第二話
気がつくと突然引き下ろされた。乱暴な扱いで頭を床に打って、星が視界を泳ぐ。イッキはいきなりの事に事情が全く把握できない。何ですか。そう言おうとする前に腹を殴られて呼吸が止まる。苦痛と逆流する胃液を必死に押さえながら、暴力の元を見る。イッキは何人もの大人に囲まれていた。壁に掛かった時計を見てみても、時刻はまだ朝方だった。そこでおかしいなと気がついた。普段ならおばさんがとっくに自分を起こしているはずだ。昨日も散々働かされて、この椅子の上で寝てしまって…。そこから先の記憶は全くない。
「何をボウッとしてるんだ!この野郎」
今度は頬を平手打ちされる。口の中に血の味が広がる。
「…何をするんですかっ」
息も絶え絶えに訊くと、今度は髪を引っ張られる。
「てめえ。自分がやった事も覚えてねえのか!?」
男達の剣幕にたじろく。何がどうなっているのか見当もつかなくて、そこで気がついた。床が赤い。それに自分の手も。イッキの手についている赤い物は…。
「…うわぁ!!」
それが誰かの血だと分かって悲鳴をあげる。それも床や手についている量からして、ただのかすり傷なんかじゃない。慌てて自分の体を見渡してみても怪我らしい怪我は無かった。
「このガキ!白々しくも驚いてやがる。どうする!?」
「さっさと留置所に放り込め」
自分の目の前で交わされる物騒な話題。
イッキは手に木の手錠を嵌められ引き摺られる。
「僕が何をしたって言うんだ!?」
返って来たのは返事ではなく痛みだった。
「ゴホォ…グハァ…ハァハァ」
胸にめり込んだつま先が離れる。
「十分絞首台行きさ。てめえは親父さんとおかみさんとその息子まで殺した。女神様だって喜んで首を吊るだろうさ」
何とか立ち上がって、転がったまま引き摺られるのだけは避ける。強引に引っ張られ、男達の後ろをついていきながらも、全く状況が把握できなかった。
おじさんとおばさんにジルが殺された?一体なんで?強盗か?一つだけ分かるのは、自分が犯人に嵌められたという事だけだ。
街中を引っ張られながら男達の後ろをついていくと、街の至る所から視線を感じた。中には石を投げ出す者まで現れて、その一投を切り目に次々と石が投げつけられた。その中の一つが額に当たり額が割れて口の中にドロドロと、生暖かい血が入って来た。男達は自警団の詰め所の前で止まって、イッキを詰め所の警備官に引き渡した。その引き継ぎはいたってシンプルで、警備員がイッキの腹を蹴り飛ばしただけで終わった。警備員に入れられた牢屋はイッキ以外には誰もいなかった。そもそもコルドゥムは自治区でも小さい方なので、下手に犯罪を犯そうとする者がすくない。ましてや牢屋に拘留される程の重罪を誰も犯したいとは思わないのだ。
牢屋の中は静かで、門の隅に無造作に置かれた枯れ草の上に横たわると、どうしようもなく悲しくて、痛くなって来てイッキは一人で泣いた。声を漏らすと何を言われるか分からなくて、枯れ草を口で噛み締めながら泣いた。涙の味と草の味で口の中はばらばらだった。一度泣き止んで改めて自分の置かれた立場を考えて、またちょっと涙が出た。
誰も自分の無罪を証明しようとしてくれる者はいないんだ。唯一イッキと社会を結びつけていたおばさんやおじさんが死んだ事で、イッキは完全に一人で暗闇を彷徨っていた。どれだけ考えても昨日の行動が思い出せない。だけれど、それでも自分がジル達を殺したとは思えなかった。そう考えて考えて、どれほどもの時間が過ぎていって、気がつくと日はとっくに落ちていた。牢屋の壁の上の方につけられた鉄格子から、冷気が吹き込んで来た。凍える手は牢屋の手摺の近くまで寄って、壁にかけられた松明の火で暖めた。そうしていると、看守が食事を持って来るのが見えた。男は食事をイッキの前に置くとそれで話が終わりという様に背を向ける。
「ちょっと待って!!僕は無実なんです!!信じてください!!」
返事はなく牢屋に看守の足音と自分の声の余韻だけが残る。
どうする事もできない。このまま脅された通りに絞首刑で終わってしまうのだろうか。そう考えると死ぬのが怖くて、不安でどうしようもなかったけれど、目を閉じて枯れ草上で眠る事にした。起きていると、どうしようもない不安に襲われていたのに、一度目を閉じるとすぐに意識は薄らいだ。
