夕焼け図書館
ゆらゆら、ゆらゆら。
水槽の中で金魚が躍る。
縦横無尽に。自由奔放に。
生まれ変わったら、金魚になりたい。
その美しい尾びれで。その繊細な背びれで。
見るものを魅了する、金魚に――。
「…ん?何、これ?」
何気なく開いたページの間に、その紙はあった。
昼ごろまで降っていた雨も上がり、オレンジ色に染まった図書館。校舎の奥にひっそりと佇み、うっそうとした木々に囲まれたここは、その存在すら知らずに卒業していく生徒も少なくないだろう。かくいうあたしも、ここの存在なんて知らなかったし、知っていたとしても訪れることなんてなかっただろう。本なんて教科書だけで十分だ。
まぁ、教科書もろくに読んだことがないけどね。
夏の名残とけだるい雰囲気と申し訳程度にただよう冷房。試験期間中はぽつぽつと自主勉強のために生徒が訪れているらしい図書館も、2学期が始まったばかりの今ではその姿はまばらだ。そして、その中でも奥まった洋書コーナーには滅多に人が来ない。その少しかび臭い空間の窓際にある申し訳程度に置かれた年代物のテーブルが、あたしの定位置。
英語が苦手だから、洋書なんて興味ない。ただただ、誰にも見つからないあたしだけの居場所が欲しかった。学校にも居たくないけど、家にも帰りたくない。
4人掛けのテーブルの真ん中に置かれた30センチほどの透明な水槽には、夜店で買ってきたようなありふれた和金が2匹、水草に囲まれて泳いでいる。その水槽をテーブルにうつ伏せになりながらぼうっと下校の時刻まで眺める。
今日もつまんない授業をなんとかやりすごし、ここに来て飽きることなく水槽を見つめていると、背後でコトリ、と音がした。不審に思い目だけ左後方に向けると、1番下の本棚から本が一冊抜け落ちていた。それは赤茶色く分厚い洋書で両側の本に挟まれる形で背表紙の下の部分が床にお尻を着けていた。
「痛っ…!」
元の位置に戻そうと立ち上がって本棚に近寄り、本に手を伸ばした瞬間にギブスをはめた左の膝に鈍い痛みが走る。
あたしはバレー部に所属している。いや、正確に言うなら、所属していた、だ。
バレーの推薦で高校に進学したあたしは部員にも一目置かれる実力を持っていた。まだ1年ながらもレギュラー入りし、新人戦のメンバーにも選ばれた矢先、スパイク練習の着地の際、左膝に痛みを感じたため、顧問と一緒にスポーツ整形を専門としている病院へ向かった。様々な検査の後にようやく下された診断は、靭帯断裂。その何が何だかちっとも分からないたった4文字のためにあたしの選手生命は絶たれてしまった。
切れた靭帯を再建するための手術を受ければ、ちょっとリハビリが長引くかもしれませんがスポーツも出来るようになりますよ、と真面目を絵に書いたような医者は言った。ちょっとってどれくらい?と尋ねると、また真面目くさった顔で医者が言った。早くて半年くらいですね。
それじゃ新人戦に間に合わない。医者の慰めは全然意味の無いものになった。
それ以来、溌剌としたスポーツ少女だったあたしはどこにも居なくなった。
噂の伝播力とはすごいもので、再建手術を受けるために1週間ちょっと休んでいた間に、あたしがもう以前のようにバレーが出来ないかもしれないということを部活中そしてクラス中の人が知ってしまっている。仲の良かった友達も今では腫れ物に触るような扱いで、正直どこに居ても息が詰まる。
学校に居場所が無くて、でも家にも帰りたくなくて、そして放課後の図書館があたしの居場所になった。
木曜日 昼休み
第2理科室
前5左1 裏
本の間に挟まっていた5センチ四方のメモ紙にはそう記されている。今どきめずらしいくらいの真っ白な紙に四角張った文字で書かれたそれは、まるで暗号のようだ。
木曜日、昼休み…。今日は水曜日だから木曜日は明日だ。第2理科室は主に1,2年生が使う理科室で、もちろんあたしも理科の授業の時に使っている。前5左1って何だろう…それに裏って?
