第三話
それは蠢いていた。暗く奥深く闇の中でも怒りを忘れていなかった。ぼろぼろになった体の痛みを忘れていなかった。恨みを忘れていなかった。不義を忘れていなかった。今すぐにでも破壊したかった。全ての物を打ち砕きたかった。もはや情けはなかった。全てを打ち壊す。その意思だけで意識を保っていた。
体を動かすと、熱く滾る様な炎が押し付けられた。痛みのあまりにあげる咆哮に反応する様にまた押し付けられる。
この体を縛る枷が憎い。この身を閉じ込める大地が憎い。己を捕える種族が憎い。身を痺れさせる刻まれた刻印が憎い。コレさえ無ければ今すぐにでも、この身を痛める全ての物どもを引き裂いてやるのに。また押し付けられた痛みに咆哮が上がる。それは怒りに燃えていた。己を捕える全ての物に怒りを燃やしていた。大地、自然、土地、枷、刻印、そしてヒトに怒りを燃やしていた。
遠く離れた山小屋の中に水晶を見つめる老婆がいた。老婆は深く刻まれた皺を震わせながら、満足そうに頷いた。万事がうまくいっている。起こりゆく未来の邪魔はしない。ほんの少しその形を返る。それが老婆の長年の願いだった。
そして今、星が重なった。動き出した運命という名の時計の二つの針は待ち受ける未来へゆっくりと動き始めた。
翌朝起きるともう既にアニスの姿は見えなかった。また出かけたのだろうかと思って机の上に置かれたジェミーを開くと、ジェミー曰く随分と早い時間に後にしたらしい。荷物も残っているから、また何処かへ行っただけで帰って来るだろう。
「じゃあ、ジェミーは眠らないのかい?」
『眠る事が、疲労の回復を意味するならば、私は眠りません。そもそも私は疲れませんから』
「そういうもんなんだ」
まあ、多分寝ないんだろうなと思っていた。ジェミーはそういうのとはまた別だ。自分達に似ているけど、姿形をとってもただの本でしかないし。
「そう言えばジェミーは本だけど、それは全て紙で出来てるの?」
『ええ、紙でできてます』
「でも濡れたりしたらどうなるんだい?」
『そもそも濡れません。ついでに言えば燃える事もありません』
「本当に?」
『燃やしてみれば分かるでしょう』
その提案にぎょっとしたが、まあ本人?が言っているんだから、大丈夫だろうと、恐る恐る暖炉の前まで持っていく。暖炉では火が絶えず燃えている。
いざ寄って見ると、本当に大丈夫か不安になった。
「大丈夫なんだよね?」
『ええ』
一瞬躊躇ったが、好奇心が勝って暖炉の中に投げ入れた。
暖炉の中にジェミーが落ちて、灰が舞う。そしてよく見ると、ジェミーが燃えている!確かに表紙から火が立ち上っている。慌てて火かき棒でジェミーを暖炉の中からはじき出す。床に落ちたジェミーには火がついている。
慌てて靴で踏んで火種を消す。すると何とか火は収まったが、肝心の本体は薄黒く煤けて焦げていた。
「ジェミー!大丈夫!?君ったら燃えているじゃないか!」
慌てて手に取ってみると、
『平気ですよ。よくよく見てください』
本がひとりでに開いて、ペラペラと紙が舞う。すると確かに紙は不思議な事に焦げていない。煤けた灰も手で払えば、下からは真っ白な紙が現れた。
でも表紙の方は焦げていた事を思い出して見返せば、表紙はまるで蛇が脱皮をする様に、焦げた部分はひび割れて、亀裂が全体に入ると、それを丁寧にめくると下からは、全く同じ綺麗な表紙が現れた。
「…うわぁー…凄すぎるよ」
喋る本なんだから何も驚かないぞと思っていたが、予想以上だった。ただの本なのに!そう言わずにはいられない。
『だから言ったでしょう。無駄だと』
何処かその声には優越感が感じられた。
本当に凄いんだなぁと感心をしながら、イッキはジェミーを机の上に広げる。
