Stage1 Hot Limit
男は暗闇の中、無我夢中で走っていた。
降りしきる雨が彼の一糸纏わぬ身体を濡らし冷ましていく。
何故、逃げているのか?ーー男には理解出来なかった。
いや、違う。
理解出来ない訳では無い。
男は嫌な、吐き気を催すような…ドス黒い感覚を遥か後ろから感じていたからだ。
むしろ、理解出来ないは記憶の方だ。
現在の状況に至る記憶、そして、自分自身の事…。
何もかも思いだせない。
そんな状況だ。
逃げるという本能に従うのはごく自然な事であろう。
だがしかし、逃げても逃げてもあの嫌な感覚からは逃れられない。
逆にもがく程に絡みつく蜘蛛の糸のようにその身体に纏わり付く感覚に陥る。
『みすみすノガすとオモうか?』
背後の暗闇から赤い双眼の巨大鼠の化物が音も無く現れる。
息の根を止めんとその黒い右腕を男はそれに抵抗するように両の手を無茶苦茶に振るった。
まるで悪夢を掻き消そうとするように。
しかし、必死の抵抗も虚しく遂に男は捕らえられてしまった。
『オマエがキボウをモつことジタイマチガいなのだ』
声すらあげれない、息が出来ない、首がへし折れそうだ。
化物はさらに右腕に力を込める。
俺はここで終わりなのか?ーーそう悟った瞬間、身体の奥底から冷めていくのを感じた。
『さらばだ、ワレらがドウホウ』
化物の右腕が赤く、熱を帯び雨が音をたてて蒸発していく。
首が焼け、男が苦悶の表情を見せる。
『いや、クリムゾンブルー…!』
化物の右腕から発した業火は一瞬で男を包み焼き尽くす。
ここで…ーー意識が遠退き、化物の声が意識の中で反芻する。
死ぬわけには…ーー眼下の化物を睨みつけると、男の中の何かが弾けた。
「…いかない!」
男は化物の腹を蹴り上げる。
化物は小さく呻くと同時に右腕の力が緩んだ。
その隙を逃さずに腕を振りほどき距離を取る。
身体が燃えるように熱いのに、頭の中は冷静で……奥底から力が湧くのを感じた。
化物は見た。
自らの身体を焼き尽くしながらも意に介さずこちらに向かってゆっくり歩む男の姿を。
化物は見た。
自分が放った炎が明らかに変異していく様を。
化物は見た。
男の胸部の中央に光り輝く青いクリスタルを。
「さぁ、第二ラウンドだ…来いよ」
男はさっきまでの男では無かった。
その姿は紅の化物…いや、紅蓮の魔人というべきものに変異していた。
魔人はゆっくりと拳を構え、敵である化物を挑発する。
『な、ナめやがって…!』
化物は魔人に向かって駆け、その両腕を振るう。
魔人はその猛攻を軽々いなし、逆に化物の顔面に右の拳を撃ち込む。
物理法則など始めから存在しないかのように化物は十数メートル後ろに吹き飛ぶ。
自分自身驚いていた。
武術の心得があったかどうかなんて分からない。
あったとしてもこれは異常だ。
力が溢れるようだ。
がしかし、今は関係ない。
今はただ降りかかる火の粉を振り払うだけだ。
ーー徹底的に!
右足に力を込めたと思うと、消えた。
否、駆けだした。
「どうやら、俺はお前の力を凌駕したようだ」
一瞬にして距離を詰められた。
そしてさっきとは丁度逆。
魔人が化物の首根っこを掴む。
力を込め釣り上げる。
化物の恐怖に歪んだ顔がとても愉悦に感じた。
「そうだな…趣向返しと言うのも面白いな」
念じる。
燃え、弾け、爆ぜるイメージを…!
いや、それだけでは面白くない。
周囲の雨で冷め切った熱も、自らに纏わり付く炎の熱も全て化物にぶつける。
骨一本も……いや、全てこの世から消滅させてやる。
「ーー爆ぜろ…!」
爆発。
その圧倒的爆発力に耐えきれず化物が四散する。
破片が燃え、やがて雨によって白い煙をあげて炎が消えた。
男の視界が歪む。
俺はこんなところでーー男は倒れ、目の前が暗闇に溶けて行った。