9 心あてに 風の噂の帖
西の空を厚い雨雲が覆い、遠雷が低く遠くからこだまする。庭園の維持管理を行う園丁が香澄と千紗を呼び止めた。
「誰がどちらでも構わない。手水鉢の縁の苔払いをしておくように。明朝の茶会に備え、庭は今夜のうちに整えておかねばならぬ。蹲踞の水の交換もしてくれ。底に泥が溜まっているのは良くない」
園丁であれば、香澄と千紗がこの屋敷の者ではないことは把握しているはずだ。それでも、命じたのは恋人たちの安らぎを乱さないための配慮と、香澄と千紗をどこかから入り込んだ不審な子にさせないための配慮だろう。それとも、屋敷の者を把握していないとか、猫の手も借りたいだけの可能性もあるのだろうか。
「千紗、手水鉢も蹲踞もわからないよ」
「手水鉢は、神社や庭園によくある水盤の総称で、手を清めるために水を入れた石や岩で作られた質素な鉢だよ。蹲踞は、茶庭専用の低い手水鉢で、茶室に入る前に腰をかがめて、竹の柄杓から水を注いで、手や口を清めるためのものなの。蹲踞という名称もつくばうことに由来するんだよ」
香澄と千紗は、手水鉢へ行った。香澄が小水路の清水を汲み取り、千紗が苔を払った場所に水をかける。
「さっきの黄昏からそれほど時間が経過していないのに、雨雲のせいか、暗く感じるね」
「夕顔の季節は夕立ちが多いから、この時間帯によく曇るんだよ」
次は蹲踞だ。茶室を探して蹲踞へ向かう。
「蹲踞は、どうやって水を交換するの?」
千紗は、柄杓を手にして蹲踞の縁にかがみ込む。
「まず、古い水を静かに汲み出して、庭石へこぼすの」
「排水の栓はないんだね」
「蹲踞は石をくり抜いただけだからね」
千紗が5回汲み出しても、まだ取り除けない。
「そろそろ交代するよ」
「うん。お願い」
香澄が10回ほど繰り返すと、古い水を出し終えた。
「今度は底の泥をかき出して、水路に返すよ」
「うん」
何か道具があるのかなと思っていたら、千紗が指でかき出しているので、香澄も同じようにした。
「あとは水桶で清水を汲み上げて、蹲踞へ注ぎ入れれば終わりだよ」
「うん。あれ? 手水鉢の苔は取り除いたのに、蹲踞の苔は取り除かなくていいの?」
「取り除かなくていい。手水鉢は、客人が手や口を清めるためのものだから、きちんと苔払いをするの。蹲踞は、周囲に苔を配置して、茶庭のわびさびを演出するものだから、苔が茂っているのが自然で美しいとされるんだよ」
「なるほど、似たようなものだけれど違うんだね」
清水を注がれた苔が、暗い庭に緑の模様を浮かび上がらせた。手入れされた苔と手入れされていない苔は違う。常葉さんの庭がそうだった。
作業を終えた香澄と千紗が立ち上がると、石畳の向こうから和歌を詠む声が聞こえ始めた。先ほどのように姿を見せるのはやめよう。おじさんから、また仕事を頼まれてしまうかもしれない。
香澄は、静かに耳を澄ませた。
男性の低い声が庭先にそっと響いた。
「夕べ風 袖の端ゆらし 二人寄り 声は霞むや 夢の跡まで」
「夕暮れの涼しい風が、袖をそっと揺らして、2人が自然と近付いた。声はかすかで、まるで夢のように過ぎ去って行った」
和歌がわからない私のために、私が説明を求めなくても千紗が説明してくれた。
葉のかさつきを合図に、女性の声が宙に溶ける。
「夏の夜に ひそやかに寄る 影二つ 袖をすりぬけ 月を抱くよう」
「静かな夏の夜、2人の影がそっと寄り添い、袖がこすれるたびに月の光が包み込む」
香澄は千紗の説明に息を飲んだ。
虫の声が遠くで聞こえたのを合図とするように、男性の声が再び響く。
「そよかぜの たよりを追いて 手を伸ばし 夜の縁側に ふたり灯るかな」
「そよ風を手掛かりに手を伸ばし、夜の縁側でふたりの未来を灯す」
「これは2人がこれから一緒に歩いて行く約束を詠んでいるのかね」
千紗の解釈に香澄はこくりと頷いた。
「縁側で灯す二人の未来、素敵だね」
女性が続けてそっと詠んだ。
「月影に 寄せし心の糸 君かひありて 絶ゆることなき 恋の契り」
「月光の下で寄せた私の心の糸は、あなたが大切に受け止めてくれるおかげで、決して途切れることのない恋の誓いです」