一杯質問したい事があった。
「ねえ、アウローラ大陸がどんなのか知ってる?」
『ええ』
「実際に行った事もあるのかい?」
『いえ。しかし知識として刻まれております』
すると白紙のページに、絵画の様な自然の一シーンが現れる。
「これは?」
それは見た事の無い風景だった。そこには広大な大地が広がっているのだけれど、そこには何も無かった。木も海も山も無かった。ただ砂が一面に広がっているだけ。
『共和国の生命線の無限砂漠です』
「無限砂漠?」
『ええ。アニュス自治区の二倍の大きさを誇る大砂漠。共和国に攻め入ろうとするには、この砂漠を超えなければならないのです』
自治区の二倍!?そんなにもこの風景が続いているんだ。その事に驚く。
「でも、それじゃあ帝国からの亡命者は、『嘆きの谷』を超えた後に、ここも横断しないといけないわけ?」
『そう言う場合は精霊の森で休息を取る様です』
「精霊の森?」
次々と色々な単語が出て来て、頭が混乱して来た。そもそもイッキだって、この大陸で把握している事と言えば、東に帝国があってその隣にアニュス自治区。そして嘆きの森を挟んだ東に共和国が広がっている事だけだ。
『まず大陸の地図を出した方が早そうですね』
砂漠の絵が消えて、下から新しい地図が出て来た。東西と横に広がっている大陸、これがアウローラ。
『これが帝国』
一際大きい領土が赤く染められる。
『そしてコレが自治区』
少し知っている形の領土が黄色に。
『そしてこれが嘆きの谷』
大陸を完全に二つに分つ谷が灰色になる。
『この土地が大砂漠』
嘆きの谷と一部繋がった大地が茶色に塗られる。確かに自治区よりも遥かに大きかった。
『そしてこれが共和国』
大陸の西側の広大な土地が藍色へと変わる。
『そしてこれが精霊の森』
何も塗られていなかった空白の土地が緑色で現れる。
精霊の森は嘆きの谷と大砂漠の間に挟まれる様に隣接していた。
「どうして精霊の森って言うんだい?」
『そのままです。精霊が集う森。軽々しく他族が踏み入れられる様な森ではないのです』
地図が薄れ、一つの森が浮かび上がる。現れた森には、幽玄という他に思い浮かばない森だった。十数メデルに及ぶ様な木々。森を囲む霧。そこには他者の侵入を許そうとしない森の意思が見えた。
『しかし例外もいます』
「例外って?」
『エルフです。ここは大陸で唯一エルフが集団で暮らす森でもあります』
「エルフ?」
その問いに反応する様に新たなページに横顔が浮かび上がる。その横顔は思わず息をのんでしまう程美しかった。エルフはどの種族よりも誇り高く美しい。それは話では聞いていた事だったが、ここまで美しいとは思ってもいなかった。
『エルフは多種族との交流を嫌うために、大陸から忘れ去れたこの森に暮らすのです。精霊が守り神として、森を囲ってもう数千年。エルフはこの森から出た事が無いのです』
「じゃあ、ここ以外にはエルフはいないのかい?」
『いえ。共和国や嘆きの森で暮らすエルフもいます。しかし、それらの多くは森を追われた者達なのです』
森を追われた。その言葉が自分と重なって、胸に碇の様にぶら下がった。
落ち込んだ気分の中で、昨日の事を思い出した。そう言えば昨日みた絵は何だったんだ?アニスには意味が分かったようだったけれど。
「昨日の絵をもう一度見せてくれよ。意味が分からなかったんだ」
するとジェミーは何も言わず黙りを決め込む。
「おい。それはないだろ。少しだけで良いんだって」
手を重ねてお願いをすると、文字だけが現れる。
『あれは私の早計でした。私がそうする事を彼女は嫌うでしょうから。私は彼女を傷つけたく無いのです』
傷つける?どういう事なんだ?