次の日の朝、牢屋から出されて、狭い個室に入れられた。個室の中には、大きな剣を腰に差した男もいた。座らされた椅子の向かいに座った眼鏡を掛けた男は、煙草を銜えながらこちらを見た。男の眼鏡を通して見える男の目は、冷たい刃物の様だった。
「君がイッキか。年は十五だと聞いているよ」
男は書類をめくりながら訊いて来る。そこでようやくここが自分の無実を明かす最後のチャンスだと理解する。
「違うんです!」
「…ん?年がかね?」
「違います!僕はやってないんです!」
男は呆れた顔でイッキを数秒見た後に溜め息をついてペンを走らせる。
「本当です!信用してください」
「どちらにしろ絞首刑だ。どう足掻いても無駄だぞ」
男は大きな判子をポケットから取り出す。
「本当にやってないんです!」
「捕まった奴は全員そう言うんだ。自分だって殺したくせにな」
「違う!僕はー!」
やっていない。そう言おうとした喉にペンが向けられていた。男があと数センチ動かせば、イッキは喉から血の雨を吹いていたに違いない。
「残念だったな。女神様の御意志だ」
男はそう言って書類に大きな判子を叩き付けた。
その日の晩、イッキはどうすればいいのかもわからなくて、一人で牢屋で泣いていた。思わず嗚咽を漏らしていると、遠くの独房から五月蝿いと大声で言われたので、それからは一人で嗚咽を噛み締めて泣いていた。牢屋に連れ戻される時に、連れて来た看守から、明日には死刑場に連れて行かれると言われた。明日の晩にはもう自分という人間は、この世界には存在しないんだ。そう考えたらまた悲しくなった。零れ落ちそうな大粒の涙を親指で止めると、太ももの辺りが暖かくなった。ポケットから指輪を取り出すと、指輪は温かく光り輝いている。どういうわけか分からず、とりあえず指で摘んでじっと見てみても、特に何も変わりは無さそうだ。どうして突然光ったのだろうと、じっと見つめていると、
『おい。生きているか』
指輪が喋り出した!思わず指輪を取り落とす。
「うわぁ!」
指輪はチャリンと音を立てて石畳に転がる。
『乱暴に扱うな。でも生きているみたいだな』
喋る指輪をそっと持ちあげる。どこにもおかしな点はない。ただ喋るってことだけを除いて。
「…一体なんなんですか?」
『それは後で言う。それよりも提案だ』
「何を?」
指輪は温かくもっと光り出す。
『ここから出たいか?』
「…え?」
『この牢屋から逃げ出したいかって訊いている。それとも吊られて死ぬか。どっちが良い?』
「それは…」
もちろん無実で殺されるなんて、まっぴらご免だ。
「あなたは俺を逃がせるの?」
『そんなのどっちだっていい。答えだけが重要だ』
「逃がしてくれ!俺はまだ死にたく無い!」
『なら指輪を外向きの壁に置いて、鉄格子の傍まで寄れ』
言われた通りに指輪を壁に置いて、鉄格子のすぐ横に張り付く。すると指輪はより光り輝いて、爆発した。
「うわぁあぁわああああぁあーーーーーー」
突然の爆発に声にならない悲鳴を上げる。爆風で鉄格子がぐらぐらと揺れた。土煙が薄らいで、視界がよくなると、牢屋の壁は崩壊していた。
ここから逃げ出せば良いのか?そんな事を考えているうちに通路の方から看守の喧噪が聞こえて来る。すぐに逃げ出さないと。そう決心をして壁が元々あった場所を通り抜ける。急いで走って逃げようと考えたが、すぐ目の前には7メデル程の大きさの塀が、詰め所を覆っている。これじゃあ逃げられない。それどころか、今すぐにでも殺されてしまう。壁に手をかけてみても、壁にでこぼこなんて無く、どれだけ掴もうとしても無理だ。振り返ると、自警団の男達がイッキを見つけて走って来る。前には塀、後ろには追っ手。もうどうする事も出来ないと諦めかけたその時、
「さっさと掴まれ!」
塀の上からロープが落ちて来る。落として来た誰かは塀の縁に立って、逆光で顔は見えない。
「早く捕まらないと死ぬぞ!」
慌ててロープに捕まって壁を昇る。男達の声はもうすぐ後ろまで来ていた。
「ガキが逃げるぞ!外から回れ!」