私が聞こえる場所で、このようなやりとりをされると、聞いている私の方が恥ずかしくなる。多分、千紗の説明がなければ、まだいいのかもしれない。でも、説明なしではわからないから・・。
香澄と千紗に掃除を頼んだ園丁が近付いて来た。香澄は、また別の仕事を頼まれるのかと思ったが、そうではなかった。
「突然、掃除を頼んで悪かった。何か口実をつけて引き離したくて・・」
「私たちが近付いたのが悪かったのです」
「丁寧に掃除をしてくれたお礼に、これをどうぞ」
差し出されたのは雪平餅だった。
「どうもありがとうございます」
「ありがとう」
香澄と千紗は礼を述べて、縁側に腰を掛けた。
「これ饅頭かな?」
「違うよ。雪平だよ。白玉粉と卵白に白餡を加えた餅だよ。雪の平らな面みたいだから雪平っていうの。くず粉や求肥で作る人もいるみたいだよ」
2人が雪平の食感と甘味を味わっている時に、少し離れたどこかから低く囁く声が聞こえて来た。
「殿が都への上使として急遽帰京を命じられたと聞いた」
貴族の側近である侍従が噂話を囁いた。
「今宵、この屋敷を去ると私は伺いました」
若い男性の従者である小姓が自分の知っている情報を話した。
噂話を盗み聞いたようで、香澄は会話の内容を話すのはどうかと思ったが、千紗に尋ねた。
「帰京? 上使というのがわからないけれど、都に戻れるのは良いことだよね?」
「上使というのは、朝廷から地方国府や摂関家に命じられる公務使節で、数週間から数ヶ月の単位で留守になるのが一般的なんだよ。それだけの期間離れるとしたら、都に戻れるのは必ずしも良いこととは言えないよ。だから、ここでそういう会話はすべきではないな」
そうか。お姉ちゃんの友達が彼氏の留学前に別れたと言っていた。友達が転校する時に「離れていてもずっと友達だよ」と送り出すから、しばらく離れるのが試練となり、結びつきが強くなるのではないかと私は思ったが、世の中には離れていても交際を続けたいと思う人もいれば、離れているのは寂しいから別れるという人もいるのだと知った。別れる人というのは、友達が引っ越したら縁を切る人なのだろうか。小学校から大学まで同じ学校で、就職先まで同じになる人などまずいないのは、小学生の私でもわかる。
命じられたら断るのは難しいだろう。そういう会話はすべきではないと千紗から言われたから、言葉には出さないが。
男性側の侍従と小姓の会話は、千紗が心配したように、男女にも聞こえていた。
女性は震える指で茶器の蓋を押さえたまま、顔を青ざめさせた。
「帰京? 何かの間違いよね? 私を置いて行くという意味? 別れのしるしなの?」
男性は狼狽して、咄嗟に証拠を示そうとして腰の柳筥に手をかけるが、証拠よりも言葉を選ぼうと、開きかけた蓋を閉じる。
「ち、違うんだ! 違うんだよ!」
女性は、その男性の動揺した様子に疑いを深め、答えを待たずに涙をこらえながら細かい足取りで縁側を離れ、姿を闇に消してしまった。 その瞬間、男君は躊躇もなく声を張り上げ、立ち上がって追いかけた。
「待ってくれ! 誤解なんだ、話を聞いてくれ!」
苔に覆われた石畳を飛ぶように進み、角を曲がったその先で、女君の細い影が一瞬だけ見えたような気がした。しかし、枝が揺れる音がしただけであった。いくら男性でも、廊下を小走りで去る女性を庭を走って追い続けるのは不可能だ。
「君を置いて行くなんて、そんなはずがない」
息を切らせながら、独り言のように言う男性の言葉に対する返事はなく、すれ違った2人を象徴するかのように、庭は静寂に還っていった。
千紗は香澄の判断を待った。だが、香澄には、どうしたらいいのかわからなかった。男性を励ますのが正解か、女性を探しに行くのが正解か、それとも、2人のことはお互いをよく知る2人に任せるのが正解か。わからないからと言って、何でも千紗に質問するつもりはない。
それに、ここは「こひのいとま」の中だ。私が登場人物に積極的に介入するようにはできていないだろう。常葉さんの時にはまともに介入してしまったが、もし、介入すれば物語の内容を変えてしまうかもしれない。あれ? 私が介入しなければ、常葉さんと匡季さんは成仏できなかった。介入すべきなのか。