「意味が分かんないよ。どうしてあんな絵がアニスを傷つける事になるのさ」
ただ、何かが誰かに倒されてるだけの、児童書の挿絵の様な一枚。
それが原因でアニスが泣くなんて事があるだろうか?
『時が来るのを待つのです。彼女が貴方に語るまで待つ事です』
「そんな待てやしないよ。それにもしかしたら、俺だって知らず知らずに傷つけてしまうかもしれない。そうしたく無いんだ。だから、ちょっとでも良いから教えてくれよ」
慌てて上手い事言い返すと、ジェミーは諦めたのか言う。
『あの絵は数千年前の物です』
てっきりもっと最近の物とばかり早とちりしていた。
『そして、あの絵では勇者とある物の戦いを描いています』
あの絵の男はやはり勇者だったんだ。
「じゃあ、あの怪物みたいのは悪魔か何かだったんだね?」
『いいえ。あれは違います。もっと神々しくも禍々しいもの』
「何だっていうんだい。勿体ぶり過ぎだよ」
『あの絵が描いているのは、勇者と神の戦いの結末なのです。そしてこの世の形が変わった』
神との戦い?あの黒い物が神様だって?このアウローラ大陸を造ったと言われている創造主の女神デラは、もっと慈愛に満ちているはずだ。あんな禍々しい訳が無かった。
「ねえ、どういう事なんだよジェミー?」
それからどれだけイッキが質問しても、ジェミーは今度こそウンともスンとも言わなくなった。
アニスは森の中を一人で歩いていた。この森にたどり着いてから、もう一週間程経っている。広大な森の中を黙々と探索を続けていたが、探している物は見つかりそうに無かった。唯一今のアニスを支えているのは、ここにあるはずと言う確証だけだった。邪魔な木の枝を払いながら、ふと拾ったイッキという少年の事を思い出した。最初に出会った時は、亡命者を捕える自警団かとも思ったが、実際の所はただの少年だった。まだまだ幼くて甘い、少年から大人へとなる事を途中で諦めた少年。だけれど、アニスはこの広い森で、自分と出会った少年の事が気にかかった。もちろんその前に言っていた光の事も気にはなったが、それよりも目の前の少年との縁が気になった。そして一応、アニスの魔力をつぎ込んだ指輪を渡して、しばらく指輪を通して透視をすると、すぐに彼は事件に巻き込まれた。きっとこれが彼との縁に違いないとその時に確信した。そして危険を冒して、留置所から助け出した。イッキは自分が予想していたより、重要なのかもしれない。ジェミーが良い例だ。イッキを助けた途端に、喋る本と出会った。
アニスには生涯をかけて貫き通さなければならない使命がある。それはどんな願いよりも、気高く、愚かで、困難な道のりだ。それでも貫き通さなければならない。
イッキはきっと、使命を成し遂げるために不可欠なのかもしれない。
そう考えながらも、周囲に注意を払って歩き続けていると、アニスはある物に気がついた。
「……?」
森の中でそこだけが円形を描きながら、木々が生えていなかった。しかし、そこは土で固められていた。そっと大地に手を触れる。乾いた鼓動を感じる。しかしその鼓動も弱々しかった。土地が死にかけていた。それもこれも土地を統べる土地神の存在が薄れているからだ。そっと魔力を流し込んで下を調べてみた。地下は崩落していた。爆発物でも使って崩落させたに違いない。
アニスは一番近くに生えていた木に近寄る。木は枯れる事無く、力強く枝葉を繁らせいる物を選んだ。その木に感謝の気持ちを伝えながら触れる。木は優しくも弱く返事をした。断りを入れて、木が見た物を擬似体験する。
