第27話 月夜に照る涙
ヒメが床に就こうとしたとき、外に気配を感じたので出てみると、オモカネが欄干に手をかけながらぼんやりと思案をしているようだった。
オモカネの部屋から明かりが漏れている。つい先ほどまで執務に携わっていたに違いない。
ヒメは驚かせないよう後ろからゆっくりと声をかけた。
「オモカネ様。あまり働きづめでは体に障ります。そろそろお休みになられては」
するとオモカネの体が一度びくんと跳ねて、ヒメに振り向いた。
「……ああ、ヒメ様でしたか。すみません、驚いたりして。考えごとをしていたので全く気づきませんでしたよ。ははは」
オモカネが日夜各地から届く膨大な訴えや相談事などに応じていることは知っていたが、その生真面目な性格のゆえか抱え込みすぎるきらいがあり、どうも少しやつれているように見えた。
「オモカネ様、邪魔をして申し訳ありません。ですが最近オモカネ様は特に無理をなされているご様子。憔悴されているそのお姿を見れば私は心配でなりません」
ヒメが不安げにそう訴えると、オモカネが優しく笑いながら頷いた。
「ありがとうございます。私は大丈夫ですよ。だからもう少しだけこうさせてください。夜は思索をするのにちょうどいいですから。とても静かで落ち着きます」
そう言ったかと思うと、オモカネはヒメに背を向け、また欄干から外を眺め始めた。
ヒメはそっと嘆息するとオモカネの隣に並び、深閑とした夜空を見上げながら、ゆっくりと息を吸った。
「恋しきを 一人忍びて寝る夜の 月よ涙な 照らしたまいそ」
オモカネが少し驚いたような顔をしてヒメのほうを向いた。
「……それは、詩ですか?」
「ええ、以前にオモカネ様が思いついたことを言葉にすればいいと仰いましたので、それらしくしてみました」
オモカネが目を閉じてヒメの言葉を何度か反芻してからゆっくりと目を開いた。
「素朴ですが、とても素晴らしいと思いますよ。誰かを恋しく思い苦しむ気持ちがよく表されている」
そのときヒメの瞳が涙で潤んだ。
「苦しい思い。それは偽らざる私の気持ちなのですっ」
堪らずにヒメはオモカネの服を掴み、その胸にそっと額を押し当てた。
とくとくとオモカネの確かな鼓動を感じる。
オモカネの口から少し慌てたような声が漏れる。
「ヒメ様。どうなされたのですか。このようなところを見られては何と思われることか」
「構いませんっ」
知らずヒメの頬を一筋の涙が伝う。ヒメは手の甲でぐっとそれを拭った。
「私はオモカネ様を見るたび息が苦しくなる。お慕いしています。お会いしたときからずっと。私は身をも焦がすほどにあなたのことを毎日考えていますのに、オモカネ様は私に触れてさえくださらない」
潤んだ目で懇願するヒメを見て、オモカネが沈痛な表情で首を振った。
「あなたは王で、私は臣下です。そのような恐れ多いことはできません」
「いいえ、違います。私にはわかるのです。オモカネ様はいつも手が届きそうなほど身は近くにあるというのに、その心はずっと遠くにある。どうしてか私を避けようとなさっている。その理由が私にはわからないのがとても苦しいのです」
「それは、あなたといることが叶わぬからです。いつか別れなければならない」
オモカネから出た口走るような言葉を受けてヒメに動揺の色が浮かぶ。
「オモカネ様。別れ、と仰いましたか。どういうことでしょうか。また大陸へお戻りになるおつもりですか?」
「ええ、まあそのようなものですね」
歯切れの悪い返答をするオモカネにヒメは真摯な瞳を向けた。
「ならば、どうか私も連れていただけませんか。私はオモカネ様と大陸に渡り、もっと色々な知識を得たい。学べば学ぶほどにもっと知りたいことが増えてくるのです。そして叶うことならば、オモカネ様と一緒に添い遂げたい。それが本当の私の望みなのです」
「ヒメ様、それはいけません。今あなたと私がこの国から離れれば、またここも戦乱の地へと逆戻りすることになるでしょう。それだけは避けねばなりません。民を捨ててはならないのです。絶対に」
「それはもちろんわかっています。私は卑弥呼の王ですから。ですが、せめて夢くらい語ってもいいではないですか。それとも私にはそれすら許されないと仰るのですか」
「そうですね。私が言い過ぎました。たとえ叶わぬとしても、誰だって夢を語ることまで止められていいわけがない」
オモカネはそこで少し寂しそうに笑った。
「ヒメ様のお考えはよくわかりました。いいでしょう。もしもこの倭が再び争いのない平穏な地になったことを見届けたならば、ヒメ様。私と二人で大陸へ渡りましょう。ご案内しますよ」
ヒメの双眸から滂沱の涙が溢れ出した。
「そ、それは本当ですか。オモカネ様」
「ええ、約束です」
ヒメがああと叫んで顔を覆った。何度も何度も止まらない涙を拭ってはしゃくり上げる。心の底から嬉しい気持ちが湧き上がってきて止まらなかった。
オモカネがそっと優しくヒメの頭を撫でた。
「ははは。ヒメ様は泣き虫だな。王だと言うのにまるで幼子のようだ」
「何とひどい仰りようですか。あなたが、あなたが泣かせているのですよ。ううう」
そうしてオモカネはヒメの気持ちが落ち着くまでずっと頭を撫でていた。