そこまで考えた時、チャイムが鳴る。放課後の静かな図書館で聞くチャイムは思いのほか音が大きく聞こえて、いつも驚かされる。このチャイムが鳴ると部活動以外の生徒は下校しなければいけない。当然、図書館も閉館する。迷ったあたしはそのメモ紙を制服のポケットに入れ、図書館を出た。
ギブスをはめた左足を庇うように片方だけの松葉杖をつきながらバス停に向かっていると、後方からチリンチリン、とベルを鳴らし自転車に乗った男子生徒が近づいてきた。啓太だ。
「亜衣!今帰り?後ろ、乗ってけよ」
「…いいよ。バスあるし」
「遠回りになるじゃん。チャリの方が早く着くぜ」
「…」
「よし、決まり!な?」
あたしは一つため息をつくと、諦めたようにノロノロと自転車に近づく。怪我をして以来、鞄はもっぱらリュックサックを使っている。荷台に横座りすると松葉杖を抱え込む。啓太は小学校に入る前からの幼馴染で、子供の頃はお互いの家を行き来するほど仲が良かった。中学生になってからは疎遠になり挨拶を交わす程度だったが、高校生になり、最近よく姿を見せるようになった。
「…サッカー部は?」
「あぁ、昨日すげぇ雨だったろ?おかげでグランドが使いもんにならなくってさ。今日はミーティングと筋トレだけ」
「…ふーん」
啓太の背中からは、かすかにプールの香りがする。体育の授業があったらしい。小さかった背中も今では見違えるほど逞しくなった。
黒い短髪が爽やかさに拍車をかけ、上級生のおねーさまからも人気があるらしいけど、小さい頃から見てきたせいか啓太がモテていることに違和感を感じる。私にとってはどんなに成長しても啓太は子供の頃のままだ。
その後もあれこれと話しかけてくる啓太だったが、あたしはそのすべてに生返事ばかりしていた。啓太が頻繁に話しかけてくるようになったのは、足を怪我してからだ。きっとあたしが落ち込んでいると思い、気遣ってくれているのだろう。そういえば子供のころから面倒見がよく、リーダーシップを発揮するやつだった。彼にとっては善意だ、そう頭では分っているのに心がもやもやとして苛立つ自分がいた。
家まで送ってくれた啓太は何かを言いたそうにしている。そんな啓太にどうもと聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟くとその視線を断ち切るかのようにわざと松葉杖の音を鳴らしながら家に入る。
誰もがあたしに何かを言いたそうにして口ごもる。クラスメイトも、バレー部員も、担任も、顧問も、親も。
…何も聞きたくない。何も。
あたしはその松葉杖を玄関にポツンと佇むもう一つの杖の上に乱暴に重ねるとただいまも言わずに2階の自分の部屋へと向かった。
翌日、教室へ向かうと昇降口のところで真琴が待っていた。真琴は高校に入って出来た友達だ。同中の友達とクラスが分かれてしまったらしく、廊下側の席に所在無げに座っていた真琴に、私から話しかけた。女の子っぽくて優しい真琴。やせぎすで背ばっかり大きくて女の子らしさのカケラもないガサツなあたしとは大違いだったけど、それが逆に良かったのか、真琴とはすぐに仲良くなれた。でも、あたしが怪我をして以来、意識的に距離を置いてしまっている。
「亜衣!おはよう。…鞄、持とうか?」
真琴の困ったような今にも泣きそうな目をみると、自分の心が急にささくれ立ってくるのが分かる。
「いい。平気」
あたしは冷たく真琴を突き放すと、自分で片方だけ上靴に履き替える。真琴が善意で申し出てくれているのは分かってる。だけど、あたしを憐れんでいると思うと素直になれなくなる。真琴はそんなあたしをオロオロしながら見つめ、教室に向かうあたしの後をついてくる。
午前中は何を言っているかちっとも分からない教師の授業を聞くのも面倒で、ずっと窓の外をぼんやり眺めてして過ごした。教師も気を遣っているのかあたしの存在をスルーしている。
別に学校に来なくても良かった。街をブラつくなり、公園のベンチで1日過ごすなり、ただ時間を潰すならいくらでも方法がある。でも、怪我が原因で登校拒否なんて、カッコ悪すぎる。だから、あたしは毎日学校に来る。
ようやく昼休みになり、一度も開かなかった教科書を机の中に戻していると、真琴が遠慮がちに近づいてくる。
「亜衣。一緒にお昼ご飯、食べよ?」
「…用事があるから」
「…そう。…亜衣、私、待ってるから」
逃げるように教室を出るあたしの背中に真琴の声が追いかけてくる。
…何を?
