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倭国の王 〜少女卑弥呼の物語〜  作者: 稲戸
第六章 想いの先へ 〜決戦〜
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第33話 決戦の時へ

 一方、邪馬台国においてもそのとき国の根幹を揺るがしかねない憂慮を抱えていた。


 イザナギの体調が徐々に悪化していたのである。


 卑弥呼に攻め入ったその帰途において、イザナギは胸を押さえて落馬し、その後もしばしば高熱を出して意識を失ったことが倭紀に記されている。


 もしこの不調がもう少し早ければ、またそれがオモカネの知るところであったなら、オモカネが命を落とすことはなかったはずだと倭紀はさらに嘆じている。


 ともあれ徐々にイザナギの不調は隠しおおせぬものとなっていた。ワタツミに続きイザナギと、邪馬台国の中核を支えてきた人物が立て続けに倒れては、存続そのものが非常に危ぶまれるところであった。


 自らの死期がそう長くないであろうことを覚悟したイザナギは、最後の使命として天津への大侵攻を決意した。


 生涯の宿敵である天津との決着をつける。これは余人をもっては成しえぬことだ。


 もし自分が死ねば邪馬台国は急速に求心力を失い、分裂の危機に陥るだろう。倭を再び不毛な戦乱の地へと逆戻りさせないためにも、何としてでも天津を征し後事を託す必要があるとイザナギは考えた。


 イザナギは全土から兵を徴収し、自ら大兵団を率いて出陣した。


 不退転の覚悟で天津領内へ入った邪馬台兵の強さは圧倒的で、あれよと言う間に針間を落とし、その本隊は吉備まで達した。


 また伊予島の北端にいくらか残っていた天津領も全て支配下に置き、船を使って天津の南方からも次々と兵を送り込んだ。各地で劣勢に立たされた天津に反撃の機運もなく、このまま邪馬台国が高天原へ達するのももはや時間の問題かと思われた。


 天津は建国以来最大の危難を迎えた。相次ぐ敗戦の報告に、元来から不機嫌なトヨクモの目はさらに血走り、額には血管が浮き上がっていた。


「ええい。どいつもこいつも何と不甲斐ない。トコタチ、天津の兵は何をしている。弛んでおるのではないか」


 トヨクモが怒気をはらんだ目をトコタチに向けた。


「いいえ。我が軍も天津を死守せんと奮迅してはおりますが、いかんせん邪馬台の意気は高く、また守るべき村も広範囲になりますれば」

「もうよいっ。毎度毎度同じような言い訳、聞きあきたわ。トコタチ。かくなる上は高天原に至る村を焼き払ってしまえ」

「は、今何と?」

「天津の足手まといになるような者はもう必要ない。兵士だけを高天原に集め死ぬ気で守らせろ。覇王と僭する小倅も死人ばかりの村を見れば気も萎えるだろう」


 トコタチがトヨクモの前で首を垂れた。


「トヨクモ王。民は国の礎。失わせることは王としての道理に背くことになりましょう。その拝命、お受けするわけにはまいりません」


 トヨクモの唇が怒りにわなわなと震えた。


「できぬと申すか。それは我に逆らうことと同じであるぞ?」

「何と言われようと、できぬものはできません」

「よくぞ言ったな。誰か、この不敬者を処せよっ」


 トヨクモが怒りのはらんだ目で臣下を見回したが、皆直立したまま指一本動かそうとする者はいなかった。トコタチは面を上げると毅然として立った。


「誰がそれをすると言うのです」

「黙れ。黙れ黙れっ。我は偉大なる天津の王であるぞ。口を慎め。早くこいつを斬ってしまうのだっ。誰かっ」

「残念ですが、あなたに忠実であった臣下は亡くなってしまいました。あなたの下命によってね」


 相次ぐ敗戦と理不尽な指令によりトヨクモ王は求心力を完全に失い、国も軍も崩壊寸前にあったところをかろうじてトコタチが支えているというのが実態であった。実質的な要であるトコタチへ剣を向ける者などいようはずもない。


