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閑話⑮ 「覚悟と、“完全な切り替わり”」


■沈黙のあと


颯太の「そっか」のあと。


リビングは、時間だけが切り取られたみたいに静かだった。


冷蔵庫の低い駆動音と、時計の秒針がやけに大きく感じる。


桃華はソファの端に座ったまま、眼鏡を外した状態で動かない。


“桜井桃華”でもあり、“斉藤もも”でもある、その境界線の上にいるような状態だった。


颯太は正面のソファに座り、しばらく視線を落としていた。


そして、ゆっくり息を吐く。


「……じゃあさ」


桃華が顔を上げる。


「はっきり言う」


「何を?」


声は落ち着いているのに、少しだけ空気が変わる。


颯太は一度だけ目を細める。


「その裏垢のこと」


一拍。


「俺だ」


空気が“止まる”。


桃華のまばたきが、ほんのわずか遅れる。


けれど、崩れない。


驚きより先に、納得が来ている顔だった。


「……やっぱり」


颯太が眉をひそめる。


「やっぱりって何だよ」


「なんとなく」


桃華は視線を落とす。


「全部じゃないけど、見られてる感じはずっとあったから」


颯太は小さく笑う。


「気持ち悪いだろ」


その言葉に、桃華はすぐに否定しない。


一拍置いてから、静かに言う。


「……安心の方が近い」


「は?」


颯太が顔を上げる。


「どういう理屈だよそれ」


桃華は少しだけ肩をすくめる。


「見られてるって分かってた方が、逆に変に考えなくて済む」


「監視されてる方が楽ってこと?」


「違う」


桃華は即答する。


「“気にされてる”って分かってた方が、怖くなかっただけ」


颯太はしばらく黙る。


「……お前ほんと変だな」


「今さらでしょ」


その一言で、空気が少しだけほどける。


⸻


■距離が変わる


桃華はゆっくり立ち上がる。


一歩。


颯太は動かない。


二歩。


まだ動かない。


「なに」


颯太の声は低い。


「確認」


桃華は短く答える。


そして、眼鏡を外す。


カチ、と小さな音。


その瞬間だけ、“仕事の顔”が完全に消える。


颯太の視線がわずかに揺れる。


「……それ、今やる必要ある?」


「ある」


桃華は即答する。


「今じゃないと、ちゃんと戻れない気がする」


「戻るって何にだよ」


「私に」


その言葉で、颯太の表情が一瞬だけ止まる。


「意味わかんねぇな」


「うん」


桃華は少しだけ目を細める。


「でも、それでいい」


⸻


■抱き寄せ


桃華はもう一歩近づく。


距離はほとんどゼロ。


「颯太」


「ん」


「見てたんでしょ」


「……まあな」


「ずっと?」


「ずっと」


短い沈黙。


桃華は小さく息を吸う。


「今も?」


颯太は視線を逸らさない。


「見てる」


「ちゃんと?」


「ちゃんと」


その言葉で、桃華の呼吸がほんの少しだけ乱れる。


けれど、逃げない。


桃華は颯太の服の袖を軽く掴む。


引き寄せるというより、“そこにいるか確かめる”ような力。


颯太は拒まない。


むしろ、少しだけ体が前に出る。


「……近いな」


「うん」


「それでいいのか?」


「いい」


桃華は迷わず言う。


「もう、離れて考える方がしんどい」


颯太は小さく息を吐く。


「お前さ、ほんと極端」


「よく言われる」


⸻


■キス


一瞬、間が落ちる。


颯太が何か言いかけて、やめる。


桃華がほんの少しだけ背伸びする。


距離が完全に消える。


唇が触れる。


一度、確かめるように。


颯太の肩がわずかに動く。


でも、離さない。


桃華も離れない。


言葉が消える代わりに、呼吸だけが近くなる。


もう一度。


今度は少しだけ長く。


颯太の手が一瞬止まり――それから、ゆっくり桃華の背に触れる。


支えるというより、“そこにいていい”と確かめるような手。


桃華の肩から、わずかに力が抜ける。


「……っ」


小さく息が漏れる。


それは驚きでも拒絶でもなく、緊張がほどける音だった。


唇が離れたあと、すぐには距離が戻らない。


⸻


■本音


桃華は少しだけ視線を落とす。


「……これでいい?」


颯太は短く笑う。


「お前が聞くな」


「だって」


「だって?」


桃華は少しだけ迷ってから言う。


「怖いから」


颯太は一瞬だけ黙る。


「何が」


「全部」


その答えに、颯太は困ったように息を吐く。


「今さらすぎるだろ」


「今さらでも怖いものは怖い」


桃華は淡々と言う。


颯太は少しだけ目を細める。


「……ほんと、面倒くさい女」


「知ってる」


⸻


■言葉の整理


颯太がソファに戻りながら言う。


「俺さ」


「うん」


「気持ち悪いくらい見てた」


「知ってる」


「それでもいいのかよ」


桃華は少しだけ考える。


「“それでも”の中身が問題かな」


「どういう意味」


「監視だったら嫌」


「違うのかよ」


颯太は即答する。


桃華は小さく首を振る。


「監視じゃなくて」


「……」


「見てた、でしょ」


颯太は一瞬黙る。


「……まあな」


「それならいい」


桃華は静かに言う。


「見られてること自体は、もう怖くない」


⸻


■最後の沈黙


少しだけ距離が空く。


でも、さっきまでとは違う距離。


壊れない前提の距離。


颯太が小さく言う。


「これからどうする?」


桃華は即答しない。


一拍。


「そのままでいい」


「でも?」


「もう隠さない」


颯太は軽く頷く。


「だろうな」


「疲れるし」


桃華は少しだけ笑う。


「うん」


そして静かに言う。


「じゃあ、同じだね」


颯太も短く返す。


「同じだな」


夜はそのまま続いていく。


何かが壊れた夜ではなく、“形が決まった夜”として。 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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