが帰って来た。
お父さんは箱をみて腰を抜かした。それは本当に言葉通り箱が煩く騒ぎ続けていたから。
『早く出しなさいよ、そこに居るのは分かってるのよ!!』
『ぐずぐずしてると切り刻むわよ、タイムイズマネー!!』
お父さんは私より長く生きているけれど、こんなに煩い箱を見た事はなかったらいい。
ついでにこれが我が家にあった事自体に驚いているようだけど。
「お父さん、これ、何……?」
「わからない。ただ……恐ろしいな」
そう、お父さんは答えた。そして続ける。
「……開けてみる?」
「私に聞かないで。お父さんが開けてよ」
こんなおぞましいもの……そう思ったお父さんは何を思ったか台所を去り、暫くして高枝切りばさみを持ってきた。なるほど、これで距離がとれる。
「危ないから前にでないように」
「うん」
「……だからといってお父さんを盾にはしないでね」
そう言うが早いか、父は器用に遠距離から箱のふたを開けた。
蓋の中身に蛍光灯の光も届き、銀色の光が反射しした――それと同時に、大音量化された叫び声。
『遅いじゃないの!!!!!どれだけ待たせる気なの?!それでも紳士?!』
その声は、何と箱の中心部にあった包丁から出ていた事を私はようやく知ってしまった。
+++
蓋を開けた後、包丁が黙るまでに約10分が必要だった。
10分後、一息ついた包丁は『ふう、喉が渇いたわ』と言っていた。包丁に喉はないと思うけど、お父さんはたらいに水を汲んで来て包丁をその中に入れた。……包丁の入浴?
『ふう、極楽……って、ちがーう!!アンタ達、なにやってるの!』
「「え?」」
『アンタたち!!!自分の家の台所を使わないで……私を使わないで、どうやって食事をとっているというの?!』
……包丁に何で食生活の質問をされているのだろう。そう思いつつ、私は「買ってる」と答えると、お父さんも「買ってる」と言った。
だがその答えに包丁は大爆発した。
『アンタ達、コンビニ弁当のサラダには栄養が残って無いの知ってるの!?そもそも濃い味がどういう理屈で出来てるかわかってる?!』
「あの、ちょっと落ち着いて……そもそも貴女(?)は……そもそも誰なんですか?」
キャインキャインと吠える包丁に、おたおたと父が質問した。
誰って、お父さん。この包丁は包丁だよ。そう私は思ったのだが、包丁は違ってた。
『……私とした事が自己紹介がまだだったとは』
なんと包丁には紹介できる自己が有ったらしい。
私は目を丸くし父親と顔を見合わせた。それとほぼ同時、包丁はゆっくりと語りだした。
『私は消費税の無い時代にスーパーの店先で1本2000円で売らてた所を菜々恵に買って貰った菜切り包丁よ。とても良く切れるからって、野菜だけじゃなく冷凍イカだったり魚だったり肉だったり……色々なモノを切って来たわ。私に切れないモノはない』
そう、最後はやや早口に、そしてやけに恰好を付けたような雰囲気で包丁は言った。
効果音ならキリッが一番近いと思う。
「……って、お母さんの包丁?」
『そうよ』
「……お母さん喋る包丁とか趣味だったんだ」
私は少し引き攣った。だってお母さんは決して突飛な物を選ぶ人ではないと思っていたし。
それなのにこんな喋る包丁をわざわざ何故購入したのか。まるでこれでは呪われた包丁、幽霊憑きと言った具合ではないか。
お父さんも同じように考えているかどうかは分からないけど、顔を青くしていた。
だが、包丁は得意げにフフンと笑った。
『甘いわね、私が喋れるようになったのはついこの間よ。エネルギーが足りなくて小声しか出なくてなかなか呼び出せなかったけど、今日ようやく飛べたのよね。……まぁ、またエネルギー切れで飛べそうにないんだけど』
