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倭国の王 〜少女卑弥呼の物語〜  作者: 稲戸
第五章 閉ざされた光
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第28話 決死の覚悟

 卑弥呼と邪馬台に押されがちであったとは言え、天津は高天原を筆頭に今なお圧倒的な生産力を誇っていた。


 対して邪馬台国もまた、戦の天才率いる精強な軍を有し、今や天下を睥睨するに至っていた。


 この二大強国が手を組んで、一斉に卑弥呼国へ攻めてくる。そんな悪夢のような噂や報告がこのところちらほらとヒメの耳に届くようになった。


 ヒメはそんなことなど信じたくはなかったが、それから間もなくして二国の大規模な軍事侵攻が始まった。


 噂は真実であった。


 邪馬台国は伊予方面から、そして天津は伊曽を経由して直接筑紫島へと大兵団を送り込んできたのである。各地で村が敵兵に囲まれ、救援を求める悲痛な声が卑弥呼内でこだまのように響き渡った。


 この未曾有の危難に対処するため、卑弥呼では主だった者を集めて緊急の会議が行われた。


「あのイザナギ王が暴虐の王と手を組んでこの卑弥呼に攻めてくるなんて。どうしてそのようなことに」


 およそ考えうる限り最悪としか言いようのないこの事態に、ヒメはただ呆然と嘆いた。


「聞けば邪馬台の南東に位置する狗奴くぬ国まで卑弥呼へ向かわせたとこと。たとえ怨敵と手を組むことも辞さない覚悟なのでしょう」


 オモカネが沈痛な表情で首を振った。


「どうしてそんなことをっ。一体私たちが何の恨みを買ったというのですか。暴虐の王ならいざ知らず、イザナギ王は私たちと戦わない。そう約してくれたはず。舌の根も乾かぬうちにこの仕打ちなど、ひどすぎるではないですか」

「イザナギ王は当然それも重々承知しておられるはず。それでも卑弥呼を滅ぼさねばならぬ理由が向こうにはあるのでしょう」

「ああ、何ということ。オモカネ様。このまま皆の命が無慈悲に奪われるのを黙って見ているわけにはいきません。どうにか食い止めるよい案はございませんか」


 一縷の望みもないものかと震えるヒメを見てオモカネが何かを決意したように深く頷いた。


「たった一つだけございます。最善の策とはとても言えませんが、この事態においてはやむを得ないことかと密かに進めてまいりました」

「ああ、さすがはオモカネ様。常に深く謀を巡らせておいでです」


 ヒメがどのような案なのかを尋ねるとオモカネがその骨子について説明した。


「ヒメ様。今回の一連の動きについて、真に警戒すべきは天津でございます。ヒメ様はスサノオ様、タケル様など主力を連れて筑紫島にお向かいください。私は単身で邪馬台国へ行き和睦を申し出てまいります。狗奴国は邪馬台国に引きずられただけで、それほど乗り気ではありませんから、そのうち自然と引き揚げるでしょう」

「オモカネ様、単身で邪馬台国へ向かわれるとのことですが、一度和睦を不意にしたイザナギ王にうまく受諾させることができるのでしょうか?」

「そこがこの案の肝要なところです。実はもう既に使者と話をつけていますから何も心配はいりませんよ。ヒメ様、今はとにかく私をお信じください」

「わかりました。オモカネ様はいつも正しい選択をなさるお方。全て仰るとおりにいたします」


 オモカネがヒメを安心させるようにしっかりと頷いた。


「ヒメ様、どうかお忘れなきよう。あなたはこの暗澹の世を照らすたった一つの灯火なのです。たとえどんなことがあろうとも、決して諦めず民に寄り添うことをお考えください」

「はい。肝に銘じます。しかしなぜ今そんな話をなさるのでしょう?」


 オモカネがとぼけたような、それでいてどこか寂しさを内包した複雑な笑顔を浮かべた。


「ふふ。今にわかりますよ。それを信じて私はこの案を採択したのですから。さあヒメ様。事態は一刻を争います。筑紫島へすぐにお向かいください」

「わかりました。オモカネ様もどうかお気をつけて」


 少しでも早く救援を待つ人々の元へと気が逸るヒメはそのまま出撃した。どんどんと姿が小さくなっていくヒメを見送ったオモカネは、すぐにフトダマを呼び寄せた。


「さて、私も邪馬台国からの特使を待たせておりますから、そろそろ出発しなくては。後の手はずをよろしくお願いします」


 その真意を知るフトダマがわかりましたと答えて深いため息を吐いた。


「しかし、オモカネ様。あなたは本当にそれでよろしいのですか?」

「ええ、もちろんです。私の本意はヒメ様の国を守ることに違いはありませんから」


 オモカネは決然とした瞳でそうきっぱりと即答した。


 オモカネと邪馬台の特使は邪馬台軍の本陣に入る。ずらりと並ぶ諸将に囲まれたイザナギ王の前でオモカネは一礼し、その場に畏まった。


 イザナギが威圧的な鋭い目をオモカネに向ける。


「オモカネよ。そなたの提案は自らの命を差し出すゆえ、邪馬台と和睦してほしいということであったな」

「ええ、そのとおりです。卑弥呼一国とは言わないまでも、国を支える私の命はそれに値するものであるはず」

「確かにそうだな。だから受けることにした」


 オモカネは少しも怯むことなく毅然としてイザナギを仰ぎ見た。


「それにしてもイザナギ王は抑えだったワタツミ様が亡くなり、なりふり構わなくなったようですね。邪馬台と天津から総力戦を挑まれると、もう打つ手はありません。さすがはイザナギ王。戦の本質をわかっておいでだ。」