真琴は、何を待っているというんだろう。
…どうしよう。教室を出たものの、用事なんてあるわけがない。
1階の廊下の角を曲がると、壁に背を預けて松葉杖を横に立て掛ける。食欲もないし、行きたい場所もない。自販機で飲み物でも買おうとポケットに手を入れると、昨日図書館で見つけたメモ紙が入っていた。
忘れてた。木曜日の昼休み…ちょうど今だ。
あたしはそのメモ紙をしばらくの間見つめ、どうせ誰かのつまらないイタズラだろう、と思ってくしゃりと握りつぶした。自販機の横にあるゴミ箱にそのメモ紙を捨てようとしたけど、何故か手を放すことが出来なかった。あたしはため息をついて手を戻し、もう一度メモ紙を開いて見る。
…どうせすることもないし、行ってみるか。
メモ紙を再度ポケットに入れ、あたしはのろのろと第2理科室へ向かった。
理科準備室にいる教師に忘れ物をしたと言って鍵を借り、理科室に入る。冷房の名残と薬品の匂い。あたしはドアを閉めて教室の中を見渡す。ポケットからくしゃくしゃになったメモ紙をじっくりと読む。
木曜日 昼休み
第2理科室
前5左1 裏
「普通に考えると、机のこと…だよね」
教室には作り付けの2人掛けの机が縦に5列、横に3列並んでいる。まさかね…と思いながらあたしは前から5列目の左の席に近づく。硬質で丈夫そうな作り付けの机。しゃがむのは辛いから腰を曲げて机の裏を覗き込む。
…何もない。
少しだけ期待してしまったあたしは脱力して椅子に座りこむ。やっぱりただのイタズラだったんだ。わざわざこんな所まで来て。バカみたい。そもそも、あのメモが最近書かれたものなのかも分からないのに。
2人掛けのテーブルにうつ伏せになり、顔を横に向けて目を閉じる。昼休みの賑やかな喧騒が遠くに聞こえ、まるで別世界に居るかのように感じる。
束の間うたたねしてしまったようだ。目を開くと、左の端にある机に陽があたり光っていた。
今日は曇りなのに変だな。っていうか、陽が当たっているというよりはまるで机が光ってるみたいだなとぼうっとした頭で思った途端に光が消えて元の薄暗い教室に戻る。光っていた机を眺めていたあたしは、あることに気づいた。
…待って。「前5左1」って、こっち側から見たら場所が違うんじゃない?
あたしが今座っているのは教室の入口から見た「前5左1」だ。入口は教壇の横、つまり「教師側から見た前5左1」だ。でも、あの暗号が「生徒側から見た前5左1」だったら?同じ5列目でも左から1番目の席は正反対だ。あたしは急いで立ち上がり、松葉杖を掴み反対側の席へ移動して、おそるおそる机の裏を確認する。
「…あった…!」
そこには5センチ四方の空柄のメモ紙がセロテープで貼られている。破れないように慎重にセロテープを剥がしてメモ紙を確認する。
金曜日 昼休み
学食
自販機 上
「また暗号ぉ~?」
思わず声をあげる。小学校の頃、こんな話を聞いたことがある。トイレの左側に「右を見ろ」右を見たら「後ろを見ろ」後ろを見たら「馬鹿が見る~」ってやつ。今回もそんなオチだろうか。でも、あたし、ちょっと期待してる。明日も行ってみてもいいかな、という気持ちになっている自分に気付いた。
それにしても、光がなければこの暗号は見つけることが出来なかった。光はどこから来ていたんだろう。向かいの校舎から誰かが鏡を使って光を反射させたのだろうか?