「包丁のエネルギーって一体……で、何でわざわざ包丁が喋るのよ」
『それは今日からこの家の栄養管理を司るからよ。異議は認めない』
包丁は堂々と言い放つが、迫力はない。
なんせ箱に入った包丁だ。私は無言で箱に蓋をかぶせた。
「包丁のくせに異議を認めないって何するの」
『ちょっと閉めないで!!暗闇って凄い居づらいんだから!!叫ぶわよ!一晩中』
「ちっ……喋る包丁ってどんなオカルトよ」
「優衣、舌打ちは行儀が悪いよ」
「でも!だってあり得ない。包丁が喋るのも、包丁が栄養管理も」
そもそも包丁が栄養をどうやって測るのだ。
私はそう思いながら口をとがらせお父さんに抗議した。お父さんは少し困った顔をしている。そしてお父さんは私では無く包丁に笑いかけた。
「ねえ。包丁さん。君はまず私たちに何をしてほしいのかな?」
「お父さん、なんで包丁に!!」
「だって包丁さんに黙って貰わないと、きっと夜も眠れないよ」
……確かに包丁が静かになるとは思えない。納得しての妥協点を導き出そうとしているのだろうか。私は渋々父親と包丁のやり取りを見ることにした。
『そうね。まずは味噌汁を作れるようになってもらうわ』
「お味噌汁?」
『そうよ。味噌汁は優秀よ、栄養も良いけれど白いご飯に良く合うわ』
……あなた、包丁じゃないですか。白いご飯とみそ汁の相性がわかるんですか。
そう突っ込みたくなる衝動を堪えつつ、私はぽつりと抗議した。
「……ポトフのほうがいい」
味噌汁が嫌いなわけではない。だがこの際包丁に指図される事も我慢すると仮定しても、味噌汁は作りたくなかった。味噌汁は母親の料理の中で一番美味しいと思っていたからだ。だから母親の味が良い。そう思ったのだが――まあ、包丁にそんな思いが伝わるわけもない。
『ポトフ?ポトフも良いけど先ずは味噌汁よ!日本人でしょ?作れなくてどうするの!世の中肉じゃがが作れる嫁より味噌汁が作れる嫁の方が需要あるから!あ、それともお子様な味わいしかわからないから味噌汁嫌い?いるわよねー、そういう子』
「あのさ、包丁。ちょっと黙りなさいよ」
『なぁに?それとも貴女朝食はパン派?ちがうでしょ、ご飯の方が好きでしょう!』
言いたい事を言い続け人の気持ちを察しようとしないこの包丁に、私は青筋を浮かべそうになった。だがお父さんがぽんと肩に手を置いたからグッと堪えた。だめだ、包丁のペースに飲まれちゃだめだ。此処は私が大人になって耐えて、色々拒否するんだ。
そう思ったが、お父さんはと言うと「包丁さん、すぐには無理です。うちの冷蔵庫、調味料と炭しか入っていませんから」と真面目な顔で言ったのだ。お父さん!!それが唯一の理由みたいな言い方しないで!!
ちなみに脱臭用の炭はお母さんが冷蔵庫にいれていたものだが、捨て時が分からず中身の無い今もそのままである。これっていつ捨てるんだろう。
『ふー、分かったわ。じゃあまず貴方は買いものに行って。駅前の○×スーパーなら24時まで営業だし、この時間なら半額シールの物もあるわ』
「何を買ってこれば?」
『とりあえず味噌とアゴだし。わかめ、大根、干物……あと米もないなら米。それから……ちょっとメモしなさいよ、言ってるんだから!』
私が炭に気を取られている間にお父さんは包丁と話をまとめていた。そして財布を片手に「ちょっと行ってくるね」と出掛けて行った。お父さん、娘をこんな怪しい包丁と一緒に置いて行かないで。動かないみたいだから殺されたりはしないと思うけど!
