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倭国の王 〜少女卑弥呼の物語〜  作者: 稲戸
第四章 望郷
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第24話 潮騒に語る夢

 卑弥呼は宇佐の戦いに勝利したものの、相手国に何の要求もすることなく、領地の拡張も一切行わなかった。それどころか、筑紫島の諸国に無償で技術を提供し、水田の開墾などを協力して行うなどした。


 卑弥呼軍の中には、自分たちが命を懸けて戦ったというのに、何も得るものがなかったと、公然と不満を口にする者も出始めた。


 これを憂慮したオモカネがヒメに具申する。


「ヒメ様。せっかく勝利したのに兵士たちが報われなければ、士気に関わります。また、国を富まし、兵力を増強させることは国の安定にも繋がりますから、今後は領地を増やすこともお考えになったほうがよろしいかと」


 だが、ヒメはこれをきっぱりと断った。


「私たちは、奪うために戦ったのではありません。一国だけが富めば、それは必ず妬みを生じます。第一に考えるべきことは、無益な奪い合いではなく、互いに手を取り与え合うことです。戦を止め、皆が栄えれば領地を増やさずとも十分に兵を養うことができるはずです」


 オモカネはヒメの言葉に深く感じ入り、自然と首を垂れていた。


「それは真にそのとおりでございます。ヒメ様のお考えはよくわかりました。直ちに全軍へそのように申し伝えましょう」


 そうしたヒメの共存共栄の理念は、卑弥呼だけでなく次第に筑紫島全体へと浸透していった。


 また、筑紫島のほぼ中央に位置する卑弥呼が緩衝地域となって積極的に諸国と融和を図ることで、筑紫島は抗争の絶えない痩せた地から、よく富んで安定した土地へ生まれ変わったと倭紀もその功績を高く評価している。


「オモカネ様。今日はありがとうございました。あの広い地が全て稲田に変われば、次の収穫が楽しみですね。心が踊ります」


 オモカネと一緒に大規模な用水工事を視察し終えたヒメは、国へと戻る途中であった。


「そうですね。良き為政者であろうとするならば、民を飢えさせてはなりませんから。食が潤えば、人の心も豊かになりましょう」

「ええ、全くそのとおりです。ふふふ。見ましたか、あの皆の嬉しそうな顔を。これだけ卑弥呼がよい国になったのも、ひとえにオモカネ様がその深い知恵で導いてくださったおかげです」


 ヒメの思わずこぼれた笑顔を見て、オモカネがいいえとそれを否定した。


「私はただ先人や師から学んだことを伝えているだけに過ぎません。これらは全てヒメ様が王にふさわしい優れた見識と深い仁愛をお持ちだからですよ」

「な、何を仰いますか。私にはそんな大層なものはありませんよ。ただ、よい出会いに恵まれただけです。ああ、オモカネ様、もう日が暮れそうです。今日は近くの兵舎に立ち寄って構いませんか?」