窓際に近寄って見渡すが、それらしい光も人も見当たらない。ふと目線を下に下げると、最近毎日のように通っている図書館が視界に入ってきた。誰にも見つからないようにひっそりと佇んでいるはずなのに、妙にその存在が気になる。あたしは何故だかその図書館から目を離すことが出来なかった。
翌日、金曜日。午前中の授業が終わると同時に席を立つ。物言いたげな真琴の視線を振り切って、あたしは学食へ急ぐ。うちの学校の学食は南校舎と北校舎の間にあり、自販機は中庭に面する場所に設置されている。早く行かないと他の生徒に自販機の上をまさぐる怪しいヤツだと思われてしまう。でも、松葉杖での移動は時間がかかって、あたしが学食に着いた時にはすでに昼ご飯を求め男子生徒が大勢たむろしていた。
四限、サボれば良かった…
後悔しつつ、覚悟を決めて自販機に近寄る。ちなみに、朝一番にチェックしてみたけど、メモ紙は無かった。さりげに周囲を確認し、ささっと手を伸ばす。左端からつつっと指を滑らせると、真ん中辺に紙の手触りを感じた。
よし、見つけた!
「…亜衣、何やってんの?」
見つけた瞬間に心の中でガッツポーズをしていると、背後から男の声がする。顔を見なくても分かる、声の正体は啓太だ。あたしはメモ紙をさりげなく制服のポケットに滑り込ませ、平然を装って振り返る。
「何でもない」
「何でもないって…まぁいいや。昼メシ、まだなんだろ?今日、母さんが弁当大量に作って困ってたんだ。一緒に食おうぜ。うちの卵焼きとハンバーグ、好きだったよな?」
食欲ないから、と断ろうと思ってたけど、卵焼きとハンバーグと聞いて、心が動いた。啓太のお母さんは料理が上手で、いつも工夫されたお弁当を作る。一口に卵焼きと言っても、チーズと明太子が入っててかなり美味しい。ハンバーグもつくねの照焼き風で、ちょっぴり入った生姜がクセになる。どちらもあたしは大好きで、啓太のお母さんに「亜衣ちゃんは将来酒飲みになるかもね」とよく言われたもんだった。啓太と疎遠になって以来口にしていない好物につられ、啓太について学食の中に入る。うちの学食は広く、お弁当を持参している人と食堂メニューを頼む人が一緒に食べたりもできる。
一緒に来ていた部活仲間らしい連中に、今日はコイツと食べるから、と言って啓太は窓際の席を陣取りあたしに手招きする。
「亜衣、こっちこっち!早く座れよ。」
こんな場所で、名前で呼ぶなんて、どうかしてる。周りの女子が私に向ける視線が痛い気がするのは、きっとあたしの勘違いじゃないはずだ。
しぶしぶ席に着くと、啓太は無料で提供されているお茶を湯呑に2人分注ぎ、1つをわたしの前に置く。そして男子の弁当とはいえ大きすぎる弁当箱(しかも2段)をテーブルの上にででんと広げた。
「…こんなに誰が食べるの。」
「俺と亜衣で。」
「あたし、こんなに食べれないよ?」
「残ったら持って帰る。母さん、悲しむだろうな…」
啓太に残念そうにそう言われてぐっと胸が詰まる思いがした。頭に啓太のお母さんが悲しむ顔が浮かぶ。あたしは覚悟を決めて、啓太が寄越したお弁当に取りかかる。啓太が食べている弁当箱よりは小さいが、それでもかなりのボリュームだ。しかも食べ始めて気づいたけれど、あたしと啓太の弁当箱はそれぞれにおかずやおにぎりが詰まっている。つまり、「二人分のお弁当」ではなく「お弁当が二人分」なのだった。二人分のお弁当なら1段目がおかずで2段目がおにぎり、となってるのが普通だ。最初から、私に食べさせるつもりで作ったんじゃないか、というのは私の考えすぎだろうか。啓太のおせっかいめ。そう思いながら卵焼きを口に運ぶ。…懐かしい、啓太のお母さんの味。あたしは一口一口味わいながら、かみしめながら無言で食べた。
月曜日 放課後
校長室
植木鉢 裏
啓太と別れてからメモ紙を見るとやっぱり次の暗号が書かれていた。
月曜日…。しあさって。土日の休日が煩わしく思うなんて、あたしはどうしちゃったんだろう。
その後も、私と暗号が書かれたメモ紙の追いかけごっこは続いた。それは体育館の倉庫だったり、職員室だったり、運動場の隅っこだったり、屋上だったり。実はあたしを疲れさせるのが目的なんじゃないかと穿った考えをしてしまうくらい、学校中を引っ張りまわされた。そして、最初に図書館でメモ紙を見つけてから2週間が経った。その間、啓太は相変わらずちょっかいを出してきて、相変わらず真琴とはギクシャクしたままだった。
平日 放課後
図書館 洋書コーナー
下1左15
そのメモ紙は放課後、中庭にある二宮金次郎が読んでいる本に張り付けてあった。
結局図書館に戻るのかよ!ふりだしじゃん!!