 トヨクモの顔に初めて恐怖と困惑の色が浮かぶ。


「ま、待てトコタチよ。一体何をしようというのだ」

「トヨクモ王。あなたは最も言ってはならぬことを仰ったのです。兵を軽んじ、民を蔑ろにするあなたに、もう国を任せることはできません」


 トコタチが剣を帯びたまま、ゆっくりとトヨクモへ向けて歩き出した。


「止めよ。この道義も知らぬ虫けらが。誰か、この狂乱者を斬れっ。ええい、何をしておるか」

「何とも見苦しい姿を晒したもうことか。……虫けらはあなたです。我が王よ」


 ずばっ。トコタチの一刀によりトヨクモは絶命した。ずるずると無様に玉座から崩れ落ちるトヨクモを冷たく見下ろして、トコタチは小さく呟いた。


「アシカビよ。お前の無念は確かに晴らしたぞ」


 もはや戴く者のなき王は王とも呼べない。トヨクモ王の死去に際し、その場に悼む者は誰もいなかったと倭紀は伝える。


 トコタチの忠実な副官、サツチがトコタチの前に出て片膝をついた。


「天津は今、非常の事態にございます。王の不在でさらに混乱を招くことは避けねばなりません。トコタチ様は正しく先代ムスビ王の血を引くお方にて、その人柄も申し分なし。次の天津王としてお立ちください。これに異議を唱えるものはおらぬことでしょう」


 だが、トコタチはこのサツチの進言を聞いて、ゆっくりと首を振った。


「いや、私は王にはならない」


 それを聞いて常に冷静沈着なサツチの目が大きく開く。


「な、しかしそうしていただかなくては私どもは一体どうすれば……」

「私は兵を統べる術を知ってはいるが、民を統べる術は知らぬ。私よりも王にふさわしい人物がいるだろう」

「申し訳ありません。浅はかにしてそのような人物など、心当たりがございませんが」

「卑弥呼のヒメ王だ。ヒメ王は徳の高い政治を行い、人民にもよく慕われていると聞く。この天津を統べていただくのに最もよろしかろう」


 トコタチの突飛とも言える提案に、サツチのみならず天津の重鎮も呆然としたまま否とも応とも答えられなかった。


「そうは言っても、卑弥呼は敵国です。先にも筑紫島で我々と激しい戦いをしたばかり。双方の民にもまだ憎しみが残っているものかと。たとえ我らが堪え忍んでも、ヒメ王や民らがそれを受け入れるかどうか」


 いつまでもざわざわと論ずる臣下を、トコタチが制した。トコタチの真意を聞き漏らすまいと場がしんと静まり返る。


「皆の者、どうか聞いてほしい。長きにわたるトヨクモ王の虐政により、この天津の国も、民も、兵もすっかり荒廃してしまった。だがそもそもこれは先代ムスビ王からトヨクモ王へ継承したときに我ら天津の民がそれを望んだか? 暴虐を、戦乱を望んだのか? 愛しき家族の命を奪い合わねばならぬ国を、被虐の果てに人々が餓えて死ぬ国を、同じ倭の民でありながら賊と蔑み血みどろの戦いを繰り返さねばならぬ国をっ。こんなものを本当に欲していたと言えるのかっ。違うだろう」


 トコタチの弁に熱が込められる。トコタチが内奥にずっと抱え続けていた切実な思いが皆の心を打った。


「皆、目を覚ませ。暴虐の王は去った。もう無駄な殺し合いをする必要はない。泣きわめきながら逃げるか弱き民を、後ろから斬れと命じられることも、もう……ないのだ」


 トコタチの話を聞いて、少なくない天津兵が声を押し殺して泣いた。いかな命令とは言え、人としての罪悪感にずっと苛まれ続けてきたのだろう。


「確かに我らと卑弥呼は激しい戦いをした。だがそれは卑弥呼の民を憎しとして始めたことではない。暴虐の王に逆らえずにやむなく始めたことなのだ。ヒメ王は、たとえかつての敵国であっても、ともに手を取り栄え合うことを信条とし、争いの絶えなかった筑紫島を豊かで実りある地へと作り替えた、優しく賢明な王と聞く。私は忠心からヒメ王に長年の暴虐に傷つき衰弱した天津の民を受け入れていただくようお願いしてみるつもりだ。もし異論のある者がいたならば、一歩前へ出よ」


 トコタチの真摯な説得を聞いてなお、前に出る者は誰もいなかった。

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