男の慌てた声を背中に聞きながら、イッキは塀の縁を掴んでよじ上った。
「逃げるぞ」
誰かにそのまま突き飛ばされて、塀から落ちる。イッキは衝撃と痛みを覚悟したが、背中から落ちたのに、覚悟していた衝撃は殆どなかった。
ボスンという音と同時に特有の匂い。下に敷かれているのは飼葉だった。
「舌を噛まない様に口を閉じろ」
誰かは飼葉の敷かれた荷台から前の御者席に飛び移って、鞭で馬を打つ。
馬は雄叫びをあげて、夜の道を駆け出した。猛スピードで人目につかない道を選んで進んでいく。イッキは人目に触れない様に飼葉の中に身を潜めていた。
そのまま半刻ほど馬を走らせて、馬車は森の中へと入っていく。
「ここまでくれば無事だ。出ても大丈夫」
言われた通り身を起こす。辺りを見渡して周りに誰もいないのを確認して、ようやく胸を撫で下ろした。
「…助かったぁ〜」
その声に前に座る誰かが笑う。お礼を言わなければいけないと思って、イッキも前に移る。
「どうした?」
「いや、助けてくれたお礼をと思って」
「女神の縁があった。それだけ」
フードを被る御者は皮肉っぽく言う。その姿には見覚えがあった。
「案外気づかないな。昨日も会って指輪を渡したじゃないか」
フードの下から現れたのは昨日出会った少女だった。
少女は慣れた手つきで馬を操って、何処かを目指して道無き道を行く。
舗装されていない山道では、馬車はよく不規則に跳ねるので、気をつけていないと舌を噛みそうになる。
「本当にどうして俺を?」
「女神の縁だって言った。それを感じたから、あなたに指輪を渡した。するとあなたも助かったんだから、最初からこうなる摂理だったの」
「そうだよ!さっきの爆発は一体なんなのさ」
「あれは―」
言いかけて少女は溜め息をついた。
「両手を出してみて」
イッキは言われた通りに両手を差し出す。
「よく見ていてね」
少女は差し出した両手を自分の手で握って目を閉じた。
すると不思議な事が起こった。
少女の銀色の髪が少しずつ、ふわりふわりと風を受けている様に波打ち始める。
そしてイッキと少女の周りの空気が輝き始めた。空中に光粒が浮き上がり始める。見る見るうちに自分達の周りが輝き始めた。その光景はとても美して荘厳で、思わずイッキは息をのんで見守った。
少女がイッキの両手を放す。すると何も無かったはずの両手には、さっきの指輪が残っていた。慌てて見直してみても、傷一つついていなかった。
「これはさっき爆発して壊れたはずじゃ…」
「それは厳密には物質じゃない。私の力の一部を具現化した物。だから、今そこにあるのは、本質的には一緒だけれど、実質は違う」
「おかしいじゃないか。さっきまで俺の両手には無かったのに!」
そこまで言ってようやく気がついた。鈍いにも程がある。
「…もしかして魔法が使えるのかい?」
「ええ」
少女は小さく頷く。だけれど、それはイッキにとっては一大事だった。魔法使いが自分の目の前にいるなんて!実際にいる事は童話やおとぎ話の中で知ってはいても、実際に目の当たりにするのは、これが始めてだ。この自治区、いやアウローラ大陸を見渡してみても、魔法使いに出会った事がある者なんて、滅多にいないに違いない。
「でも意外だな。魔法使いなんて、てっきりもっと歳のいってる者とばかり思っていたよ」
「エルフだって魔法を使える。もちろん彼女達にとっての若さと、ヒトである私達の『若さ』は同じ意味じゃないけど」
エルフも魔法を使えるというのは聞いた事があった。でもエルフがこの大陸の何処に住んでいるのかも、イッキは知らなかった。
「何で君はここにいるのさ?それに名前は?歳は幾つなの?」
矢継ぎ早に質問をすると、少女はフードを被り直して馬車を操つり始めた。
どうやら答えるつもりはないらしい。イッキとしては、命の恩人なのに他人行儀にいるのが嫌で、打ち解けたかったのだが、向こうはどうやらそんな気分じゃないみたいだ。このまま質問し続けて、少女の気分を害する様な事はしたく無かったので、イッキも黙って荷台に乗っかって星空を見上げる。そのままずっと馬車は山道を通っていって、森の奥へと更に踏み分けていく。