「ええ、もちろんですよ。どうぞ」


 そうして二人は海に面した兵舎に向かったのだった。


 その夜。


 敷地の外れ、海へと少し突き出した岩壁に、ヒメは一人佇んでいた。


 境目が判明しない水平線を見つめながら、ざあざあと寄せては返す潮騒の音を聞いている。


 濃藍の空を射した白い月影が、海面に反射して、寄せては返す波間にきらきらと輝いた。


 そのとき潮の香りを乗せた夜風がさっと吹き抜けた。


 乱れた長い髪を思わず押さえたヒメは、そのとき後ろからゆっくりと人影が近づいてきたことに気がついた。人影は薄暗がりにそっと立ち止まった。


「月が綺麗ですね、ヒメ様」

「……ええ、本当に」

「私も隣でご一緒してもよろしいでしょうか?」

「オモカネ様。もちろんですよ。さあ、どうぞ」


 ヒメが両手で隣の汚れをさっと払うと、オモカネが少し恐縮しながら隣に腰を下ろした。


 ヒメは澄んだ月をもう一度眺めた。


「オモカネ様。大陸でもこのように月は綺麗なのでしょうか?」

「もちろんですよ。古来から人々は月夜を愛でてきたものです」


 思いを馳せるかのような表情でオモカネが静かに口ずさんだ。


「……月煌々として暗を射し、影静かに海に揺らぐ」

「それは何でしょう。とても素敵な響きですが」

「いや、お恥ずかしい。これは詩のようなものですよ。今私の頭にふと浮かんだことを口にしてみました」


「……詩、ですか」

「ええ、大陸ではこのように何かを感じたときに言葉にして詠んでおくのです。すると、そのときの情景がいつでも思い浮かぶのですよ」

「それはとてもいいですね。私にも詩というものを是非教えてください」

「ええ、喜んで。お互いの詩を聞いて、その情景を語り合うのもまたいいものですよ」

「ふふ。面白そうですね。聞いているだけでも心が弾んできます。ああ、オモカネ様といると毎日が驚きと幸せに満ちているように感じられます。本当に出会えてよかったと感謝の念しかありません」


 ヒメは闇夜にふっと頬を緩めた。


「そうですか。それはよかった」


 そこでオモカネが居住まいを正して、急にヒメに向き直る。


「……さて、ヒメ様。何があったのか、一つお聞かせいただけませんか。このところご表情が優れない様子でした。何か思い悩むような出来事があったと拝察いたしますが」


 やはり隠しおおせる相手ではないかとヒメは観念した。ヒメの人知れず抱えていたもやもやが、オモカネにはとうに見透かされていたようだった。


 ヒメはそれほど大したことではないのですがと前置きしたうえで、言い淀むように少し目を伏せた。


「実は先日、天津から逃げ出してきた流民を受け入れたのですが、その者たちはそれまで伊世にいたと語ったのです」

「ほう。伊世、というとヒメ様の故郷の村ですね」

「ええ、私の生まれ育った村です。ここからその島が見えるのです。ですからここは私のお気に入りの場所なのですよ。伊世はちょうどあの辺りでしょうか」


 ヒメはほとんど判別のつかない黒い影を指さした。


「やはり伊世は暴虐の軍に占拠されて以来、虐政に苦しんだり、戦いに駆り出されて命を落としたりとひどい状況が続いているようです」

「そうなのですね」

「私が大変なときは思い出しもしなかったのですが、最近その名を聞いたものですから、かつて私と暮らした皆は無事でいるだろうか、ひどい目に遭わされてはいないだろうかと気になるようになりました」

「ええそれはそうでしょう。故郷を案ずる気持ちはよくわかりますよ」

「戦乱が全てを変えてしまった。伊世が、こんな見えるほど近くにありながら何をすることもできない。安穏とただ過ごす日々はどれほど願ってももう戻ってくることはないのです」


 ヒメは懐かしい伊世の記憶を思い浮かべ、頬を涙で濡らした。


「どうしてですか。戻ってきますよ、その日は」


 平然として答えたオモカネの声にヒメははっとして顔を上げた。


「いつでも帰ればいいのです、ヒメ様。……伊世へ」

「えっ、でも伊世は暴虐の軍に占拠されて」


 オモカネの意図がわからずにヒメは目をしばたたかせた。オモカネがヒメの手をぐっと握り、凜乎とした目を向けた。


「わかりませんか。あなたはもう十分に力をお持ちです。ヒメ様、海を渡るのです。そして暴虐の王に苦しめられたあなたの故郷を、大切な人たちを救いましょう。心配はいりません。私がきっと力になりますから」


 伊世へ帰る。


 ヒメは今までそんなことを思いつきもしなかった。


 だがあの懐かしい笑顔を、秋風にそよぐ稲穂を思い浮かべれば、それは必ず自分が成し遂げなければならないことに思えてきてヒメは涙を拭った。


「わかりました。お願いします。戻りましょう。伊世へ」

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