第9話 邪馬台国
天津軍に動きあり。
その一報が邪馬台国にもたらされたのは、それからしばらくしてのことである。
天津が伊予島に続々と兵を送り込んでいる。内通者からの報告によれば、少なく見積もってその数三千とのこと。
当時天津の基本的な戦略は、大国ゆえの物量作戦を軸としていた。要は相手が潰れるまで兵を送り込むのである。
局地戦では勝利を続けてきた邪馬台国も、実際はそのほとんどが寡戦であった。
天津が次なる波状攻撃をしかけてきたのであろう、当然のようにそう考えた邪馬台国では緊急の軍議が行われた。
「ふん、天津め。この邪馬台にさんざん蹴散らされながら、性懲りのないことですな」
筋骨隆々なる邪馬台国の大将、カグツチ(迦具土)が息巻いた。
彼は建国に大きく関わった「邪馬台の三傑」が一人であり、主に軍事面を統括する立場にあった。その人となりまさに質実剛健、決して折れることのない不屈の闘将として知られる。
「いや、どうも動きがおかしい。天津の狙いは別にあるのかもしれぬ」
そこで野生の狼を彷彿とさせる精悍な風貌の大男が、カグツチにその鋭い目を向けた。
邪馬台国の祖にして初代国王、イザナギ(伊邪那岐)である。
このイザナギという男、倭紀において知勇に優れた傑物、並外れた天賦の才の持ち主であったと評されている。
ことに戦場で兵を率いることにかけては、無類の強さを誇っていた。敵部隊の急所を瞬時に見抜く判断力と、自ら先頭に立って天沼矛なる大矛を振り回し、並み居る敵を壊滅せしめる戦闘力を兼ね備え、当時の人々にイザナギあるところ勝利ありと称されたと記録に残っている。
事実、初期の邪馬台軍の連戦必勝はおよそ彼の実力により成し遂げられたと言っても決して過言ではない。
「ふむ。動きがおかしいとは、どのようにでございましょうか」
イザナギの話を聞いたカグツチが小首を傾げた。
「いつになっても黒金が動かぬ。天津は本気で我らと戦を交える気はないのではないか」
黒金とはトコタチが直属で抱える精兵の総称である。
今や天津軍で最高位の将となったトコタチは、全兵団の中から特に武勇に優れた者に黒塗りの鎧を与え、自らのそばに置いた。
邪馬台国に総力戦を挑むのであれば、その最強部隊が投入されないはずがない。余力を残して相手できるほど軟弱な国ではないことを向こうも十分わかっているはず。
しかしこの期に及んで単純な逐次投入を繰り返すのは、何かの陽動であり真の狙いは別にあるのではないか。
そのようにイザナギは結論づけた。
「では、我が王よ。天津は何を企んでいるのにございましょうや」
カグツチがその野太い声でさらに問うた。
「進軍の様子を見るに、狙いはおそらく葦原だろうな。戦慣れしないかの国を先に併呑し、領地を広げる気であろう。邪馬台へ向かうと見せかけ、部隊は南に進路を変えるはずだ」
「ならば我が軍はいかんとしますか」
「放っておけ。通りたければ通ればいい。葦原を助けるために貴重な戦力をすり潰すわけにはいかん」
イザナギがぞんざいにそう答えると、お待ちくださいと物静かで玲瓏な声が響いた。
海よりも深き知を湛えた将、ワタツミ(綿津見)である。女性のような長く美しい髪と、澄んだ黒い瞳。
ワタツミも「邪馬台の三傑」が一人であり、卓絶した知性の持ち主として国内外に広く知られていた。
ことに政治的手腕については倭国大乱の時期を通じても随一であったと倭紀に高く評されている。
ワタツミは上納米や軍需品の管理、紛争の解決法など国として最も重要な部分をほぼ一人で主導し、作り上げた。
その完成度の高さは、邪馬台国というその基盤が倭の統一後も概ね引き継がれたという事実一つを見ても、過分なく示されていると言えるだろう。
「王のお考えに賛同いたします。ただ、天津は葦原侵攻のさい、伊曽を足がかりにする算段でしょう。捨て石にされるおつもりですか」
ワタツミは、イザナギがあえて気づかぬふりをした点を指摘した。伊曽は、天津領と葦原国の間に位置する邪馬台国の村である。
「お前のいいたいことはわかる。だが、負けると決めた戦に投ずる兵はない」
イザナギは、徹底した合理的思考の持ち主であったことがよく知られている。
天津の狙いは葦原である。ただでさえ天津に劣る兵や食料をここで無駄に損耗させず、温存しておくほうが賢明だ。
理屈としてはそれで正しいのだが、為政者として村を切り捨てることが、後に遺恨を残すことになりかねないとワタツミは憂慮していた。
「なれば今すぐ村を放棄して民をお逃しください。無駄に民を戦火に巻き込むべきではありませぬ」
「わかった。ではそのようにしよう。諸国からの援軍を村人の護衛につける。いずれ葦原との戦になると知れば、葦原も相応の兵を出してくるだろう。伊曽で迎え撃たせている間に村人を退避させればよい」
「……よき案かと存じます」
それはワタツミにとって最も満足のいく案ではなかったが、イザナギが一定の譲歩をしてきた以上、さらに妥協を求めることはできないことをワタツミは熟知していたため、もう何も言わずに頭を垂れた。
なお、ワタツミの献策について、こと軍略に関しては採択されないことがときおり見られたと倭紀は指摘しているが、ともすれば強硬論に傾きがちなイザナギの矜持がワタツミの慎重論を退けていた一面があったのだろうと倭紀は述べている。




