第13話 ただ生きて……
天津が一時的に兵を撤退させた隙に帰郷できたヒメであったが、特段に生還の喜びを噛み締めるということもなく、むしろ塞ぎがちに日々を過ごしていた。
伊曽での光景が鮮烈に過ぎて、脳裏から離れないのだった。血にまみれながら泣き叫ぶ村人の姿がありありと思い出される度に、ヒメは涙を流し身を震わせた。
それからほんの数日ほどの間に、ヒメをさらに絶望の淵へ落とす報が入った。
無数の天津兵が山を越えて葦原領へとなだれ込んできたのである。
天津の目的は邪馬台ではなく葦原であったと、このとき皆は痛感を伴って知らされることとなった。
果たして村の前にちらほらと出現した暴虐の王の兵は、半日もしないうちにますますその数を増やした。当初は蜂の巣をつついたように取り乱していた伊世の村人たちも、危難を眼前にしてようやく行く末を議論し始めた。
急ぎ荷をまとめ離散すべしとの声もあったが、天津が悠々と皆が逃れるのをじっと見過ごしてくれるとも思えなかった。さりとて抗戦しても到底勝ち目などないだろう。
もう素直に軍門に下るより他はない。暴虐といえどさすがに殲滅まではすまいと皆の肚は固まった。
ただヒメとツクヨミは逃がしておかねばならない。
二人は先の伊曽の戦いで多くの天津兵に姿を見られている。それと気づかれれば、ヒメだけでなく、村にとっても累が及びかねない。
刻一刻と迫る天津軍を前にもう四の五の言っている猶予はなかった。早速その決定がヒメに伝えられる。
「そんなの嫌だよ。みんなも逃げよう。一緒に、ね」
「今からじゃもう無理よ。みんなで決めたことなの」
ウズメがきっぱりと首を振った。天津の囲みを振り切ってヒメたちを逃がす。この困難な任務に、タヂカラが手を挙げた。
「近くの山まで行けば、昔の仲間もいるからな。何とかなるだろう。なぁに、俺がそこまで連れて行ってやるよ」
今生の別れとばかりにウズメが涙をはらはらと流しながらヒメに駆け寄ってその手を握り締めた。
「私たちは、どんなになっても諦めない。必ず生き残るから。ここであなたたちを待ってるからっ。だから、あなたたちも死んじゃ駄目。いつかここに帰ってくるのよ」
ウズメの真摯な訴えを聞いて、ヒメの頬にも熱いものが流れ落ちた。ぐっとウズメの手を握り返す。
細くてもしっかりと感じる体温にヒメの心はじんと震えた。
「うん。わかった。いつかその日まで、元気でね」
「もう間に合わねぇ。いくぞ」
タヂカラにそう急かされるとヒメは手を振りほどき、ツクヨミと三人駆け出した。
外に出てみると、思った以上に天津兵の数は増えており、村を囲みつつあった。
容易に抜け出せるものとは思えなかったが、他に術もない。命の覚悟を固めて包囲の薄いほうへ全速力で向かっていった。
「何奴。抜け出そうとする者がいるぞ」
「わからんがとにかく追えっ。逃すなよ」
天津の兵たちは、鉄片を繋ぎ合わせた鎧をがさがさと鳴らしながら、なかなかの速さで追ってきた。
ヒメたちは必死で駆ける。
たちまちのうちにぜいぜいと喉が枯れ、胸が焼けついてくるが、何しろ捕まれば殺されてしまうのだ。そんなことを気にしている場合ではない。
「中々の足だぞ。ええい、何をしている。弓を射よっ」
ひゅんひゅんと風を切って無数の弓が足下に突き刺さる。身の危険を感じ、首を振り向こうとしたとき、ヒメの足がもつれてしまった。
若いとは言え、元よりヒメもツクヨミも体力にはあまり優れない質である。知らずもう息が上がっていたのだ。
「何してんだ。ぼけっと突っ立ってると、死んじまうぞ」
なおも矢が雨嵐のごとく降りしきる中、タヂカラがヒメとツクヨミをそれぞれ両脇に抱えて勢いよく疾走した。
ぐっとタヂカラの呻く声がする。見るとタヂカラの背中に矢が刺さっていた。
「タヂカラっ、あなた背中に矢が」
「俺は頑丈なんだ。これぐらい何でもねえ。しっかり掴まってろ」
「もういいっ。私、走るから。下ろしてっ」
「もう少しだ。もう少しで山に入る。行くぞ……うっ」
今度はふくらはぎに矢を受けて、思わずタヂカラが二人を取り落とす。
ヒメは地を転がり、少し腕を擦りむいた。
「タヂカラっ」
ヒメが振り向くと、タヂカラが肘だけで身を起こし、大声で叫んだ。
「俺に構うな。さっさと行けよ。皆の思いを無駄にするんじゃない。奴らが来ちまうぞ」
「嫌だ。タヂカラを放っておけない」
駆け寄ろうとするヒメの手首をツクヨミがしっかと握って引っ張った。
「駄目だ。姉さん、行くよ」
「ツクヨミ、離して。タヂカラが死んじゃう。私も戦うんだ」
こんな敵地に一人で置いてなんていけない。
タヂカラを案ずるヒメの双眸から涙が溢れ出した。
「お前だけだよ。俺のために泣いてくれたのは。ありがとな。こんな屑みたいな俺に、生き直すきっかけを作ってくれた。今度は俺がお前を助ける番だ。ツクヨミぃ、その手を離すんじゃないぞ。お前たちは生き残れっ、必ずだぞ」
「うあああっ、タ、タヂカラっ、ううっ、タヂカラああっ」
子供のように泣き喚くヒメは、強く手を引かれながら鬱蒼とした森の中へと入っていった。
そこから、どこをどう歩いたものか、見当もつかない。
時おり潜む兵を避けながら、繁みを抜け沢を越えたりするうちに疲労困憊となってきた。
そうでなくとも薄暗い森に射すわずかな光もいよいよ頼りなくなってくれば、寄る辺もなく彷徨う自分たちの境遇と重ね合わされて寂寞の念さらに強くなってくるのであった。
村の皆もどうなっているだろうかと考えるだけで、不安で胸が潰されそうだった。
そのとき、がさごそという音がして、唐突に躍り出た数名の男と二人が不用意に鉢合わせた。
捕まってはまずいと、ヒメとツクヨミが手を取り合い慌てて逃げようとするが、すぐに行く手を阻まれた。
だがその表情に敵意のようなものは感じられなかった。
どうしたものかとヒメがまごついていると、中心の男がにやりと笑いかけた。
「お前たち伊世の者だろう。森に入るところをずっと見ていたぞ。お頭から話を聞いて探しに出ていたんだ。安心しな。もう大丈夫だぞ」




