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沈丁花の畔

作者: 柚木

 見慣れたこの坂道を歩くことに、疑問を持った人間が果たして何人いただろう。



 白い息を吐きながらマフラーに顔を埋めて、凍った落ち葉を踏みしめる。視線を落とすと、ちょっと擦りきれた茶色のローファーがまた一歩前に出るところだった。

 学校へと続く長い坂道。春は桜が咲き乱れてなかなかに美しいが、枯れ葉一つない冬では何の趣もない。そんな道を、寒い寒いと文句を言いながら私は歩いている。朝は早くから起きて、満員電車に身体を詰め込んで。

 毎日……毎日。本当、気が遠くなる。けれど習慣というのは恐ろしいものだ。たとえ寒さや人混みに文句を言おうとも、小学校から続けているこの行いそのものに疑問なんて持ったことがない。刷り込み、と言ってもいいかもしれない。先週習ったばかりの言葉を思い出す。私たちは、そう、アヒルの人形を追っかけるあのヒナなのだ。中身のないものに必死になってしがみつく、哀れなヒナ。



 前を歩く女子生徒の、高い位置で揺れるツインテールをぼんやり眺めながら坂を登る。その生徒の肩越しに校門が見えた。生活指導の教師が仁王立ちで待ち構えている。

「うわ、今日もいるよ」

 少女が振り返って苦い顔をしてみせた。けれど横で揺れる二房の髪が愛嬌を添えていて、あまり悲壮感はこちらに伝わらない。彼女は何をしても可愛くなってしまう。

「寒いのによくやるよね」

「いくら注意したって意味無いの分かんないのかなあ」

 私たちは好き勝手言いながら校門の前まで歩いていった。さすがに聞こえると面倒なので、いつもより音量は下げ気味だったが。

 荷物点検されたら嫌だな、と思っていたが杞憂に終わった。運よく前の男子生徒の集団が捕まってくれたので、私たちはそのまま足早に通りすぎた。ご愁傷さま、なんて笑いあいながら教室に向かう。校舎の中は人の熱気で生温かった。




 退屈な授業をやり過ごし、やっとお昼の鐘が鳴るころには机に突っ伏していた。真っ白なノートをすばやく閉じていつものメンバーで机を寄せて弁当箱を開く。今日のは会心の出来だ。


「ほほお、純和風ですか」

 きんぴら、磯辺揚げ、煮物、肉団子……ぎっしりと、でも見栄えよく。その辺の主婦には負けないその中身を見て、級友の一人が声をあげた。そんな彼女は購買の菓子パンをほお張っている。この子はいつもこうだ。弁当を持ってくるのを見たことがない。

「本当だ、美味しそう」

「すごいねえ」

「昨日から仕込みましたもの。もっと褒めろ」

「じゃあこの磯辺揚げくれたら」

「却下ー」

「あ、そうそう昨日のドラマ見た?」

 周りの子たちも覗いてくる。そこでちょっとふざければ、すぐに弁当そのものから関心は逸れる。きゃあきゃあと騒ぎながら目まぐるしく移り変わる話題は、彼女たちの心そのものだ。何も考えない。とても軽く、浅い。そうでもなければ生きていけないから。



 尽きることのない、とりとめのない話で盛り上がりながら箸を進める。いつものこと。

 そのうち用事やら別の子に呼ばれたやらでみんな席を立っていく。最後には、私とツインテールが愛らしい彼女だけが残る。これも、いつものこと。


「由紀はさあ」

 突然名前を呼ばれて、私は携帯の画面から目を離す。一方の彼女は自分の携帯を眺めたまま。

「いつも弁当作ってくるでしょ、大変じゃない?」

「そうかな、慣れると案外できるもんだよ。基本手抜きだし」

「でも手作りじゃない。私の弁当なんて冷凍ばっか。あの人専業主婦なのにさ」

 愛がない、と彼女は天井に向かって大げさに嘆いてみせた。

「榛のお母さん、パート始めたんじゃなかったっけ」

「三日ともたなかったよ、堪え性ないから」

 乾いた笑い声を一頻りたてて、彼女はこっちを見た。その瞳に常にはない真っ直ぐなものを感じて、私は気付かれない程度に目を細める。


 ねえ。ちょっと間延びした声は甘ったるくて、いつも通り明るい。


「ねえ、また別れたんだってー」


 それは、予想していたいくつかの台詞の一つだった。うん、と私は頷く。



 彼女の、榛の母親は、もうどうしようもない人だった。男の人がいないと生きていけないような弱い人だった。榛の父親だって誰か分からない。榛のことも女手一つで育てたとかではなく、その時々で愛してくれる男の金で、母子ともに養われている。飼われているんだ、といつだったか彼女は言った。

 学年が変わってからは彼女は弁当を持参するようになった。それも、本当のところ彼女の母が作ったものか定かではない。ただ彼女が笑ってお金が浮くと言うから、私も何も言わずに笑って頷いたのだ。


