第10話 伊曽の村
軍議の後、直ちに葦原へ援軍を求める使者が遣わされた。
葦原国王ツヌグイ(角杙)は、邪馬台国からの使者の姿を見るなり、怒りをあらわにした。
「ぐぬう。イザナギめ。またぞろ兵を出せと言いに来たのであろう。お前たちが天津と勝手に戦っているのに、どうして我らが駆り出されねばならん」
葦原国と邪馬台国は当時ゆるやかな同盟関係にあったが、ツヌグイは度重なる派兵の要請を快く思っていなかった。
ツヌグイにとって邪馬台国は、天津の矢面に立ってくれる頼もしい存在ではなく、要求ばかりしてくる厄介な隣人に過ぎなかったのだ。
使者は確かに天津の狙いは葦原だと伝えはしたが、ほとんど聞き入れられることはなかった。
「まあ、そうは言っても、断ればまた面倒だからな。体面だけでも繕っておくか。おい、邪馬台に一番近い村はどこだ?」
伊世ですと側近の一人が答えた。その表情にはそんなことも知らないのかという内心の動揺がわずかに漏れ出ていた。
「そうか。なら伊世から村人を数人でよい。出してやれ。それで文句もないだろう」
早速その下知は伊世の村へ伝えられた。
こんな小さな村にだけ負担を押し付けられることへの不満を口に出す者はいたが、命令には逆らえない。何もせず帰ってきても構わないと言われ、やむなく人選が行われた。
タヂカラは村に入って早速、開墾や村の警護など主に力仕事でその能力を遺憾なく発揮し、皆に受け入れられるどころか今や村一番の働き者になっていた。援軍としても適任ではあろうが、村に必要な人材は出せないとの理由で外された。
結果、ヒメやツクヨミ、その他当たり障りのなさそうな数名が選ばれ、邪馬台国へと向かうことになった。
あからさまに不機嫌な顔で私が行ったってしょうがないじゃないなどと文句を言い続けるヒメを、ツクヨミが落ち着かせながらまる二日。ヒメたちは伊曽の村に到着した。
伊曽の村は防衛拠点として整備されていたこともあり、伊世よりもはるかに多くの人員が集められ、活気に満ち溢れていた。
ヒメは生まれてから一度も他の村に行ったことがなかったため、それまでの不平はどこへやら、「うわぁすごい」などと素直に感嘆しながら初めて見る光景に目を輝かせていた。
すぐに王がこちらへ向かっていると伝令があり、増援の兵が全て集められた。その数はおよそ四、五十人といったところであった。
間もなく大柄な狼を思わせる風貌の邪馬台国王、イザナギとその側近たちが馬に乗ってぞろぞろと入ってきた。
その姿は威厳に満ちており、その場にいた者は皆、誰からともなく自然と頭を垂れた。
イザナギが馬上から援軍を見回し、これで全部かと呆れたように鼻で小さく笑った。
「ツヌグイめ。よりにもよってこんな女子供を遣わしてきおって。底が知れたわ。ものの役にも立たぬ。もうよい、お前たちは今すぐ帰れ」
イザナギがぞんざいな口調で葦原の者たちを追い払おうとするので、ヒメが頬を膨らませながら前に躍り出た。
「ちょっと、何てこと言うのよ。ここまでせっかく来たのに、役立たずとか、帰れとか、言い方がひどいじゃないですか」
小さな村で育ち、礼節もろくに知らないヒメはイザナギの御前であろうと臆面もなく言い放った。
イザナギはその無礼に怒るどころか、やや呆気に取られたようにじっとヒメを見返した。
「俺が呼んだのは援軍だぞ。天津の兵が来たらそいつらを殺すのがその役目だ。お前にそれができるのか?」
イザナギの正鵠を射た質問に、ヒメはうぐっと言葉に詰まったまま何も言い返すことができなかった。
「ほら見ろ。やはり役立たずではないか。さあ、わかったらとっとと帰れ」
イザナギは大仰にため息を吐くと、もう用はないとばかりに馬を返した。
「伊曽は捨て置け。俺は先に戻る。スイジ、後は任せたぞ」
スイジとはウイジの長子、阿斯訶備の乱の生き残りであるスイジその人である。
アシカビ亡き後は主に筑紫島で反天津の動きを指示していたが、イザナギと出会い邪馬台国の建国に大きく関与したことから、彼も「邪馬台の三傑」の一人に数えられている。
ただ、本人はあくまで最前線で天津と戦うことを望んだため、側近ではなく方面隊長としてずっと駐留を続けていた。
イザナギはスイジたち随伴の兵をその場に残し、颯爽と村を出ていった。
直後、ヒメの後ろでどさりと音がする。小心者のツクヨミが腰を抜かしてその場にへたり込んだのだ。
「ツクヨミ、いきなり倒れて、どうしたのよ」
「いやっ、いやいやいや。姉さん。たまたま無事だったからよかったものの、邪馬台国の王様にどうしてあんな突っかかるようなことを言ったんだよ。その場で殺されたって仕方がなかったよ」
「むう。だけどあんなひどい言い方をされるとむきになっちゃうじゃない」
「ならなくていいよ。もう、そんなので殺されたら馬鹿みたいじゃないか。我慢してよ」
「わかった。次から気をつけるようにする」
ヒメは自分でも少し反省し、心配してくれたツクヨミに謝った。
ヒメはこのときイザナギ王の言い草がどうして心に引っかかったのかうまく説明できなかった。ただ、何か許せないと漠然と感じたとしか言えない。
だがまさか、この二人がその理念の違いから後に倭を二分して覇権を争うことになるなど、このときはまだ誰も夢にすら思わぬことであった。
そのとき突然はあーっはっはと大きな笑い声が辺りに響いた。
驚いたヒメがそちらに視線を遣ると、ヒメと同年代であろう、生意気そうな雰囲気を漂わせた少年が、笑いをこらえながら二人に近づいてきた。
「いやぁ、なかなかに豪胆な奴じゃないか。こんな面白いものが見られただけでも、ここに来た甲斐があったというものだ。気に入ったぜ。なあ、お前の名は?」
「私がヒメで、こっちが弟のツクヨミ」
「そうか、ヒメか。俺の名はスサノオ(須佐之男)。間もなくこの名はあまねく倭に知れ渡ることになるだろう。よろしくな」
聞けばこのスサノオという人物、人並み外れた豪力の持ち主であることをつとに自覚し、己の武辺を試すべく戦のありそうな所を巡っているのだという。
「あれは豪胆ではなく、軽率と言うのです。いざとなれば仲裁に飛び出そうと思っていたのですが、事なきをえて本当によかった」
そう諫めた声の主は、タケルと名乗る眉目秀麗な男であった。中津国という針間の新興国から来たらしい。
これも幼き頃より武芸百般、超絶した技巧の達人であり、ことにその流麗で目にも止まらぬ速さの槍さばきは、余人の及ぶところにあらずと称賛されるほどの凄腕であると随伴した兵士が誇らしげに語った。
ちょうどそこへスイジが戻ってきて、援軍の皆に告げた。
「この村は放棄せよと王の仰せだ。村の者には逃げるよう指示したので、お前たちはその護衛を担ってほしい」
ツヌグイもイザナギもここへ救援の兵を送らないことを既に決定している。ならばここにいくら立て籠もったとしても、いずれ物資が尽きて敗北することは避けられない。
放棄するより他に選択肢はないのだった。