木の前には確かに穴が空いていた。そして一昨日、突然崩落する。そして暗闇の中、男達が土を積み上げていた。思った通りだ。アニスはより時間を遡る。するとそこに映っていたのは、ある少年だった。アニスはその少年に見覚えがあった。と言っても直接出会ってはいない。イッキの指輪を通してみた少年だった。アニスの頭の中でイッキを襲った事件と全てが繋がる。
まさか…。全てを理解したアニスはその時気がついていなかった。自分を遥上から見下ろす鷹の姿を。そして遥か遠くの部屋で、イルハがアニスの姿を見つめて微笑んだ事も。
「すぐにここを逃げた方がいいかもしれない」
帰って来たアニスは開口一番にそう言った。
今日も夕餉の準備をして、鍋を片手に調理をしていたイッキは首をかしげた。
「突然どうしたのさ」
「少し勘違いをしていた。イッキは誰かに嵌められたんだろ?」
「そうさ。だって俺はおばさん達を殺してないんだから」
「犯人に嵌められた訳じゃないのかもしれない」
「どういうことさ」
焦った顔でアニスが座る。
「つまりだ。殺した犯人も犯人だけれど、イッキは犯人だけじゃなくて他の奴らにも嵌められたんだよ」
「どういうことだよ」
急いで鍋をすぐそこに置いて、アニスの向かいに座る。
「自警団達に嵌められたんだよ。向こうもイッキが犯人じゃないと分っていたけど、死刑にしようとしたんだよ。だから急いで、ろくに捜査もしなかったんだよ。だって死人は口をきかないもんな」
じゃあ、あの男達は全てを分っていて、自分を殺そうとしたのか?
「もしかすると、下っ端は知らないかも。上からの指示に違いないよ」
混乱する頭で必死に考える。何で自分が嵌められるんだ。それに、
「そうだよ。どうして自警団が犯人を庇うのさ!」
「そんなの簡単じゃないか。自分達が殺したからさ。だったら嫌でも犯人をでっちあげるだろうさ」
「それじゃあ、もう俺は一生犯罪者で、無罪だって明かす事も出来ないってこと?」
「首謀者が捕まらない限り無理さ。でも首謀者だって当然上の人だから」
「上の人って誰だよ!」
自分の命をまるでゴミの様に捨てたそいつは誰なんだよ!心の中に怒りが湧き上がって、体が熱くなる。そんなイッキとは対照的にアニスは落ち着いて答える。
「それこそリヒトシュタイン卿とかさ。それぐらい上の人かもしれない」
「…そんな……」
そんなのどうしたって敵わない。その時になって理解した。もう自分には逃げる道しか残されていない事を。
「でも、それだったら何でおばさん達は殺されたんだよ?」
どうしてそんな偉い人が、しがない宿屋の経営一家を襲うんだ。どこにもメリットなんて無い。
するとアニスは困った顔をして考え込んだ。
だけど、その顔は分からなくて悩んでいる顔じゃない。知っているけど教えるかどうかを迷っている顔だ。
「教えてくれよ。俺にとっては大事な問題だ」
アニスはまだ悩んでいたが、イッキが頭を下げると溜め息をついた。
「仕方ないか。イッキとの縁は深そうだから」
ぶつぶつ呟いて、アニスはローブの中から一通の手紙を取り出した。
「これをよく見て」
目の前に差し出された紙にはウェルバ語でこう書かれていた。
『コルドゥムに於ける昨今の金の採掘量についての問題』
その横にはグラフも並べられ、手紙は何枚にも及んだ。
「これは?」
「イッキだって、コルドゥムの主要産業は金等の金属の採掘だったって知っているだろ?」
「昔はそうだったらしいけど」
今となっては、昔に金を取りすぎたせいで、全く取れないから廃れてしまった。
それもここ十数年の話だ。
「今でも金が取れるらしいけど、それも凄い少ないらしいじゃないか」
「そうだよ。建前上はね」
アニスは一つのグラフを指差す。そのグラフは近年になって急降下している。横には金の採掘量と記されていた。
