第5話
「どうした、トラ。もうばてたか?」
荒川拓巳がセカンドのポジションから声をかける。
「7回まで一人で投げているのに、ねぎらいの言葉はないのかよ。」
一虎が額の汗を拭きながら顔をしかめた。
全国大会決勝、相手は神奈川県代表の松尾中学。
3対1でリードしているものの、最終回の7回裏2アウト満塁、しかもバッターボックスには4番の宇都宮。
最大のピンチだ。
拓巳がマウンドに歩いてきた。
「教えてやろうか?スピードと切れがなくなったお前が、あいつを打ちとる方法を。」
一虎ははっと驚きながら拓巳を見た。
拓巳の言うとおり、すでにスピードも切れもない。
今日シングルヒットとツーベースを打たれているあの強打者を打ちとるためにはどうすればいいだろう、ちょうどそう思い悩んでいたところだ。
「どんな方法だ?」
一虎が小さな声で聞いた。
拓巳は少し顎を上げ、腕組みをした。
「俺の方に打たせることだよ。何とかしてやるからアウトローに思いっきり投げろ。」
そう言うとニヤッと笑い、一虎の肩をグラブでぽんと叩いて守備位置に走っていった。
(ちぇっ、もっといいアイデアがあるのかと思ったら、俺の方に打たせろだと?俺ってそんなに余裕のない顔をしてたのか。)
一虎は大きく深呼吸した。
(びびって投げたっていい結果は出ない・・・か。)
キャッチャーからサインが出た。
長打を警戒してアウトロー、拓巳が言ったコースと同じだ。
一虎が首を横に3回振った。
実は一虎がサインを断るときは、首を横に2回振る。
3回振る時は断っているふりをして、そのサイン通りに投げるという合図だった。
キャッチャーがインコースに構える。
これもダミーだ。
一虎が大きく振りかぶった。
拓巳は低く腰を落とす。
キャッチャーがそっとアウトコースに寄った。
『カキーン!』
鋭いライナーがファーストの頭を越えてライン際へ落ちた。
「フェア!」
審判の声に客席からワーッと歓声が起こる。
ランナーが1人ホームイン。
続いて2人目もホームイン、同点だ。
そして3人目が勢いよく走ってきた。
ボールはセカンドの拓巳からバックホーム。
クロスプレー。
一瞬の静寂。
審判が両手を水平に振る。
「セーフ!セーフ!」
またもやワーッという大歓声。
宇都宮が両手を突き上げ、ベンチへ走る。
松尾中学の選手たちが次々と宇都宮に抱きついた。
走者一掃のさよならツーベースヒット。
勝利の女神は今大会屈指のスラッガー、宇都宮を擁する和歌山県代表松尾高校にほほ笑んだ。
一虎は宇都宮が何度もガッツポーズをする様子を見ながら自陣のベンチへ向かった。
悔し涙を流すチームメイト。
「トラ」
監督が一虎を呼んだ。
「トラ、お前はよく投げた。最終回は他のピッチャーに代えるべきか迷ったが、俺はお前にかけた。最後の球、あれはいいカーブだった。あの球を打たれたってことは、他のどのピッチャーでも打たれているよ。だから胸を張れ、トラ。この借りは甲子園で返せばいい。」
「はい!」
一虎の眼に涙はなかった。
悔しそうな表情もしていない。
チームメイトに申し訳ないという気持はあった。
だが、渾身の一投を完ぺきに打ち返した宇都宮に対するライバル心がふつふつと湧きあがってきた。
(この借りは甲子園で必ず返す。)
いつまでたっても興奮さめやらない相手のベンチ。
その中心で笑っている宇都宮の顔を、一虎はきっと睨みつけた。