第2話 倭国大乱
倭紀に書かれた数多くの戦いを時系列で見たときに、最も古くに位置する戦いが、いわゆる阿斯訶備の乱である。
だが、それはこれ以前に争乱が起きていないということを意味するわけではなく、実際には阿斯訶備の乱もまた倭国大乱の最中に起こされた、多くの争乱の一つに過ぎない。
しかし、それでもなお倭紀がこの戦いを筆頭として位置づけたのは、やはりそれだけこの乱が大きな時代の転換点であったと、当時から特別な思いで認識されていたことを意味している。
少し俯瞰してその情勢を見ると、この乱以前、言わば前期倭国大乱と呼ぶべき時代は、大国による支配、被支配という直接的かつ一方的な戦いが中心であり、その発生も大国という円の外周縁が広がろうとする地域にほぼ限定されていた。
だが、この乱を契機として、その戦いの性質が意思を持った集団同士の抗争という、より多面的で複合的なものへと変化していくこととなる。
後期倭国大乱、群雄割拠の時代の幕開けである。
だがそれは、望むと望まざるを関わらず多くの民が巻き込まれていく悲惨な時代が始まったということも同時に意味していた。
しかし、そもそもこの倭国大乱は、いつ、どのようにして始まったものであろうか?
原初の国、名を天津と言う。
悠久の昔より、倭という広大な地の支配単位は、村であった。
大陸から伝播した農耕が本格的に広まることで、村はより多くの人口を抱えることが可能となり、中にはかなり中央集権的な支配体制を構築する村も出現した。だがそれでも複数の村を支配して国と称するような概念は、倭において長らく誰も持っていなかった。
そのような中、天津という国が作られた経緯について、倭紀にある記述の概略を示すと、およそ次のとおりである。
あるとき強大な村が広大な範囲の水利を主張し周囲を脅かしたため、複数の村が協力してそれに対抗することとなった。
その先頭に立ったのが、全ての村の中から一番聡明でかつ勇敢な者として選ばれた、ミナカ(御中)という青年であった。
ミナカは長身で整った容貌を持ち、幼い頃から人望厚かった。多くの村人を率いることとなったミナカは、強大な村に戦いを挑み、逆にそれを征したのである。
さらに大きな力を手に入れたミナカは、周辺の村を従えて国を作ることとし、自ら王を名乗った。
原初の王、天津御中王の誕生である。
国の名は天津、出雲と呼ばれる地に建てられたと倭紀に記されている。
天津御中王は、領土拡大や鋳造などの技術の発展に取り組んだが、志半ばにして世を去った。代わって即位したのが、ミナカの子であり後に征服王と称された、天津高御王である。
タカミが率いる天津軍は、桁違いとも言える軍事力と圧倒的な強さを有し、天津はその支配地を爆発的とも言える速度で増大させた。
このタカミの積極的な拡大路線とそれに対する反発こそが、まさに倭国大乱の起こりである。
この初期の倭国大乱において、天津がこれだけ他を圧倒できた理由は、大きく分けて二つある。
まず一つは、職業の分化を進めたことである。これにより様々な分野において専門性が飛躍的に高まることとなった。
例えば、武器。
これまでは村人が仕事の合間に手製で拵えたものが主であったが、天津においては高度な技術を持った製鉄や鍛冶などを専門とする職人が、品質のよい武器防具を日々大量に生産し続けた。
また、兵士という職階の創設。
戦いだけをその目的とする集団は、それまでの倭にはほぼ存在しなかった。彼らは訓練や実戦などから多くの経験を積むことで、さらに無類の強さを発揮した。
そして、天津が領土を急拡大したもう一つの要因は、その積極的な懐柔策にあった。
長きの平和に慣れた倭の人々にとって、天津に抗する術はほぼなかったと言っていい。
天津軍の圧倒的な強さを前に降伏を申し出る村は後を絶たなかった。当時の天津は基本的にそうした村について、領地をそのまま安堵した。