心の中で思わずツッコミを入れた私は、これでまた暗号が続くようならもう追いかけるのはやめよう、と思っていた。でも、今回の暗号は何かが違う。何だろう…としばらく考えて、気づいた。いつもは必ず曜日指定があったのだ。それは必ず翌日で、あたしはかなり焦らされていた。今回の暗号は「平日の放課後」だ。
…つまり、これからでもいいんじゃない?
そう思ったあたしは踵を返し、図書館へ向かう。幸か不幸か、この暗号を追う2週間の間にすっかり松葉杖を使っての歩行が上手になってきた。そういう競技会がもしあれば、きっと優勝するだろう。
放課後の図書館はやはり学校の中でも空気が違う。すっかり顔なじみになった図書委員の先輩に軽く会釈をすると、音を立てないようにいつもの洋書コーナーがある図書館の最奥へと進む。本棚の一番下の左から15番目…そこには落ち着いた赤い色の装丁本があり、表紙は金色の飾り文字で飾られている。
「マザーグース?…ってあの、ハンプティダンプティのやつ?」
中学の時、英語の授業で習ったそれは、卵の頭を持つハンプティダンプティの姿が印象的で記憶に残っている。でも、この本がどうしたというのだろう?メモ紙はどのページにも挟まってない。あるのは前の人が入れたと思われるしおりが挟まっているのみだ。数え間違いかと思って再度15冊目を確認したけど、これで間違いない。本と本の隙間もなく、貸出中というわけでもなさそうだ。本物の四葉のクローバーが張り付けられているしおりにも何も書かれていない。もしかして、しおりが挟まっているページに書かれている内容が暗号なのだろうか。あたしはそこに書かれている英文をとりあえず和訳してみることにした。
「えーっと、バラは赤い、バイオレットって何だっけ。…スミレ?スミレは青い、えっスミレって紫じゃないの?…まぁ、いいか。それで?ピンクは甘い、そして、とても、あなたは??」
英語が苦手なあたしにはちんぷんかんぷんだ。よし、と呟き、私は1つ手前にある翻訳書コーナーでマザーグースの和訳本を探してきた。こんな時だ、必殺カンニング。そして、そこに書かれている「バラは赤い」という詩を探し当てた。
バラは赤い
スミレは青い
砂糖は甘い
そしてあなたも
…これは、私の見解が正しければ、恋の詩なのではないだろーか。
いやいやいや。冷静になれ、あたし!
どこの世に、あたしにこんな手の込んだラブレターを渡すモノ好きがいるっていうんだ。
きっと、相手を食べたら甘かった的な怖い歌なんだな、うん!
…で?怖い歌をあたしに教えて何になるっていうんだろう??