ぼうっとしていると、今日起こった事がまるで幻想の様な、現実味の無い物に変わっていった。
我が身に降り掛かっている事は、とても大きいはずなのに、イッキは不思議とその重圧を感じなかった。
「これからどうするんだい?」
「いい隠れ家があるの。そこに向かっている」
「そうか」
黒い空では北の方の星が瞬いた。
「…これから俺はどうなるんだろ?」
「もう帰られない。もう只の脱獄者よ」
「無実なんだよ。僕は誰も殺してない」
「相手は、殺した犯人が死刑を恐れて逃げたと思うわ。もう何をしても無駄」
「そんな!じゃあ俺はどうすれば良かったんだよ!」
無実なのに殺されてしまうか、一生犯罪者として追われ続けるか。他にもっといい方法があったはずだ。
「死ぬか生きるか。それで十分よ。そんなつまらない事を訊くのならもう止めて」
少女は振り返ってイッキを睨んだ。仕方なくイッキは黙りこむ。それでも心の中では理不尽な状況への恨みや怒りが渦巻いていた。それを胸の内から出そうとすると、胸が苦しくなって叫びたくなって仕方なかった。
「見えて来たわ」
少女が指差す先に見えてきたのは、森の荒れ果てた木々種々の中で、まるでそこだけが時間に置いていかれた様に残っている教会だった。薄気味悪い木々に囲まれた教会は、壁には巻き草が絡み付いていた。漆喰も剥がれている。どこか何かに見られている様な視線を感じながら、先を行く少女についていく。
古びた閂で閉められた鉄製の重い扉を少女は事も無げに押すと、扉は嫌な音を立てながら開いていった。中は暗く静寂に包まれていたが、少女が右手を横に振ると、次々と灯火に火がつき内装を照らし出した。イッキは礼拝堂を見た事が無かったので、目の前の光景は不思議な物だった。広い部屋に並んだ横椅子。壁には窓は無い。天井の近くに幾つか破れたままの窓。そして一番奥には祭壇が置かれている。祭壇の上には大きな蛇の彫像。
「…これは?」
「昔はここで神を信仰していたの。何があったか知らないけど、この土地では神を信仰しないみたいね」
少女は荷物を椅子の上に置くとフードを脱いだ。
体を覆っていたローブを脱いで、見えた少女の肢体は年相応の起伏をともなっていた。イッキは恥ずかしくなって顔をそらした。
「そこら辺で寝て。私も適当に寝るから」
「俺は良いけど、君も床に雑魚寝するのかい?」
イッキは普段からそんな生活を送っていたので慣れていたが、少女にそんな事をさせるのは不安に感じた。
「他にも部屋があるし。それにこういうのは慣れているから」
少女は欠伸を一つして荷物の中から毛布を取り出した。そしてその毛布の中にくるまった。
「寝ないと体に障るよ」
それだけ言い残して少女は目を閉じた。寝息が聞こえ始めたのを確認して、イッキは出来るだけ離れて壁にもたれた。冷たい感触を体に感じながら目を閉じると、すぐに深い意識の中に沈んでいった。
目が覚めて、そのひんやりした感触に一瞬戸惑う。寝ぼけて霞むその瞼をこすりながら、ゆっくり考えてようやく昨日の事を思い出す。
牢屋に捕えられて逃げ出した事。そしてこの教会に連れて来られた事。割れた窓から見える空は、もう青色に変わっていて、日は十分に高かった。
疲れていたせいか、爆睡していたようだ。とりあえず立ち上がって教会の中を見渡す。だが、昨日イッキを助けてくれた少女の姿は見えない。何処に出かけたのかしら。そう思いながら取りあえず顔を近くの川で洗おうと思って外にでた。外は昨日見た通り辺りを木々で囲まれていたが、近くから水が流れる音が聞こえて来た。この音は川が流れる音だ。イッキはとりあえず汚れた体を洗おうと、音の聞こえる方に進んでいって生え茂る木々の枝をかき分けて、ようやく川が見えた。
「あった!」
思わず声に出して群生林から飛び出すと、銀色の細い髪が垂れていた。
「…あっ……」
脂肪のついていない細い体は白く、すらっとしていた。長く背中に垂れた髪は濡れていて、背中を濡らしていた。
声に気づいて振り返った彫刻の様に整った顔の少女は、溜め息をついてうずくまった。
許してくれたのかな?そう思って下がろうとすると、
「…最低」