「……そもそもどうしてお父さんが買いものなの?」
『そりゃ貴女じゃ米運べないでしょう。それにこの時間に小学生が出歩くものじゃない――なんて建前なんだけど』
「え?」
『サチの料理スキルは壊滅的よ』
……包丁、本当に何でお父さんの料理能力まで熟知してるの。私はお父さんが台所に立った所なんて見たことないのに。そしてお父さんの名前しってるんだね。
でも、本当にそんなに詳しいならお母さんの話も少し聞けるかななんて期待しちゃった。
とはいえ包丁が自分から話してくれたりなんて多分無い事だと思うけど。今も思った事そのまま口に出してるだけって感じだし、私に気をきかせて昔話をしてくれるなんて事はなさそうだ。でも私もこの口の悪い包丁相手にお願いするのはなかなか気が進まないから、多分実現しないんだろうなと思ってしまった。
でも結局でもその日は結局私が料理をすることはなかった。
理由はお父さんには買いもの能力も備わっていなかったからだ。
『アゴだしっていったのに何で中華だしと鰹節?!昆布にひじき……?!っていうか何で即席みそ汁かってきてるの!?作るって言ったわよね?!』
この包丁の叫びが全てを現していると思う。そういうこと、だ。いやぁお湯入れるだけの方が簡単かと思って……なんてお父さんは言ってるけど、うん、それ料理じゃない。お陰で私は翌日学校帰りに買い物をする羽目になった。ビニール袋からはみ出るねぎを抱えて帰る小学生ってそんなに多くないと思う。そんな荷物を抱えて家に帰ったら帰った訳だけど、ランドセルを置いて色々冷蔵庫にいれて、諦めて包丁に付き合うか……と台所に立った訳だけど、包丁は予想以上に喧しかった。
『違う!!ちゃんと分量は図る!!目分量で覚えてないのに適当にするのは失敗の元よ!』
「……包丁に味が分かるとは思えないし」
『少なくとも貴女よりは分かるわよ!!』
そう堂々と言う包丁の自信はどこからきているんだろう。だが面倒なので文句は多々あるものの黙って作業を続けた。豆腐やネギ、油揚げを使うくらいしか包丁は使ってないけど、包丁は常時色々喋っていた。へえ、油揚げって油抜きっていうのをするんだ。
やかましい包丁に指摘を受け続け作り上げた味噌汁は、私の今日の晩御飯だ。
包丁に言われて干物も買ってきて、コンロで焼いた。
さあ食べろ食べろと包丁は煩いが―――
「なにこれ、美味し」
まずいと言いたかった私の予想とは違って味噌汁は普通に美味しかった。
しかも……認めたくないが、お母さんの味に良く似ていた。同じではないが、凄く似ている。
『分かったかしら、これがコンビニ弁当との実力差ってことよ』
フフンと得意げな包丁の言葉に少し水を刺されたが、それでも驚きは隠せなかった。
……とはいえ、素直に包丁に感謝も出来なかったんだけど。
「……でも作るの大変だよ。食べるの数分なのに」
『それが元気のもとになるの!何十年後にも関わるわよ!』
「元気ってめんどくさいんだね」
『美女になる秘訣よ、覚えておきなさい』
「美女とか包丁に言われても……」
『目指すは30品目よ!……まぁ貴女の料理スキルじゃすぐには出来ないでしょうけどね!』
「………」
何だろう、この包丁、お母さんの料理行動をずっと見てたからお母さんに似たんだろうか?
それならお母さんみたいに優しくて少しおっとりとした口調も似てほしかったと思う。あと思いやりも。こんな挑発じみた声、叩きおりたくなってくるじゃない。
でも、言わなかった。
包丁の事を認めたわけじゃないし、お料理を教えてほしいと思うよりまだ黙っていて欲しいと思う事の方が多いけど、言わなかった。
だって、ちょっとだけお母さんに会わせてくれた気がしたから。
……まぁ、ほんのちょっとだけ感謝しない事もないということだ。
その日から、私は少しずつ包丁に料理を習った。
『バターを溶かす時はフライパンはあんまり高温にしない。焦げるわよ』