しばらく考えてみたものの、結局答えは見つからなかった。だけど、これで暗号ごっこは終わりなんだということだけは分かった。
なんだか中途半端に投げ出されたような不完全燃焼さが残る。あたしは脱力していつもの席に座りこんだ。
今日も金魚はゆらゆら、ゆらゆらと漂う。
ゆらゆら、ゆらゆら。
水槽の中で金魚が躍る。
縦横無尽に。自由奔放に。
あたし、生まれ変わったら、金魚になりたいな。
こんな背ばっかり高くてちっともかわいくないあたしなんかじゃなくて。
そのきれいな尾びれと背びれで見るものを魅了する、金魚にさ。
“・・・・・・”
そう思いながら金魚を見つめると、ふいに声が聞こえた気がした。
「ん…?」
耳を澄ませたが何も聞こえない。どうやら空耳だったようだ。
机にうつ伏せになると、また誰かの声がした。
“正門…今すぐ…”
囁くような小さい声だったけど、今度はさっきよりはっきりと聞こえた。だけど、周りには誰もいないはずだ。しかも、声はすぐ近くで聞こえた。
あたしは水槽の中で優雅に泳ぐ金魚を見つめた。
…まさかね。正門って聞こえたけど、何があるんだろう。
…とりあえず行ってみるか。
そこでタイミング良く下校の時刻を知らせるチャイムが鳴り、あたしは図書館を後にして正門へ向かった。
昇降口で靴を履き替え、正門へ向かうと自転車置き場から啓太があたしに気づいてチャリで近づいてきた。今日も部活が早く終わったらしい。暗号が消化不良で未だにモヤモヤを引きずっていたいた私は啓太に気づかないふりをして先を急ぐ。
「亜衣。」
「…」
「亜衣。後ろ、乗ってけよ」
「…」
「亜衣ってば!」
「…うるさいっ!ついてこないで!!」
無視しても大声でしつこく呼びかけてくる啓太に段々腹が立ってきたあたしは振り向きざまに怒鳴り散らした。
「何でそんなに構って来るの?あたしに同情してるの?そういうのウザいからやめてよ!」
下校途中の生徒があたしの大声を聞いて何だ何だと集まってくる。でも、頭に血が上ったあたしはそれに気づかず、啓太を睨みつけた。
「同情なんてしてない!ただ、心配してんだよ!」
「心配して、なんて誰が頼んだの?関係ないんだから放っておいてよ!」
「心配するかどうかは俺が決める!それこそお前には関係ない!心配しないでって言われて心配するのを止められるやつがどこに居るんだよ?心配されたくないなら、そんな顔してんじゃねーよ!」
「あたしがどんな顔してるって言うの!?」
「この世の不幸を全部背負ったかのような顔だよ!たかがバレーが出来なくなったくらいで毎日死んだような顔しやがって!自分じゃ気づかなかったかもしれないけどな、お前は皆に同情されたがってるんだよ!」
その一言で、あたしの中の何かが、キレた。
「…たかが!?たかが、じゃない!あたしにとってバレーは全てだった!毎日毎日辛い練習に耐えて、友達と遊びに行きたいのも我慢して。それなのにたった一度の怪我でもう前のようにバレー出来なくなった!もう、誰もあたしを必要としてくれない。何もかも終わりなの!」
啓太の言葉の全部が痛かった。人の触れてほしくないところに土足で入ってくる言葉。だけど、図星だった。あたしは今、この世で一番自分が不幸だと思っていた。もちろん、それが間違っていることも分かってた。でも、自分の感情を抑えることが出来なかった。薄っぺらい同情をしてくる周りを遮断することで心を保っていた。だけど、心の奥底では同情されて安心してるあたしもきっと居た。わざと遮断して、相手の困った顔を見るとまだあたしは必要とされてるんじゃないかって、周りを試していた。そんなあたしに啓太は遠慮なく現実を突き付けてくる。あたしの甘えと、あたしのズルさを。現実はこんなにも痛くて、苦い。
悲鳴のような叫びを啓太にぶつけると、啓太は乗っていた自転車を蹴り捨て、あたしに突進してくると、あろうことかあたしを押し倒して馬乗りになり、胸倉を掴んできた。押し倒された拍子に、主を失った松葉杖がカランと大きな音を立てて転がった。左足に痛みが走ったけど、それよりも驚きの方が勝っていた。人に胸倉を掴まれるという初体験を果たしたあたしは、予想外の出来事に言葉を失い、目を見開いて啓太を凝視する。