拳程の石が飛んで来て、頭に衝撃を感じて、イッキは水の中に倒れ込んだ。
「幾ら何でも横暴だろ!いきなり石を投げつけるなんて!それも当たりどころが悪かったら死ぬ様な石を!」
「当たらなかったでしょ。それにのぞきをするから悪い」
「故意じゃない!あくまでも事故だよ!」
「事故かどうかなんて関係ない。それに石が飛んだのだって事故よ」
平然と言い切るその姿に、イッキは歯をカタカタと震わせながら睨む。
頭にぶつけられた石のせいで、気を失って川に落ちてしまって濡れた服を、木に吊って乾かしているので、イッキは下着を着けているだけだった。
さっきはあれだけ晴れていたのに、冬のせいか今ではもう肌寒かった。
カタカタと歯を震わせるイッキを見かねたのか、彼女は火を灯している枝に近づいて、手を差し伸ばす。すると、火の勢いが強くなった。少女も寒くなったのか薪の傍に寄って座った。もちろん今はローブを身に着けている。
「……悪かった。少しやりすぎた」
「少しじゃないけどね。別に良いよ。そのかわり訊かせてくれよ」
藍色の瞳が細まる。
「良いよ」
「名前を教えてくれよ」
「名前は――」
「無いんだろ。それでも良いから何か呼び名が無いと不便だし」
「…アニス。それで」
「じゃあ、アニス。君の歳は?」
「分からない。多分十六よ」
「生まれは何処なの?この土地じゃないよね?」
「分からないわ」
そう言いながら彼女は小声で呟いた。
「グロス語じゃないか。君も喋れるの?」
「君もって事はあなたも?」
アニスは驚いた顔で訊き返す。
「たまたまね。元々拾われっ子なんだけど、拾われた頃には喋れたらしいよ」
拾った亡き一家はその事が気持ち悪かったらしく、すぐに共通語のウェルバを覚えさせた。グロス語はヒトが喋る言葉ではなく、もっぱらエルフや獸人の古くからの共通語で、ヒトが喋る言葉がウェルバ語だ。そんな事もあって、小さい頃は獣の子供だと虐められた事もあった。
「アニスはどうして喋れるのさ」
「私も元から覚えていた。そうじゃないといけない理由もあったから」
その時だけアニスは少し寂しそうな顔をした。
「ここにはどうやって来たんだい?」
「峡谷を超えて来たわ」
「『嘆きの峡谷』を?」
イッキは驚いて訊き返す。アニスは頷いてもう一度言った。
「ええ。あの山を」
指差す先には霧に覆われた山々。普通、谷越えは集団でするものだ。それを一人で超えて来たなんて。イッキは信じられなかったが、アニスだったら出来るのかもしれないと思い直した。
「じゃあ帝国から来たんだね」
「ええ」
「でも帝国生まれじゃ無いんだろ?」
「そうね」
「だったら何でこんな風に移動しているんだい?」
「探しているのよ。私の運命を」
アニスは炎に手を近づける。危ないと言おうとして、言葉を飲み込んだ。
火は意思を持つ様に蠢いて、アニスの手の平の上で形を変えて、小鳥に変わった。
「私は自分の指針を探している」
炎の小鳥に息を吹きかけると、小鳥は激しく燃え盛って空へと消えていった。
「戻りましょ。もう乾いた頃でしょう」
確かに服は乾いていて、イッキももう寒気は感じなかった。
男は焦っていた。今日の朝までは完璧だったのだ。それが今朝、召使い達に囲まれながら、朝食を取っている時に届いた知らせが全てを台無しにした。
知らせを届けに来た男の汚い身なりに、眉をひそめながら話を聞くと、昨日捕えた犯人が逃げたと平民は震えた声で言った。その知らせに息が詰まりそうになった男の怒りを男は抑えられず、男は従者に止められた時には目の前の平民を持っていた杖でたこ殴りしていた。平民を帰し、従者達を部屋から閉め出し、男は独り焦っていた。全ては二日前に下手を打ったのが不味かった。この事は自分とその時近くにいた部下達しか知らない。もちろん部下達には他言無用と言いつけいた。そして画策をして処分したのにも関わらず、逃げられてしまった?その事を考えれば考える程男は怒りを何かにぶつけたくて仕方が無かった。
一体どうやって逃げたというのだ。いや、それよりも何処に逃げたかだ。今すぐにでも追い詰めて処理しなければならない。焦る思考に、部屋の外から控えめに声がかけられる。