『鶏肉はちゃんと脂取り除いて!おなかにつくわよ!!ああ、でもさすがに私じゃ取り除きにくいから万能包丁つかいなさい。ほら、その先がスルッとなってシュッとしてるやつ』
『あんまり使わないからニンニクが余る?皮むいてラップに一個ずつ包装、チャック付きの袋にいれて冷凍庫で保管出来るわよ!そのままだと腐るわよ!』
『唐辛子のタネちゃんととりなさい、凄い辛いから!!ものすごく辛いから!!』
こんな風に、包丁は毎日私に新しい事を言い続けた。
元々私は学校帰りに友達と遊ぶことも余り無かったから、新しい日課が不本意ながら少し面白くもあった。だから私も包丁のお手入れをしてあげる時もあった。……といっても、お母さんが買ってた包丁磨きを包丁の表面に滑らせる程度だったけど。これ、研磨剤なのかな?包装ももう残っていないからよくわかんないんだけど、包丁が『食器棚の右側上から3番目にはいってるの』と私に指示して遣う事になったものだ。ちなみに包丁いわく、下手に素人に砥石で砥ぎ直すなんて事をされると余計切れなくなるらしい。それなら刃物屋で砥ぎ直して貰う方が良いと。
でも包丁は今でも充分切れるし、砥ぎ直してもらうのはまだまだ先になりそうだけどね。
『あー、極楽。いいわねえ。でも使い過ぎはだめよ』
「じゃあ、もうおしまい」
『ちょっと待って!!あと3回!!』
別の日にはこんな会話もあった。
「ねえ、包丁って何処から声が出るの?」
『気持からよ!!』
また別の日には「ねえ、そもそもの疑問なんだけど、菜切り包丁なのに何でも切れるの?」という私の疑問に『私は形は菜切りだけど優秀なの。細くて強い刃で刃こぼれせずに冷凍イカだって切れちゃうわよ』という答えになって無い答えをくれたりもした。
「ねえ、唐揚げ食べたい。作りたい」と言った時には『まだ貴女に揚げものは早いわ。もっと腕力付けてちゃんと油が片付けれるようになったらね』といわれたので悔しくて筋トレを始めた。
言われてもトマトを買ってこない事を指摘されて『お子様味覚ねぇ』と言われた時には「たまたま目につかなかったけよ」と、後日見栄を張って頑張って食べた。
包丁に色々言われるうちに、木曜日の○×スーパーは半額シールを貼る時間が早いと言う事も覚えたし、私のお料理のレパートリーは確実に増えた。
一日30品目はまだまだ達成できないけれど、残り物を詰めてお弁当にすることも覚えたし、お父さんも割合早く帰って来るようになった。……まぁ、帰ってきても書斎に閉じこもってるからあんまりかわらないけれど。
でも寂しくはない。例えばテレビをつけていても
『ねえ、この芸人さんかっこよくない?サチさんに似てるとおもうの!』
「似てないと思うし年もひとまわりは違うよ。……でも包丁ってホントお父さんの顔すきだね」
包丁が煩すぎて、あんまり考える暇もないから。
でもそれは常々考えないと言う事じゃなくて。
ある日私は学校で友達のお弁当を見て、少し凹んだ。
友達のお弁当はとても綺麗に彩られていて、おにぎりなんてクマに見立ててあって可愛かった。私の自分で詰めた残り物弁当とは違っていた。でも私のお弁当だって好きな物ばっかり入ってる。栄養バランスだって包丁が言ってた通りで、悪くない筈。でも、違うの。どれだけ似ていても、私のお弁当は私が作っていて、お母さんのモノとは違う。
そう、お母さんのに似ていても、お母さんの作ってくれてたお弁当じゃないんだ。
そんな事を思ってたら、何だか作る気持ちが無くなってしまた。だから私は買いものをして帰る気にもなれず、お弁当も買わず、家に戻った。
包丁は何処で察知しているのか、私が帰宅するとすぐに騒ぎ出す。
流石に煩いので、気分が乗らないものの包丁にも顔を出した。そして一言告げた。
「今日は作りたくない」
でもそんな事いったからと言って大人しくしてくれる包丁じゃない。
『どうして?』
「作りたくないから」
『理由がないなら作りましょうよ。買い物が面倒なの?』
「やだ」
