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倭国の王 〜少女卑弥呼の物語〜  作者: 稲戸
第三章 卑弥呼立国、そして
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第18話 訪れた平穏

 オモカネがこのときから既に天下の計を胸中に抱いていたかについては本人が語らなかったため定かではないが、どちらにせよオモカネは卑弥呼を筑紫の山中に佇む寒村のまま留めるつもりでなかったことは間違いないと倭紀は述べている。


 実際にオモカネからヒメが軍略について聞いたのは、豊日の襲撃によりすっかり更地となった村が復旧するよりずっと早かった。


「ヒメ様、無防備な村を守るためにも、まずは兵法を学ぶべきです。憚りながらこの私が指南いたしましょう」

「はぁ、それは一体どういうものですか?」


 突然の提案に要領を得ない生返事を返したヒメだったが、オモカネは気にせず毅然とした瞳を向けた。


「兵法とはつまり、戦いに必ず勝つ方法のことです」

「戦いに必ず勝つ方法。にわかには信じがたいことですが、そんなものが本当にあるのですか?」


 ヒメが不審な顔をするのを見て、オモカネがあるのですと言って優しく微笑んだ。


「一つ例を挙げて考えてみましょう。ここで三名の兵と、三名の兵が戦ったとします。どちらが勝ちますか?」

「ええと、わかりません。強いほうが勝つ、のでしょうか」


 いきなりそんな漠然としたことを聞かれても答えられるわけがない。ヒメは曖昧な返事をした。


「そうですね。どちらが勝つかわかりませんね。では片方が三名で、片方が一名ならばどちらが勝ちますか?」

「それは、もちろん三名いるほうが勝つでしょう。一人で三人を相手には戦えません」


「無論そうでしょう。ではその後また一名がやって来て、その三名と戦ったならばどちらが勝ちますか?」

「やはりまた三名が勝ちます」

「そのとおり。そしてさらに一名がやって来たら、どうなりますか?」

「何度やっても同じことです。三名の兵が勝つでしょう」


 この人はどうして同じことばかり聞くのだろうと訝しく思いながらヒメが答えると、オモカネが意味ありげな笑いを浮かべた。


「まだ気づきませんか? もう一度初めから考えてご覧なさい」


 何のことかわからぬままその状況をヒメは頭に思い浮かべ、あることに気がついた。ヒメの口からああと小さく驚きの声が漏れた。


「そうです。これは同じ三名と三名の戦いでした。しかし、その順序を変えるだけで、ほらご覧なさい。片方は必ず勝ち、片方は必ず負けるではありませんか」


 確かにそのとおりだとヒメは雷に打たれたかのように激しい衝撃を受けて、その場に崩れ落ちた。そのようなこと今まで考えつきもしなかった。


 オモカネはさらに話を続ける。


「同じように三名と三名が戦ったとします。しかし、ここは切り立った山道で、片方の兵は崖の上から石や弓矢で攻撃します。どちらが勝ちますか?」

「それは、もちろん崖の上の三名が勝つでしょう」

「そのとおり。地の利を得ることがいかに肝要であるかは、孫子も繰り返し説いているところです。逆に相手に地の利があるときは、不用意に攻め入ってはならない。このようにして勝つべきときのみ戦えば、決して負けることはありません。これが兵法の極意です。孫子は、古えの所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なりとして、それを説いています」

「ああ、何てことでしょう。兵法を知らずして戦うことがいかに危ないことか、今しみじみと思い知りました」


 話を噛み締めるように、胸に手を当てゆっくりと息を吐くヒメを見てオモカネが頷いた。


「ヒメ様。あなたは力が欲しいのでしょう。暴力で虐げられる人々を守ることができる力を。ならば兵法が必ずその力となります。強い武器や腕っぷしだけが力ではないのですよ」

「そんなこと知りもしません。私は愚かでした。この兵法なるものを身につけていれば、葦原や伊曽で、多くの人を守れたかもしれない」


 言っても詮ないこととは知りながら、もっと早くオモカネに出会えていればとヒメは悔やまれてならなかった。忸怩たる思いから涙が溢れて止まらない。ヒメはすがるようにオモカネへ頭を下げた。


「オモカネ様、私はただ目の前で人が殺されていくような悲しい戦乱の世を止めたいとずっと願っておりました。どうか私に兵法をお授けください。私は何としても人を守れる力が欲しい。どうかお願いします」


 こうして兵法の奥深さに感銘を受けたヒメは、日夜孫子についてオモカネから学んだ。


 ヒメはそのとき漢字を読むことはできなかったが、一行一行何度も本を指でなぞっては、オモカネに教わったことを心に刻みつけるようそれを諳んじた。


「オモカネ様。ここは何と書いてあるのですか?」

「百戦百勝は善の善なるに非ずですね。戦争をすれば、当然人が死にますし、食料も枯渇します。いかに勝つためとはいえ、戦いばかり続けていればいずれ国が滅んでしまいかねません。ですから百度戦って百度勝つことが最善なのではなく、戦わずして勝つことこそが最善なのだと孫子は説いているのです」