「減っているじゃないか」
「じゃあこっちを見てご覧よ」
次は違う紙のグラフを指差す。それはさっきとのは対照的に、近年になってぐんぐん伸びていた。
「これはコルドゥムからの金の流通を示している」
二つのグラフを見比べるイッキを横目にアニスは、机の上に置かれたジェミーを両手の間で投げる。
「明らかに不自然だろ?つまり今でもここじゃ金が取れるのさ」
「そんなの、他の人は気づかないの?このグラフとか見てさ」
「気づくわけないさ。だってそれは表世界の統計じゃないから。手に入れるのは大変だったってその手紙にも書いてあるよ。つまり、この事を知っているのは、実際にこの金を取って流している奴らと私達だけ」
アニスはそこでジェミーを置き直して、祭壇の方に向き直った。
「蛇は何の象徴か知っている?」
「さあ?」
イッキは知らなかった。
「蛇は金の象徴。そしてこの土地は嘗て蛇神を信仰していた。そして、ここは金の採掘が盛んだった。そして、やがてこの信仰が薄れると同時に金の採掘量が異常な程にふくれあがった。このままじゃいつか尽き果てる」
アニスは祭壇の方に近寄って、飾られた蛇の彫像を見上げた。
「もしかしたら、ここの土地神は支配されているのかもしれない」
目を細めるアニスの言いたい事は、いまいちよく分からなかったイッキだったが、その時異臭を感じた。それも変だ。どんどん強くなっていく。
「ねえ、アニス。何か匂わないか?」
「……ん?確かに」
くんくんともう一度異臭を嗅いでイッキは匂いの正体に気がついた。これは油が燃える匂いだ。
「ここが燃えているんだよ!建物が!」
慌てて天井付近の破れた窓から外を確認すると煙が上がっていた。
「どうして燃えているんだよ!」
慌てて外に出ようと扉に手をかけても扉は開かない。体当たりをしてみても、扉はびくともせず、逆にイッキが倒れ込む。そうしている間にも火の勢いは強くなっていく。もう窓の外は赤色に染まっていた。
「どうするんだよ!」
「外には逃げれない!この火は追っ手がつけたんだ!下手に外に出たら相手が待ち構えている!」
そう言われて、壁が燃える音と一緒に、外から人の声が微かに聞こえているのに気がついた。
言い争っている間にも煙は上から入って来る。どんどん部屋の中は熱くなった。
「外には逃げられないならどうするんだよ!」
「今考えているんだよ!」
イッキは慌ててジェミーを探す。ジェミーならどう逃げればいいか知っているかもしれない!血眼になって探していると、見つけた!机の上に置かれたジェミーを取り上げて、慌てて開く。
「ねえ!ジェミー!どうすればいい!燃えているんだよ!」
『大丈夫です』
ジェミーは愛想なく答える。大丈夫な訳が無い!慌ててつつく。
「本気で聞いているんだよ!どうすればいいんだよ!」
『ここは昔の聖堂。そしてその頃の死者の埋葬は火葬ではありませんでした
ジェミーが壊れてしまった。大事な時になんの役にも立たないじゃないか!自分は燃えたって構わないだろうから適当に答えているに違いない。
「イッキ!ジェミーは何て?」
じっと座って考えているアニス。
「アニス!君は魔法使いだろ!こんな火事なんてどうにか出来るだろ!」
「無理。火が強すぎる!それにもし外に出ても、イッキを守れるか分からない。他に方法があるはずなの。それでジェミーは?」
そんな悠長にしている暇はないと焦りながら、ジェミーの台詞を全て伝える。
すると、
「…そうか」
アニスは何かに気づいたのか、手を宙に持ち上げる。
何か火を消すいい方法を思いついたに違いない!