従属の条件として、上納と兵士の供出を義務づけられはしたものの、激しい抵抗をして無駄に人的損害を出すよりはと、皆がそれを受け入れた。こうして天津はその領土を飛躍的に拡大させた。
倭紀が記すところによると、タカミの最大版図について、西は筑紫島(後の九州)及び伊予島(後の四国)の北半分、東は針間(播磨)まで及んだという。そして、当時それより先はほぼ未開の地であった。
征服王として絶大な権力を持ったタカミは、威信をかけて王都の建設に乗り出した。出雲の地に計画されたこの巨大な新都はタカミの名を取って高天原と名づけられた。
途方もない人員が駆り出され、荘厳な王宮や、高床の御殿の建設に関わった。その規模を一目見て驚かぬ者はいなかったという。
だが、高天原はあまりに巨大すぎたため、その完成を待つことなくタカミは亡くなった。
王都の威容を人々が目にしたのは、後を継いだ治世の王、天津産巣日王の代になってからのことである。
天津は、ムスビ王の治世において、その絶頂期を迎えたと言ってもいい。
ムスビは、タカミのような積極的な軍拡路線を旨とせず、主に天津国内の発展拡充に力を入れた。
ムスビは政治体系を見直して大陸風の官職を制定した。また、これまで従属的な支配関係にあった多くの村を天津国に編入し、それを地方官に直接治めさせた。これにより、王を中心とした中央集権的な支配がさらに強固なものとなった。
また各地の土木工事を推し進め、多くの水田を開墾したり、道路網の整備をするなどして、領土内の物流を飛躍的に伸ばすことにも取り組んだ。
さらに大陸との交易や、灌漑、鋳造の技術の発展にも力を入れ、人々はこれまでよりずっと豊かになった。
ムスビの王宮がある高天原には、目まぐるしいほど多くの人が行き交い、黄金時代と言うべきその繁栄を皆が謳歌したのである。
これら天津御中王、天津高御王、天津産巣日王のいわゆる「天津三代」の治世は、倭国大乱のきっかけとはなったものの、発展ももたらしたとして、倭紀においても一定の評価を受けている。
そして続いて即位した四代目の天津王。
彼こそがまさに後期倭国大乱を引き起こす契機となった暴虐の王、天津豊雲王である。
天津豊雲王はその紀伝によれば、やや痩せ型の体格。狡猾で猜疑心が強く、常に神経を尖らせて目がぎらぎらと輝いていたという。
また、態度は横柄で、少しでも自らに逆らうような素振りがあればためらうことなく処刑を命じたとある。
トヨクモは、ある意味では倭国大乱の中心人物の一人であるが、出自や来歴については、あまりはっきりしていない。
ただムスビの没後にあった激しい跡目争いに勝ち抜いたと倭紀に簡素な記録があるのみである。トヨクモは即位してからも、他の後継者候補のみならず、反対勢力に連なった者たちまで次々と粛清した。
それは政治的な混乱を収め、体制を維持するためには、ある程度必要なことであったろうが、こうした過程においてトヨクモの人間不信、ひいては暴虐な性格が形成されていったのであろうということは想像に難くなく、実際に倭紀にもそう記されている。
暴虐の王は、やがて圧政をしき、民を苦しめた。その不満の声こそが、やがてアシカビ(阿斯訶備)が乱を起こす萌芽となった。
アシカビとは、高天原の西部一帯に所属する兵団の統括を任された武官の名である。トヨクモの異母弟であったと倭紀にある。
出雲の地は、北を海に、南を山に接しており、そこから大軍を移動させることは難しい。したがって高天原の防衛は西と東を固めることを中心に考えられていた。
ここで西の守りを受け持ったということは、王都の最終防衛の半分を任されたものとほぼ同義であり、それだけ王から厚い信頼を置かれていた証でもある。
アシカビは王位継承の争いの際、同じくトヨクモの異母弟であるトコタチ(常立)とともにトヨクモの側に立ち、多大な功績を挙げたことがその信頼に繋がったと倭紀は記している。
なお、トコタチも天津において同格の扱いを受け、およそ同数の兵でもって高天原の東の守りについていた。