「俺にとってはたかが、だ!バレーが出来なくなって、それがどうした?それで終わりじゃないだろ?医者にもう前みたいにバレーは出来ないって言われたからって、やってみなきゃ、まだ分かんないだろ?劇的に回復することだってあるかもしれない。どうなるかなんて誰にも分からないんだ。医者や、周りのヤツらの言葉に惑わされるな。自分だけを信じろ」
「…やってみて、ダメだったら?」
「ダメだったら、そん時考えろ。俺も一緒に、考えるから」
「…」
「例えダメでも、お前の新しい生きがいを一緒に探す」
「何で…」
そんなことを言ってくれるの、とは溢こみ上げてくる涙と喉の痛みで言えなかった。
諦めろ、でもなく、残念だったな、でもなく。
逃げるな、戦え、と言ってくれたことが嬉しい。当たり障りのない慰めの言葉じゃなく、痛くて切れそうなほどの鋭い言葉で、だけど誰よりもあたしの心に添ってくれた言葉。
胸倉を掴まれ怒鳴られているのに、あたしの心は高鳴っていた。まるで試合の前のような昂揚感。その時、ただの幼馴染だった啓太が、等身大の啓太になった。
「俺はずっと、お前のそばにいるから」
その瞬間、騒がしかった群衆が一瞬で静まり返った。オォ~ッっというどよめきの後に拍手が起こる。
その時になってやっと周りの状況に気づく。どうやら啓太の言葉を告白と思ったらしい。そんなんじゃないのに。一部始終を聞かれたことが恥ずかしくてたまらない。
啓太はいつの間にか集まった群衆に見世物じゃねーぞ、と言いながらあたしを立たせる。腫れ上がった瞼のあたしを啓太は自転車の荷台に乗せ、囃し立てる群衆から抜け出した。その時、その群衆のなかに真琴を見つけた。今にも泣きそうな顔だ。あたしは真琴に相当ひどいことをしてきた。その友情を確認するために、何度も、何度も真琴を傷つけてきた。「待ってるから」は、あたしが現実を見つめて、立ち直るのを待ってるから、という意味だったんだ。真琴の優しさが、今になってようやく分かる。あれは、憐みじゃなく、労わりのまなざし。
「…真琴!」
荷台から声を掛けると真琴ははっとしてあたしの目を見つめた。
「…今までごめん!ほんとにごめん!」
真琴の目にみるみると涙が盛り上がる。
「それから、心配してくれてありがとう!…また月曜日、学校で!」
言えた。ぶんぶんと手を振る。真琴は何度も頷き、俯いて泣き出した。
女の子らしくて、優しくて、大好きな真琴。傷つけた分、今まで話さなかった時間の分、これからたくさん真琴と語り合いたい。話を聞いてほしい。彼女を失わなくて本当に良かった。小さくて、ドジでかわいい真琴。今まであたしが面倒を見てきたつもりだったけど、実は逆だったのかもしれないな、とあたしは思った。
学校から遠ざかるとさっきまでの激情もようやく収まり、涙も乾いてきた。
啓太は一言もしゃべらず、自転車をこぎ続ける。
「…ねぇ」
「ん―?」
「あたしさぁ、さっきまで金魚になりたかったんだよねぇ~」
「は?金魚?何で?」
「だってさ、ゆらゆら~って、楽しそうじゃない?」
「そうかな。金魚だって泳ぎたくて泳いでるか分かんねーだろ」
「そうか」
「そうだ」
「そんなもんか」
「そんなもんだ」
土手にはランニングしてる人や、犬の散歩をしている人がいる。
草の匂いと、夕日の熱さを感じる。
「…ねぇ」
「何だ」
「…何でもなーい」
何なんだよ、気になるじゃねぇか。そう文句を言う啓太を無視して、あたしは背を反らせて空を仰ぎ見た。
「おいっ!危ねぇからあんま動くなっ」
「はーい」
あの暗号を書いたのは啓太なのだろうか。
そして、あたしへの気持ちは友情なのか、愛情なのか。
聞きたかったけれど、やっぱりやめた。謎は謎のままの方が良い気がしたから。
どっちにしても、男に胸倉を掴まれながら恋に落ちるのは後にも先にもあたしだけに違いない。そう思うと何故か頬が緩んでくる。
いつか、図書館や理科室で起こった不思議な現象のことを、啓太に話してやってもいい。
そしてそのまたいつか、あたしの鍵を渡してやってもいい。
誰も開けたことが無い、あたしの心の鍵を。
嫌だって言っても、聞かないからね?覚悟しとけよ。
いつのまにか始まった啓太の調子っぱずれな鼻歌と自転車のちょこっと軋んだ音をバックミュージックにして、あたしはいつまでも空を見上げていた。
夕暮れに染まる美しい空はどこまでも高く、どこまでも続いていた。
あたしはその夕日の色を、ずっと忘れないように目に焼き付けた。
初めて小説を書いてみました。
未熟な文章で大変恐縮ですが、一人でも読んで下さる方がいたらとても嬉しいです。