「アニスどうするつもりだい?」
「頭を下げといて」
それだけ言うと、アニスの手から爆炎が吹き上がった。
「何しているんだよ!」
炎は周囲の机や椅子を巻き込んで燃え盛る。そのせいで教会の中が崩れ出した。
イッキがアニスに詰め寄ると、アニスはイッキの腕を掴んで引っ張っていく。
「やっぱりね」
祭壇の近くまで連れて行ってアニスは頷く。その時になってイッキも気がついた。祭壇の周りだけ煙の上がり方が妙だ。まるで何処からか風が吹いているみたいに。
「この下が墓場なんだ。昔は土葬だったから」
祭壇の下を調べると、一枚の石が不自然に浮いている。それを掴んで持ち上げると、下にぽっかり黒い穴が現れた。
底は全く見えない。そうしている間にも天井がみしみし言い始める。もう崩れてしまう。
イッキは覚悟を決めて闇の中に飛び降りた。
落ちた先はぬかるんでいてイッキは腰から落ちたが、体が汚れただけですんだ。すぐ傍にアニスも飛び降りた。上を見上げると、隠し穴から自分達のいるここまでは大体8メデル程あった。穴を通してみる教会は炎で燃え盛っている。
「逃げよう」
アニスとすぐにその場を離れる。ぬかるみに足を取られながら闇雲に走っていくと、やがて背後で崩れ落ちる音が聞こえた。
二人が落ちた先は洞窟だった。下はぬかるんでいて歩き辛かったが、壁にヒカリゴケの群生が広がっているおかげで光には困らなかった。
ここは鍾乳洞だとアニスは説明した。大地に水が染み込んで、長い年月をかけてこうなるのだと。詳しい説明もしていたが、いまいちイッキにはピンと来なかった。どれくらい歩いただろうか。しばらくして細い坑道のような道から、大きな広場の様な空間に出た。そこは不思議な所だった。天井までの高さは暗闇の中で概算しただけでも数十メデル以上あった。そして目の前には少し大きな池が広がっていた。その上、自分達が出て来たのと同じ様な小さな穴が広場中の壁に空いていた。まるで虫の巣みたいだ。
アニスとイッキはひとまずそこで休みを取る事にした。何も自分達を癒す物は無かったが、一旦床に腰を下ろした途端に、安心感と疲れがドッと襲って来た。腰を下ろすだけじゃ足りなくて広場に大の字に寝転がる。体の疲労はもうピークだった。でも起きなくちゃ駄目だ。そう考えていながらも、体はどうしても疲れていて、気がつくとイッキは大の字で倒れていた。慌てて目をこする。立ち上がると体の疲れは大分取れていた。どうやらすっかり寝てしまっていたらしい。それよりも問題はイッキは慌てて周りを見渡す。そこには誰の姿も見えない。アニスは何処に行ったんだ?まさか自分が寝ている間に何かトラブルに巻き込まれた!?慌てて仕度をする。まさか追っ手に捕えられた?はやる気持ちを抑えながらとりあえず手がかりを探そうと、池のすぐ傍まで寄って、それに気がついた。
薄気味悪い場所にそぐわなく、ちょこんと折り畳まれたローブ。そこにはジェミーも仕舞われている。
その光景に目が点になるイッキの耳に、水から何かが上がる音が聞こえた。それも目の前から。
「……あんた…」
「すいませんでしたぁぁぁあ!!」
全力の謝罪が虚しく広場に広がり、続いて何か大きな物が水に落ちる音が反響した。
「下がって良いぞ」
ベウゼントは報告をした部下を労いの言葉とともに下がらせる。部下は嬉しそうな顔で下がっていった。この後待っているのは平民達には堪らなく甘い蜜の金だ。心の中で軽蔑をしながらも、上機嫌で報告を聞き終えたベウゼントは、自室の向こうへと続く部屋に入る。そこには既に先客がいた。喜色一面のベウゼントを見て、イルハは愉快そうに笑う。
「どうでしたかな?私の情報は?」
「大層役に立ちましたよ」
「何でも森の奥の廃れた教会が燃えたとか」
昨日の昼、イルハからの情報を聞いたベウゼントはすぐさま飼っている手練を強襲させた。部下達からは教会に二人ともいる所を外から燃やしたと報告を受けていた。崩れ落ちた教会はひどく、遺体こそは見つからなかったと言っていたが、一面を包囲していて脱出した人影も見ていないのだから、煤になるまで燃えたのだろう。ベウゼントは心のつっかえが取れてほっとする。