 イザナギが表情を微動だにせず首肯した。


「ならば無駄な抵抗を止めて、今この場で卑弥呼を差し出すと約せ。そうすればお前の命は奪われずに済むぞ」


 オモカネがゆっくりと首を振った。


「申し訳ありません。イザナギ王。それはお断りします」


 イザナギの突き刺すように剣呑な眼光がぎらりと輝いた。


「なぜだ。理由を言え。お前にとって命以上に大切なものがあるのか?」

「私は卑弥呼の、優しくも笑顔の溢れるあの国が好きなのです。どんなことをしても守りたい。本心からそう思うようになりました。卑弥呼の民のためならば、いつでもこの身を引き換えにする覚悟はできております」


 オモカネがその場に片膝をついて真摯な眼差しでイザナギを見上げた。


「殊勝なことだ。だがもしこの俺がお前との約を守らずそのまま卑弥呼へ攻め込んだらいかにする?」

「比類なき戦の才をお持ちのイザナギ王が、そのような信義に外れた恥知らずなことをなさるとは信じ難いことですが、念のためこれをお持ちしました」


 オモカネが持参した包みからいくつかの木簡を取り出した。


「ふん、それは何だ」


 ひくとイザナギの眉間が脈動する。オモカネは平然としたまま話を続けた。


「ワタツミ様が最期に死力を尽くして書きつけたと聞いています。故あって私に託されました。邪馬台に面従腹背する将の名前や統治に難のある村など、詳細に懸念が書かれております。さすがはワタツミ様。使いようによっては邪馬台国を呆気なく崩壊させることができそうですよ」

「くっ。お前がどうしてそのようなものを持っている。まさかワタツミめ、最後にこの俺を裏切りおったのか」


 折れんばかりにぎりぎりと奥歯を噛み締めるイザナギにオモカネが少し悲しい目を向けた。


「イザナギ王。どうか勘違いはなさらないでいただきたい。ワタツミ様に二心はございません。後にこの木簡をお検めください。最後までイザナギ王を案じ国の民を思っていたことがわかりますよ。ただ私が少しばかり邪なだけで」


 イザナギは今やふつふつと湧き上がる怒気を隠しもせずに目を爛々と怒らせ、今にも飛びかからんばかりに身を震わせていた。


「まさかその木簡を誰かに見せたりはしていないだろうな」

「私の国の言葉を読める人間はそう多くありません。ご安心を。ただ私に何かあってなお邪馬台が止まらなかったときは手を打っています。私の夢はここで潰えますが、いざというときは邪馬台も共倒れになっていただきましょう」

「食えぬ男だ。やはり生かしておくわけにいかぬ。だが命を奪う前に一つ聞いておこう。お前ならば裏から手を回し邪馬台を瓦解させることもできたであろう。なぜ正直に申し出てきた?」


 そこでオモカネが困ったように眉根を寄せて首を振った。


「ヒメ様はとても清くまた聡いお方です。謀略で他国を簒奪しようとはしませんし、弱みにつけ込むということもない。邪馬台国とも手を取り合うよう本気で考えておられました。ですから私もそれに従い邪馬台国とは武力で争わぬ道を選んできたのです」


 イザナギは短くそうかと答え狼のような鋭い目をオモカネに向けた。


「もう何も言うまい。お前に免じて確かに全軍を撤退させ、卑弥呼の民へは手出しをしないとこの場で約しよう。だが約定は譲れないぞ」

「もちろんにございます。さあ」


 オモカネが一歩前に出て、両腕を広げた。


「決心はできております。いつなりとどうぞ」


 オモカネはヒメに向け、心中で詫びた。


 ――申し訳ありません。ヒメ様。イザナギ王を止めるにはこれしか術がありませんでした。


 約束、守れませんでしたね。


 イザナギ王の指示で前に出た兵士たちが一斉に槍でオモカネを突き刺した。オモカネががくりと両膝を地につける。


「本当は、私もあなたと一緒にいたかった」


 オモカネの双眸から止めどない涙が溢れ出す。


「ヒ……メ、さま。どうか、笑顔の……国を、お作り……くだ、さ……い」


 どうとオモカネが倒れ、軽く砂埃が舞った。それを冷たく見下ろしたイザナギがすっと屹立した。


「用は果たした。全軍へ撤退の令を出せ」

「それは構いませんが、本当にこの男の言いなりになるおつもりですか?」


 カグツチがその意思を確認すると、イザナギがつまらなそうに鼻を鳴らした。


「卑弥呼はもう放っておけ。オモカネという支えを失えば、俺が何をしなくとも自然と瓦解することだろうよ」

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