『やだやだじゃないでしょ、何。元気はご飯から!どうせ熱や風邪じゃないんでしょう?』
「うるさいなあ、私つかれてるの!」
長い言葉は言えなかった。
家に居たら包丁が煩い気がして、私は家から飛び出した。行きたい所が有ったわけじゃないけれど、誰かと話をする気にはならなかったから。
でもバスにも乗らずに歩いて行ける範囲なんて限られてる。私が辿りついたのは近くの公園だった。あまり滑りの良くない滑り台は人気が無くて、公園に人がいても滅多に誰も登らない。私はそれに上り、けれど滑る訳では無くごろりと寝転がった。
まだ明るい時間ではあるけれど、少し太陽は傾き始めている。
それから暫く経って同じくらいの年齢の子が帰る様子がわかっても私はぼんやりと空を眺め続けた。そのうちに空にはぽつりいぽつりと星が現れ始める。
この時間まで此処に居るのは初めてでもなく、過去にはお迎えがあったことも何度も有る。
でも今日は流石にないかなと思う。だって、いつも来てくれてたのはお母さんだから。
お父さんじゃここは分からないだろうし、心配させるのも悪いから帰らないといけないのは分かってる。ただ、帰りたくないだけで。
その時、一つ空に流れ星が流れた。
昔お母さんに流れ星には願い事をかなえる力があると聞いたことが有る。願えるというなら、今はこのもやもやした気持ちを打ち消してほしいと思う。
「……なんて子供みたいな我がままいってられないか」
包丁にばれないように家に入れるだろうか。
そう思いながら私は身体を起こし……そして、「ぐっ」噴き出した。
そこには包丁を持ったお父さんが立ってたから。
「ちょ、お父さん!!不審人物に見えるから!!危ないからソレどうにかして!!」
公園に人が居なかった事が幸いしてか、いや、人目があればお父さんももう少し気にしただろうか?とにかく少なくとも銃刀法違反だと思われる刃物の持ち方である。通報されてもおかしくない。私は慌てて滑り台から降りた。
……そして勢い任せに降りたものの、多分包丁に嫌みの一つでも言われるんだろうなと思うと続きの言葉は出なかった。八つ当たりしたのは認めるものの、包丁に間違った事をいったつもりはないからだ。
しかし包丁が私に掛けた言葉はそんなものではなかった。
『優衣、私、貴女に謝らないといけない事が有るわ』
そう切り出した包丁に、私は焦って「別に包丁に謝られるようなことしてないし」と言ってしまった。……確かに私も間違った事を言ったつもりはないが、包丁も間違って……ないだろう。口うるさいけれど。
でも包丁は真面目な声を止めなかった。
『貴女が何処に行ったか考えて、それで、思い出したの』
「思い出したって何を――」
『私、貴女のお母さんよ』
お父さんの手によって構えられた包丁は、静かにそう言った。
「……いや、それは無いよ。お母さんはもっと清楚で大人しくて言葉遣いが綺麗だった」
私の反応はといえば、これだ。だって思い出の中のお母さんは少なくとも包丁の形はしていない。それに儚げな美人だった。包丁は頭を打ったのか……?いや、包丁の頭ってなんだ。そもそもまな板に打ち続けているので、頭があったとしても今更だ。
冷静な、包丁の頭の中を心配する私の言葉とは対照的に包丁は声を張り上げた。
『う、煩いわね!!私だって必死で『美しいお母さん』になりたいと思ってたから頑張って……ってそんな話じゃなくて!!』
「優衣、この包丁さんには、確かにお母さんしか持ってない……ただの包丁さんにはない筈の記憶が多いよ」
「ちょっとお父さん……だからって……」
この包丁が母親という事は考えにくいじゃない。
そう言いたかったけれど、「新婚旅行でペンギンの大行進を見た事を包丁さんがしってる訳がないんだよ」というお父さんの言葉を否定できる材料は私には無かった。
『……とにかく、優衣。私は貴女のお母さんだったと言う事、ずっと忘れていたの。ごめんなさい』
そういう包丁に、私は何を言えば良いのだろう?