「らしいですな」
ベウゼントはあくまでも毅然と取り振る舞う。この男には下と思われたくは無かった。
「では、それで報酬の話ですが」
イルハは下衆の笑い声をあげる。
「もちろん。用意いたします」
この男には負けたく無かったが、だからといって約束を反故にする気もなかった。
「いえ、そうではなくですね。今回は自分で品定めをしたいのです」
「つまり連れて行けと?」
「ええ。もちろん、私にも好みという物がありますから」
イルハは出た腹を叩きながら笑う。
何を言っているんだこの男は。ベウゼントは胸の内に湧き上がる衝動を抑える。獸人を犯す脳しか無いくせに、何をえらそうに。すぐにでも部屋からたたき出したかったが、ベウゼントは心を落ち着かせて首肯する。
「わかりました。では、明日連れて行きましょう」
「実は私地下に潜るのは始めてでしてね」
「左様ですか。なら、私邸に明日の正午前にいらっしゃってください」
そう言ってから明日の予定を思い出した。そう言えばリヒトシュタイン卿を例の場所に連れて行く約束もしていた。
「では、それで――」
「いえ。すみません。明日はリヒトシュタイン卿を例の場所に連れて行く先約がございました。ですからまた後日に」
「いやいや、ベウゼント様のお手数はおかけいたしませんよ。私も一緒に連れて行ってくだされば、私は私で品定めをしましょう。ベウゼント様はリヒトシュタイン卿を連れて行けばよろしい」
イルハを連れて行くのが問題なのではない。リヒトシュタイン卿に、自分がイルハと親しいと思われたく無いのだ。しかしこれ以上誤摩化そうとしても、結局押し問答になりそうだったので諦める。
「分かりました。では先程の時間にいらっしゃってください」
「ええ。分かりました」
日の当たる地上で二人の悪人がそんな会話をしている時、一方の地下ではイッキとアニスは向かい合って座っていた。
アニスはローブを纏ってイッキを睨みつける。イッキもイッキでアニスを睨みつけていた。
「だから、君はせっかちなんだよ!いきなり人を突き落とすなんて!」
「いきなりじゃない。イッキが私が着替えているのを覗こうとするからだろ?」「覗こうなんてしてないよ!それにこんな場所じゃ、覗かない様にしようがしまいがいっしょだろ!」
二人を囲む広場には二人を囲む円形のドーム状で、遮蔽物は何も無かった。確かに、これでは隠そうが隠さまいが関係なかった。
「ほら、言い訳じゃないか」
「言い訳じゃないさ!」
二人は仲良くガミガミ言い合う。そんな二人の傍ではジェミーがポツンと置かれている。二人とも随分打ち解けていた。もちろん、二人ともその自覚は無かったが。
しばらくずっと言い合って、やがて疲れたのか、二人とも床に大の字に寝転がる。ずっと頭上に見える天井にはヒカリゴケがついていて、星空みたいにみえた。
「これからどうするつもりなんだよ」
「わからない。出口はこの穴のどれかだろうけど」
視界に広がるのは無数の穴。どれも自分達が通って来た穴と似通っていた。
「間違えて行ってしまうと、もう戻れないかもしれない」
「アニスの魔法で調べられないわけ?」
イッキの提案にアニスは溜め息をついた。
「あのね、魔法ってイッキが思っている程使い勝手は良く無い。それに一度使うと体力は消耗するの」
「そうかい。じゃあどうするのさ」
「ジェミーに訊く」
アニスはジェミーを取り出す。
「どうしてだよ?ジェミーが幾ら物知りでも、どの穴が繋がっているかなんて分かんないだろ?」
「ジェミーはそういう本じゃない。きっと私達にとって特別な本なんだ。私達の道を指し示してくれる」
アニスはジェミーを開く。
「ジェミー。私の行くべき先を示して」
すると本から溢れんばかりの光の奔流が一つの穴に向かって飛んでいった。
驚きのあまり口を開けたまま唖然とするイッキを横目にアニスは小さく呟いた。
「どんなもんよ」