「ベウゼント執務官。そろそろリヒトシュテイン卿との会議のお時間です」
「分かった!今向かう!」
はやる気持ちを抑えながら馬車に乗って会議に向かう。
この事はリヒトシュテイン卿に伝える訳にはいかなかった。そうすれば自分が今まで積み上げて来た立場が崩れ落ちてしまう。それだけはどうしても避けなければならない。もう既に一線は越えているのだ。もう超える事への躊躇いは無い。所詮は平民の命。そんなものと自分の名声は秤にかける事すら愚かしい。城に入って馬車から降りたベウゼントに、城の警備の者達は恭しく敬礼をする。
赤い絨毯の引かれた回廊を進んでいく。もしも失敗すれば、ここを歩く事すら無くなってしまうのだ。再び心に湧き上がった焦燥の念を必死に抑えようとしながら角を曲がろうとすると、黒いローブを羽織った男が立っていた。
「ベウゼント様。おはようございます」
「これはイルハ様。こちらこそ」
頭を下げた目の前の男にベウゼントは頭を下げる事無く、淡々と返事をした。ベウゼントは心の中でこの男の事を嫌っていた。所詮は自分達選ばれた貴族とは違い、平民からの成り上がりだ。そんな視線に気づいたのか、イルハは不快そうに笑った。イルハはもう四十に届くかどうかの年齢らしいが、視界に映るその姿はとてもそう見えなかった。肥えた体に醜い顔。清潔を貴族の証だと考えているベウゼントからすると、不愉快な男だった。
「それで、今日は何の御用で?私は卿との会合があるのですが」
不快感を露にするベウゼントに、イルハは下衆な笑いを浮かべる。
「本当はそれどころでは無いのでしょう?」
ベウゼントの顔に緊張が走るのが手に取る様に見えた。ベウゼントもまさか、この男に嗅ぎ付けられているとは思っていなかった。
「…何の話ですかな?」
「明晩の詰め所での爆発事故の事ですよ。何でも囚人が一人逃げたと。それも一昨日一人の少年とその両親を殺した凶悪犯が」
わざわざ一人の少年を先に言った事からして、イルハは全てを掴んでいるのだろう。ベウゼントはその顔を打ちのめしたくなる右手を押さえる。
「それがどうかしましたか?」
もしもイルハがリヒトシュタイン卿に報告するつもりならば、殺すつもりだった。自分の道を妨害する者は全て排除して来た。この男も例外ではない。
ところがイルハの答えは意外な物だった。
「手伝ってさしあげましょうか?」
「…なんと?」
聞こえたその声が信じられなかった。
「ですから手伝って差し上げようかと。無論、不必要ならば引き下がります」
装っていると分かるその顔をじっと見、頭の中で考える。確かに信用ならない男ではあるが、今の自分にそんな贅沢を言っている暇はあるのか。
イルハには一つ大きな武器がある。それは、魔法が使える事だ。この男は、この魔法だけで、お里も分からぬ只の平民から、自治区を統率する卿の左にまで座するようになった。その点ではベウゼントはこの男を評価していた。
魔法使いのこの男ならば、もしやすると逃げた少年の居場所を探す事まで可能かもしれない。
「例えばの話ですが、逃げた少年というのがいるらしいですな。その子供の消息なんて物までも、魔法と言うものは探し出せるのでしょうか?」
イルハは口角をあげた。
「無論。もちろん、必要な物はありますが」
その代わりとイルハは手をこまねる。ベウゼントは顎で先を促す。
「今度もまた実験でね。亜種が必要なんです。また斡旋してもらえませんかね」
その話かとベウゼントは心の中で唾をはいた。亜種とはヒトの形を真似てヒトならざる生き物。獸人なんぞ呼ばれているが、その呼称をベウゼントは嫌っていた。人間でない物に人とつけるとは愚かしい。
イルハも本当に実験で必要な訳ではない。ただ、峡谷越えをして帝国から共和国へと亡命しようとする彼らは、時として捕えられる。その理由は挙げればきりがない。どうだって良いのだ。ただ、その時の自警団の気分次第である。
そしてイルハの性癖は、獸人を犯す事だとベウゼントも知っていた。これがベウゼントがイルハを最も嫌う理由の一つであった。
「分かった。また送らせていただきます」
「では、こちらも探っておきますよ」