言葉が出ずに、でも何か言わないとと思う私に――結局、言葉は出てこない。
だから包丁の話が続いた。
『お母さん、まだ優衣の傍にいたかったの。だから星に願ったわ。もう少しいさせてください、って』
「嘘だよ、そんなの信じれないよ」
『嘘だと思っていい。私の姿は今も包丁。どうして本当に包丁に宿れたのかは分からない。でも、だから言いたい事が有るなら何でも言って?人生経験は豊富だから』
そういって、包丁は……笑った、気がした。
顔なんて無いからその表情から読み取ることなんて出来ないけど、そんな気がした。
『優衣』
そう、包丁が呼ぶ声に、私は色々と言いたい事がこみ上げてくる。
お母さんに言いたかった事――いっぱいある。言葉にしたら纏まるわけがないくらい、一杯ある。でも大人ぶらないと、周りの同情を買うのが嫌だからと言葉を発する事が出来なかった。そんな事……自分で分かってる。
でも、だからこそ言えなかった。
「……もういいよ、帰ろ」
『優衣』
「いいよ。もう。……ご飯作るから包丁も帰るよ。包丁運んだお父さんもお腹、空いてると思うし」
私がそう言えば、包丁は言葉を止めた。
私はその隙に歩きだす。それに合わせて、包丁を持ったお父さんもそのまま付いてきた。……お父さん、だからその持ち方危険だって。第三者から見たら私が突き刺されそうになってるように見えると思うよ。菜切り包丁じゃ突き刺しなんてできないけどさ。
でも……それ以外の事は、まぁ、良いという事にしようと思う。言いたい事は沢山あるけど、でも、いいんだ。一気に言えなくてお、そのうち小出しで言えるかもしれない、でも今はただ……今は料理を教わりたい。それが今の一番強い気持ちだろうか。
だって、お母さんの料理はお母さんにしか教えてもらえないから。
結局、何も買い物をしていなかった私が帰って作ったのは有り合わせの焼き飯だった。
お母さんの焼き飯はニンニクとショウガが入ってて、ベーコンと卵と、それからネギとゴマ油の風味が強いんだ。冷凍室にいるイカも入ってる。
私が作ったのは、やっぱりお母さん程良い味はしなかった。でも、お母さんの味が、確かにするんだ。
結局、あれだけ言い合いした包丁相手に私が素直に『お母さん』なんて呼びかけるのは難しかった。だって、包丁だし。だから今も私は包丁の事は包丁って呼んでいる。包丁も包丁で生前のお母さんのような様子になることは少なくて、ずっと包丁の口調だ。お父さんいわくお母さんの地は包丁であるようで、今更戻せないという事もあるかもしれないけれど。
でも呼び方はどうあれ、我が家は“二人暮らしで包丁が喚く家”から“三人暮らし”の家に戻った。そのうち一人は包丁の身体を持ってるけど、三人、だ。
お父さんと包丁は家に居る時は一緒に居る事が多くなった。よく一緒に話をしてる。包丁の身体は疲れが出やすい生前の身体と違って疲れがないらしく、お父さんは前よりお母さんと話が出来るって困ったように笑ってた。そして休みの日には縁側で包丁と一緒にお茶を飲んだり(包丁は飲んでないけど)包丁をもって家の中をうろうろしたりしてる。……前に宅配のお兄さんが包丁もって廊下を進むお父さんを目撃して倒れそうになってた事があるから、ちょっと気を付けてって言ってるけど……家の中だからか注意に効果は全くない。
でも、まぁ、いいかなと私も思う事にした。だって、包丁が喋るんだもん。
包丁の同居人が少しばかり行動がおかしくても、何ら不思議な事はないはずだ。それに包丁が何かアドバイスしてくれてるらしく、私とお父さんの会話も少しずつ増えている。これもちょっと嬉しい。
相変わらず一日30品目の食事はまだ完成していないし、お弁当も残り物だ。
でも、羨ましいという思いを強く抱くということは随分減ったと思う。
見守ってくれる、お母さんが……例え包丁の形になっても傍にいてくれるから。
でも――そう、そうだね。たまには一緒に居て欲しいと思わない事もある。
「参観日に包丁連れてくるとかお父さん絶対にやめてよね!!」
「ええ?でも母さんも行きたいって言ってるよ。連れて行かないと拗ねるよ」
「ダメなモノはダメ!!危ないから!!危ない人って思われるから!!」
せめて人形みたいな人型であれば来てくれても問題はないんだけど――そう思いながら私は今夜も賑やかな食卓で唐揚げを頬張った。
唐揚げは鶏だけじゃなくて、蛸もあるよ。美味しいよ。
え?筋トレは成功したのかって?
……それはまだだよ。でも、お父さんが油の片付けはしてくれたから、包丁が作って良いって言ったんだよ。
でも親子三人で作ったご飯は世界で二番目に美味しいよ。
お母さんが作ったご飯に次いで、ね。