「今回はさあ、けっこう長かったし、珍しく真面目な人だったし、良かったんだけど」


 私に触ってこないしさ。また携帯に視線を戻して、彼女は天気の話をするような軽さで話を続ける。私も携帯を操作しながら時折相槌を打つ。なるべく、何てことないかのように。それは私たちを守るたった一つの防波堤。


「やっぱああいう真っ当人間には、私たちって無理なんだろうね」


 花が咲くような笑みを顔に乗せて、自虐的に彼女は言った。彼女は自分の母親を、そしてそれ以上に彼女自身を嫌悪していた。底辺にいる、堕ちた人種だと軽蔑しているのを知っている。


 そして、そんなどうしようもない奴だと思いながらも見捨てきれないのだ。だからこそ彼女は心の底から自分を嫌うのだろう。


 全て諦めて、本当に堕落してしまえば楽だと分かっていて。それでも尚何かを諦めきれない。


 ……まあ、私も人のこと言えないか。いつでも目蓋の裏に浮かぶのは、見慣れた父と呼べる男の姿だ。知らず腕をつねる指をもう片方の手で覆ってやる。それから達観したような思いを巡らせていた自分を苛立たしく感じながら薄く笑った。



 囚われている。それでいて自由になったつもりでいる。馬鹿馬鹿しい。なんて哀れな道化。



 真っ当であろうと、人として正しく生きようとすればするほど暗い世界は優しく私たちを手招きする。開けた世界をふらつきながら進もうとする私たちを誘惑してくる。


 ねえ榛、普通に生きていくって難しいね。学校に行って勉強して友達と笑う。その当たり前のことに、時々どうしようもないほど苦痛を感じる。私たちだけじゃない。理不尽な世界で理不尽に笑っている子どもたちはみんな、何かに潰されている。そう、私たちだけじゃない。


 ――それも痛みの一つである。


 トクベツでないということは、最早死を想わせる最たることの一つだ。


 榛が代わる代わる母親のオトコに『世話される』のも、私に振りかざされるあの男の拳も。あまりにも陳腐でありふれたものに過ぎなかった。所詮その程度のことだった。それに絶望したのは、もうずっと前のことのように思う。





「じゃあまた明日ね」

「あ、先生さよならー」

「ねえ本屋寄ってかない?」


 その後も何一つ変わらず時間は過ぎた。当然のように放課後になった今日も、私は彼女と歩いて家路に着く。帰りたいと思ったことなんてないのに、私の体は何の躊躇いもなくあの家へと私を連れていくのだから笑ってしまう。


 ぱこん、とぞんざいにローファーを落としてつっかける。何気なく彼女のほうを見たら、下駄箱を開けたまま携帯を眺めていた。見ている、と言うよりも本当にただ視界に入れているだけのように感じた。それほどまでに人間性が窺えない雰囲気だった。


 しばらく待ってから、榛、と私は小さく呼び掛ける。人も疎らになった昇降口にはよく響いた。


 彼女は自分の名前をスイッチに、単に映像を再生したかのように静かに携帯をしまい、自然な動作で靴を取り出す。歩きながらつま先で地面を叩いてこちらに笑みを向ける。寒いねえとごちる声はいつも聞く彼女の声だった。完璧な、全くもって普段の彼女だった。


 濃く燃え上がる夕焼けと、暗くも鮮やかな藍色が混じり合う空が広がっている。全く彩度の異なる色が主張し合うそれはグロテスクで美しかった。

 そして前触れもなく、彼女が背中にもたれ掛かってきた。


「由紀ぃー」

「何?」

「死にたいなあ」


 幾度も繰り返された、使い古しのフレーズ。簡単に口から出てくる一番軽い言葉はそして何よりも切実で、真実だった。


 私たちはいつだって死にたくなるし、実際、心はすぐに死んでしまっている。

 この世界はまるで綿菓子のように甘ったるくてふわふわと覚束無くて、ひどく息が詰まるのだ。


 そして、そんなことぐらいで死ぬことなんてないというのは、きっとこの世で最上の喜劇だ。

 本当になんて愉快で滑稽なんだろう。ああほらまた、死にたくなる。



「……そうだね、じゃあ死にたくなったからコンビニでアイスでも買って食べようか」

 目を臥せたのはほんの一瞬。すぐに私は悪戯っ子のような笑みを浮かべて彼女を覗き込んだ。彼女もまた、ツインテールを愛らしく揺らして口の端を上げる。

「この寒い中?うわ本当に死んじゃう」

「大丈夫、私らには脂肪がたくさんついてるから」

「いや、言わないで!」


 今日もまた彼女と二人、幾度も通った坂道を歩く。これはもうしばらく続くだろう。何度でも、何度でも、私たちは傷つきながら死にたくなりながらこの道で空虚な笑い声を響かせていくのだ。




 ――見慣れたこの坂道を歩くことに、私はいつか疑問を抱くだろう。


 その時もきっと、私は彼女と笑い合っている。それだけは今、信じられる。


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