イルハは満足そうに頷いて、油のしたたる顎を撫でて笑った。
どうして過ごせば良いかと尋ねるイッキにアニスは炊事と言って、何処かへ出かけてしまった。馬車は残されたままだったが、きっと他に移動手段があるにちがいない。それこそ魔法使いなんだから、空中に浮いたりだって出来てしまうのかもしれない。そんな事を考えながら、川に仕掛けておいた簡易な罠を見てみると、数匹の小魚が入っていた。あまり動き回るなとは言われたが、とりあえず少しだけ辺りを探してみると、すぐに食べられる山草が幾つも見つかった。これだけでも十分に料理が出来る。料理の腕には、小さい頃から働き手として働かせられて来たので、ある程度の自信はあった。
教会の奥に古びた状態で残された厨房を使う。棚を開くと、煤や埃に塗れてはいる物の、十分に使える状態の鍋が残されていた。それらを使って簡単な鍋物を作る。とれた魚と水と山草を入れてある物で味付けをすると、食べれない事は無い物が出来た。言われた通りの炊事は出来たので、鍋を弱火にかけながら、教会の中を見回る事にした。回ってみても、それほど面白い物は見つからないなと、ある部屋に入ると、そこは壁一面を書棚に囲まれた不思議な部屋だった。書棚は縦に伸びており、天井まで突き抜けていた。四面を囲まれた部屋に入ると、少し嬉しくなって、自分を囲む無数の本を眺める。イッキは学ぶ事が好きだったが、おばさんはイッキに学問の必要は無いと、勉強はおろか本を読む事も許さなかった。すると一冊の本が落ちて来た。慌てて避けると本は埃を縦長ら床に落ちた。一体何処から落ちたんだろうかと上を見てみても、そこには何もない。とりあえず落ちてきた本を開く。するとそこには見た事も無い文字が踊っていた。話せはしても読み書きの出来ないイッキはその文字をよく見てみる。これは普段街中で見かける様なウェルバ語じゃない。それよりももっと不思議に曲がっていて、まるで言葉自体が意思を持っている様だ。
『それは正しい』
どこからか声が聞こえて来た。驚いて本を取り落として、周りを見回しても誰もいない。
『探してもいない。よくよく私を見つめなさい』
取り落とした本が光り始める。イッキは恐る恐る本を拾い上げ直す。
『開いて見なさい』
開くとさっきまでとは全く様子が変わっていた。文字の一つ一つが光り輝いている。そして何故かイッキにはそれが読めた。そこには、
『ようやく私を見ましたね。貴方には私が見えますね』
さっきの声と同じだ。驚く胸に手をあてて、ゆっくりと話しかけた。
「どうして読めるんでしょうか?」
『それは貴方に資格があるからだ。これは古代語です』
どういう仕組みなんだろうか。混乱する頭で返事をする。
「でも、俺は古代語何て知りませんよ」
『ええ。古代語はそうでしょう。しかしグロス語と言えば良いのでしょうか。それは古代語の派生なのです』
「でも、俺はグロス語は話せても読めません」
『古代語とは形式ではなく実体なのです。古代語とは意思であり存在です。元々は竜の発する言葉。それが形を持っただけの事。ただの形式の意思の無い言語とは異なります』
つまりイッキはグロス語を読めるおかげでこの本も読めるらしい。
とりあえず本をそっと床に置いた。
全く訳が分からない本だ。どういう仕組みなのか。そもそもどうしてこんな所にあるのか。それに、何でこの本をたまたま選んでしまったのか。
「ねえ、ここの本は全て君の様に喋るのかい?」
『いいえ。古代語で書かれているからと言って意思を持つ訳ではありません。その本体そのものにそれだけの蓄えが無いといけないからです』
空白に文字が踊る。
『それに私には名前があります』
「どんな名前?」
本が話せるんだから、名前があるなんて言い出しても驚きは無かった。
『ジェミーです。これからはジェミーと呼んでください』
可愛らしい名前だ。てっきりもっと発音の難しいような、小難しい名前かと思い込んでいた。
「ねえ、ジェミー。君は一体俺をどうする気なんだ?手伝って欲しい事があるとか?」
『どういうことでしょう?』
「つまりさ。普通だったら、こういう出会いをした時は、そっちから俺の方にお願いがあって、それを叶えたりする事で、色々授かったりとかするんだよ。そういうのがジェミーにもあるのかな?」