「ああ、真に仰るとおりです。ですが実際に戦わずして勝つなど、そのようなことができるのでしょうか」

「いくらでも方法はありますよ。ヒメ様。国を豊かになさい。作物を育て、人を増やすのです。民を慈しみ、よく規律を守らせなさい。人々が心から笑顔で暮らす様子を見て、隣国に自ずから帰服せしめれば、戦わずとも国が手に入るではありませんか」

「ああ、何と尊い。これこそ私の求めていた考えそのものです。ああ」


 ヒメは兵法を習って以来もう何度目になるかわからない涙を流しその身を震わせた。それは真っ暗な雲間から射す一筋の光そのものだった。


 ヒメはオモカネに、また兵法に出会えたことの感謝が心の奥底から湧き出てきて全身を満たしていることを、今つぶさに感じていた。


 オモカネがヒメに伝えたのは、兵法ばかりではなかった。


 オモカネは当時まだそれほど使われていなかった鉄製の鋤や鍬により荒れ地を耕して、田畑を次々と増やすことを推し進めた。


 元いた環境の違いから、山間部での開墾については同じ大陸の出身であるワタツミよりもオモカネのほうが優れていたと倭紀には記されている。


 また、武具の作製にも余念がなかった。


 あるときオモカネはしばらく籠って何かを作らせていたが、ある日ご覧に入れたいものがあると言ってヒメたちを呼び寄せた。


「ヒメ様。今後は矢を基本として作戦を考えるべきかと存じます。戦の勝敗は矢の多寡に大きく関わると言っても過言ではありません。古来よりどれほど相手が多勢であっても、固く守り間断なく射かければ、決して負けることはないのです。そしてヒメ様に今回お見せしたいものは、これです」


 そう言うとオモカネは見慣れぬ武器を取り出した。それは弓の中心に横木を取りつけたようなものであった。


 弦を引き、止め金にかけて矢をつがえる。そして止め金を外すと、勢いよく矢が射出される様子をオモカネは実演して見せた。


「これは弩といい、大陸では広く使われています。引っかけるのには力がいりますが、放つのは誰にでも簡単にできますから、非力な村人が屈強な兵士から村を守ることもできるようになるのですよ」

「なるほど。そう聞けば望みが一度に広がった気がします。ああ、とても素晴らしいものを見せていただきました」

「いえいえ、ヒメ様。まだ驚くのは早いですよ」


 ヒメが弩に感激していると、オモカネが意味ありげに含み笑いをした。そしてオモカネは大きな弩を板で横に繋ぎ、斜め上に向けて一列に並べたようなものを持ってこさせる。


「これは、連弩と言って、孔明先生が昔からある投石器を弩に応用して作ったものです。私はこれにいくらか手を加え、強弩十連と名づけました」


 強弩十連の端には大きな石が括りつけてあった。オモカネがその隣にある足元の板に体重をかけて強く踏むと、跳ね飛ばされた大きな石が支点を中心にぶうんと回転し反対側へと落ちる。その際連動して全ての止め金が外れ、しゅばばばっと音を立てて次々と矢が発射されるような仕組みとなっていた。


 さらに石を元の位置に戻せば、それが重しとなって弦を張りやすくするよう工夫されていた。


「どうです? これがあれば相手を驚かせるには十分でしょう」

「あああっ、何と。もう驚きで言葉すら出ません」


 ヒメは感嘆するあまりため息しか出なかった。本当にオモカネの尽きることのない知識にはただ敬服するしかない。


 そうこうしているうちに一年足らずの時が過ぎた。


 卑弥呼は行き場を失った民を受け入れたこともあり、気がつけばかなりの大集落となっていた。


 そして卑弥呼は初めての収穫の日を迎えた。


 青く透き通る秋晴れ。稲穂が誇らしげに実る中をヒメは駆けた。その顔にはこぼれ落ちるような笑顔が浮かんでいる。


 ヒメは突然振り返り、後ろのツクヨミに呼びかける。


「おおーい、早く早くっ」

「はあはあ。姉さん、ちょっと待ってよ。相変わらずだなあ」


 息を切らせて追いついたツクヨミが、ぜいぜいと肩を上下させながら両手を膝について呼吸を整えた。


「もう、仕方ないな。じゃあちょっとゆっくり歩こうか」


 ヒメは両手を広げ新鮮な朝の空気を胸一杯に吸い込むと、ツクヨミと並んで歩き始めた。


「ね。ツクヨミ」


 隣を向いたツクヨミを見て、ヒメは小さく頷いた。


「私、守りたいの。ずっと。この小さな国を。みんなの笑顔を」

「うん」


 ツクヨミが頷いた。痛いほど降り注ぐ陽光が眩しくて、ヒメは手をかざす。


 二人が稲田に到着したときにはもう数人が刈り取りの作業を始めていた。


 中にはタマオヤやイシコリの姿もあった。それぞれがヒメを見て笑顔で手を振ってくる。


 たとえ王となってもこうした瞬間がヒメはとても好きだった。ヒメも大きく手を振り返すと籠を背負い、皆に交じって刈り取りを始めるのだった。

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