第19話 熊襲の王
建国以来、卑弥呼の人口は増加の一途を辿った。
その最大の要因として挙げられるのはやはり絶えることのない流民の受け入れであった。
卑弥呼に行けば、どんなに困窮した者も受け入れてくれる。そのような噂が徐々にではあるが、倭の全土に広まり、食い詰めた者や虐政に耐えかねた者が国を抜けて卑弥呼を目指す例が後を絶たなかった。
噂に違わずヒメは頼ってきた者を無下に追い返さずに、全て受け入れはしたが、元々痩せた土地を耕してできた卑弥呼では賄える食料にも限界がある。やむなく卑弥呼は集落を周辺に広げることになった。
だが、それは当然のように別の問題を引き起こした。
いわゆる縄張り争いである。
ことに卑弥呼の南部に位置する熊襲国との軋轢が深刻であった。
耕作地や水利について、熊襲がほとんど言いがかりのような要求をしてくることもしばしばであり、中には小競り合いに至る事態さえあった。
熊襲に対する憤懣の念が卑弥呼国内で日増しに高まっていることを当然ヒメは承知していたが、ヒメは国の者に忍耐し、決して手出しをしないよう申し伝えた。
「この筑紫の地に我々が後からやって来て、住まわせてもらっていることを忘れてはなりません。暴力で他国の地を強奪しようなどもっての外のことです」
しかし、ヒメの思いとは裏腹に事態は悪化の一途を辿る。熊襲は国の境に向けて次々と兵を送り込んできたのである。
そもそも熊襲は始めから卑弥呼の進出を快くは思っていなかった。たとえ大義がなかろうと、適当に口実を作って戦を仕かける気がありありと見て取れた。
両国の緊張がいや増しになっていたちょうどその頃、倭全体にとっても決して小さくない出来事が起きた。
針間にある新興国、中津が天津の侵攻を受け、滅びたのである。
このとき、多くの民や兵が命からがら逃げ出したのであるが、隣接する邪馬台国は兵士以外の受け入れを拒否し、逃げ場を失った流民たちは最後の頼りとして卑弥呼を一路目指すこととなった。
中途に命を落とす者も決して少なくはなかったが、それでも卑弥呼に辿りついたその数、千名は下らなかった。
「お願いします。卑弥呼の王。あなただけが頼りです。ここを追われると、我らは皆、路傍に息絶えるしかないのでございます。後生にございます。どうか、どうかここに置いてくださいませ」
中津の生き残りたちの悲痛な訴えに、ヒメは深く同情した。
「ああ、皆様。よく生き延びて、遠路私たちを訪ねて来られましたね。約束します。私は決してあなたたちを見殺しにはいたしません」
「ああ、ありがとうございます。このご恩一生忘れることはありません」
その場にいた者は口々に叫び感涙に咽んだのだった。
中津から来た者の中には、武芸百般の勇将、タケルの姿もあった。天津の詭計で本隊と離され、主君を救わんと五度の突撃を試みたが、力及ばなかったという。
成り行き上仕方がなかったとはいえ、この中津の民の受け入れは、ただでさえ卑弥呼が抱えていた人口問題をさらに悪化させることはもはや誰の目にも明らかであった。
そんなある夜のこと。タケルはオモカネの自宅に招かれ、一人訪れた。名目としてはタケルを歓迎し、酌み交わしたいということであった。
「オモカネ様。この度は中津の者の命をお救いくださり、心より感謝しております」
「まあまあ、お互いに堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。さあどうぞお上がりください」
オモカネは口上もそこそこに、手近にあった酒を杯に注いでタケルに手渡した。
恭しく受け取ったタケルが一口啜り、ほうと感嘆の息を漏らす。
「これはうまい。お世辞などではありません。実にさっぱりとしてまろやかだ」
「ここは水も米も澄んでいますから。酒というのは、また面白いですね。同じ作り方をしても土地により少し味が違うのですよ。さあ、もっとお上がりなさい」
二人はしばらくそうやって静かに酒を堪能した。タケルの秀麗な眉目はほんのりと朱に染まり、さらに色気が増していた。
「オモカネ様。あなたは稀代の知恵者と聞き及んでいます。何か腹案があり、私を呼んだのでしょう。そろそろ明かしてはいただけませんか」
タケルがおもむろにそう言うと、オモカネは確かにそのとおりなのですがねと呟いて、一口杯を啜った。
「実は卑弥呼も熊襲も中津の民も、全てうまく収める妙案が私にあるのです。ただ一つだけ、懸念がありまして」
オモカネが少し言い淀むように、わずかに目を伏せた。タケルが何なりと申してくださいとそれを促した。
「少しばかり姑息な手なのです。我が王に裁可を求めてもおそらくよしとはしますまい。ですからこれは二人だけの話としてもらいたい」
するとタケルが何だそんなことですかとかえって安堵したように笑った。
「私を誰だとお思いですか。お任せください。たとえ身を焼かれ口が裂けるとも決して他言はいたしません。このタケル、民を救うためならば、末代まで謗られる覚悟も抱いておるのです。さあ、知恵をお貸しください」
タケルが力強く請け負ったので、オモカネはタケルの手を取り大きく頷いた。
「ああ、あなたの義侠心を疑っていたわけではありません。ですが、本当に託してよいかを聞いておきたかった。では、お話しましょう。実はこの酒を届けてほしい者がいるのです」
「ほう? それはまた何ともお安いご用に聞こえますが、さて」
「熊襲の王、イサオ(渠帥者)は血の気が多く、粗暴な男です。男子が二人いて、名をトロシカ(取石鹿)とカワカミ(川上)といいます。どちらが継ぐかはまだ決まっていないようです。さしずめ首領としての力量を計っている、といったところなのでしょう」
タケルはふむと軽く唸って話の先を促した。
「もし、今イサオが亡くなるようなことがあれば、跡目争いが起きるのは必定。カワカミはまだ穏和で話が通じる質のようですから、卑弥呼が彼を支援した場合、後に友好な関係が築けることでしょうね」
そこで事情を全て察したタケルがああと合点した様子で頷いた。
「なるほど、それで私が。ええ、何の異存がありましょうや。早速熊襲へと行ってまいります」
澄み切った月明かりの下、イサオは多数の美女を侍らせて酒宴を開いていた。
イサオの好物は酒と女と戦いである。そのためこうして夜毎の宴を決して欠かすことはないのであった。近侍がイサオに近づき、そっと耳打ちをした。
「今宵は新しく入った者を連れておりますゆえ。しばしお待ちを」
近侍の合図とともにすっと女性たちが姿を現した。
中に一人、手足のすらりと伸びて凛とした者がいた。透明感のある黒い瞳がまるで吸い込まれるような魅力を放っている。これが近侍の言う新入りであろう。堪能するようにほっとイサオが目を細めた。
謡いに合わせ、舞が始まった。
新入りの流麗にして乱れのない鮮やかな動きは、一際目を引かずにはいられなかった。
女性がイサオに近づき、そっとしなだれかかる。細い指が首筋を伝い、イサオが満悦の笑みを浮かべて、そっと目を閉じた。
そろそろ舞が終わろうという頃になっても、イサオは身じろぎ一つしなかった。
酔いにまかせて眠ってしまったのか。珍しいこともあるものだと顔を覗き見た近侍が、ああっと大声を出して目を見開いた。
イサオは急所を一突きされて絶命していた。
「さては、あのとき。曲者っ」
女を捕らえようと近侍が振り返ったときには、もうその姿は夜闇へと消え去っていた。
澄んだ夜空に月が煌めき、静かに一陣の風が吹き抜けた。