『普通といっている事は、私の様な書物と出会った事が?』
「いや、無いけどさ。お伽噺とかじゃよくあるんだよ」
『いいえ。そう言う物はありません。何故なら私はここに存在しているだけ。言うなれば不変の存在。それと比べ、あなた方は私と比べて非常に不安定な揺れ動く存在。寧ろ私との出会いに意味を見出すのは貴方です。事象には全て意思と運命が働いており、その結果は必ず意味を持つのです』
イッキの方から出会った?じゃあ用があるっていうのは自分の方って事になる。
「俺が何をしなくちゃいけないのか分かる?」
『いいえ。私は不変の存在。そこに介入する事は出来ません。全ては貴方のうちにこそ眠っているはずです』
自分自身で見つけろという事らしい。しばらく考えても、自分がどうする事が正解なのか分からなかったので、アニスが帰って来たら相談しようと本を部屋から持ち出した。
帰って来たアニスと用意していた鍋を一緒に食べると、アニスは満足そうに食べた。自分からすればそこまで美味しくも無い料理だったが、アニスからすれば十分だったらしい。そもそも食べて来た物が違うんだとアニスは得意げに言いながら、汁も最後の一滴まで飲み干す。その豪快な食べっぷりに驚きながら、例の本の事を話す。すると上機嫌で上がっていた眉は、話を進めると下りて来た。
「どの本?」
部屋から持ち出して来た本を渡す。本はついちょっと前まで流暢に喋っていたのに、うんともすんとも言わない。内心不安になりながら、アニスが本を手に取るのを見つめる。
「呪いや悪しき呪具ではないみたいだ」
どれと本を開くと、イッキの時と同じ様に光が溢れ出した。
「何だ!」
思わず目を押さえるアニス。イッキは安心して呼びかける。
「ジェミー。どうして黙っていたのさ」
『その方が私と交わる運命だったのかが分からなかったからです。そもそも私は運命の交差点として働くのであり、そこに意思の介在はありません』
「…なるほど。本当に喋るのか」
アニスは驚きを声の端々に醸し出しながらジェミーを開ける。
「グロス語の書物か。一体いつ頃の本なんだ?」
『さあ?気づいた時には私はここにいました』
アニスは本の奥付を見たが、何も書かれていなかった。
「それにしても、私と運命が交わるという意味は?」
『そのままの意味です。そこの少年は私と出会う運命だった様に、あなたも私と交わる運命だったということです』
「そのふざけた知識はどこで仕入れたんだ」
『私は貴方が世界の形を知っているよりも、複雑に世界の形を知っているのです』
ジェミーは光り出し、次々とページがめくられていく。ばたばたと音を立てながら、そこには一枚の絵が記されていた。
空と大地の境界線が遥か彼方に見える大地に誰かが立っている。鍛えられたその体と服装から男だと分かった。男は右手に剣を、左手に盾を握りしめ天に咆哮をする。
まるで英雄伝の一節を抜き出して絵にした様な、そんな絵だった。そこでイッキは気がついた。絵はそこで終わりじゃない。まだ大地に何かが落ちている。それはよく見ると不思議な形をしていた。大きく、しかしそれでも黒いその体は大地と同化している。何処か滑稽な様でその様子は恐怖を感じさせた。
この絵の男は、この黒い物を倒したのだとそこでようやく理解した。
「ねえ、これってどういう意味――」
「燃やされたく無いのならすぐに閉じろ。もう十分に分かった」
今までに聞いた事の無い様な低い声だった。喉を震わせて体の奥底から出ている様な、そんな声だった。ジェミーは何も答えず、静かに閉じて只の本に変わる。アニスは黙って部屋から出て行った。
「…いったい今の絵がなんなんだい?…ジェミーもう一度見せてよ」
アニスが出て行った事を確認してから、イッキは小声でジェミーに話しかけたが、ジェミーはただの本らしく、身動き一つとらなかった。
「何なんだよ、一体」
自分だけが分かっていない。その事に苛々しながらも、イッキは部屋を出て行く際のアニスの横顔を思い出した。
『……泣いていた?』
確かにアニスの頬を一滴の液体が伝っていた。