遠雷の余韻が遠のき、男性は庭をあてどもなく歩き、香澄と千紗が綺麗にしたばかりの蹲踞へと辿り着いた。香澄と千紗は、腫物から逃げるように離れた。男性は、月光が水面をかすかに照らす蹲踞の前に跪いた。そして、心を整えるように柳筥から短冊を取り出して静かに詠む。
「風の便り 嘘と共に舞う 影抑え 君の声ただ 心照らせや」
静寂の中、男性の声が波紋のように庭へ広がっていった。
「風に乗って伝わる噂は嘘ばかりで、心に暗い影を落とすけれど、君の声だけが僕の心を明るく照らしてくれる」
千紗が説明してくれた。
「嘘をかき消して欲しい、嘘を消せるのは君だけという意味か」
「そう。彼の本心は、この一首に詰め込まれているね」
しばしの沈黙の後、女性がそっと姿を現した。
「あなたの声を、どうしてももう一度聞きたくて」
男性はゆっくりと立ち上がり、震える手で柳筥から短冊を差し出す。
「都への命令は、短い留守役のためのもの。 君と別れるためではない。ずっと側にいたいから、手紙代わりに歌を用意したんだ。本当は出立の時に手渡すつもりだったけれど・・」
女性が短冊を見ると、そこには密やかに記された一首があり、静かに詠んだ。
「別れより 胸に秘めた 言霊を 風に乗せゆく 恋の灯かな」
詠み終えると、女君は安堵に頬をゆるめた。
「別れたあの日からずっと胸に秘めてきた想いのことばを、そよ風に託して運ぶ。それは小さな恋の灯のようだよ」
千紗が説明してくれた。
「留守役というのは何?」
「留守役は、貴族や役人が、何かの都合で、本来の任務地や屋敷を離れる際に、留守中に家や役所の諸事を預かって取り仕切る役目だよ。帳簿の管理、来客の応対、儀礼の執行まで代行する場合もある。だから、今回は私的な外出ではなく、公的な任命で行かなければならないという意味なんだよ」
「いなければいないでいいと思うのに、代行者に任せるんだね」
「本人がいなくてもなさなければならないこととされるからね」
いなくてもしろとは強引だな。
「歌を交わす幸せはかけがえのないものだ。しかし、歌に心を託す前に、まだ君の名前を知らない。もしよければ、名前を教えて欲しい」
女性は顔を紅潮させ、懐紙を取り出すと、淡い筆跡で名を書いた。
「夕瑶です」
「夕暮れの光を宿す瑶玉か。深い輝きをたたえ、まさに君に相応しい名だ。僕は朔臣。新月の臣下という名だ。これよりお互いの名で呼び合おう」
恋人同士なのに、初対面の人のように名前を尋ねた。おかしいよ。
「恋人同士が名前を知らなかったの? どういうこと?」
「真名を口に出すことは、相手の本質を縛るという理由で忌み嫌われて、婚約の時点で初めて名前を交換し合うんだよ」
「それは歴史で学ばなかったよ」
「香澄が知っている日本とは違う世界だからね。日本だと、かつては名前は公的帳簿だけで、私的には一切使われなかった。夫婦間でも、官職や邸宅名の殿号や、文人名の雅号以外で呼ぶことはほとんどなかったんだよ」
「ということは、この世界よりも極端だったんだね」
「うん」
雰囲気から平安時代くらいかと思っていたが、無関係なのか。この世界で学んだことを日本で言うと、大恥をかく可能性があるという意味だ。
「それともう2つ疑問に思うことがあるんだ」
「どういうこと?」
香澄が疑問に思うことがこの世界での常識なのかと千紗に尋ねたら、それは常識ではないと教えてくれた。それならば直接本人に言っても、私が非常識な人間にはならないはずだ。
夕瑶が「朔臣さん」と呼びかけようとした瞬間に香澄が登場した。
「たびたびお邪魔して申し訳ありません。でも、僭越ながら、2つだけ申し上げたいことがあります。よろしいでしょうか?」
「はい」
「どうぞ」
夕瑶と朔臣の許可に、香澄は深く礼をして、顔を上げた。
「1つめ。あなたは、『絶ゆることなき 恋の契り』と詠うほど、彼を好きなのに、どうして噂1つで、あのように誠を疑ったのですか? 信じるとか確認するとかできたはずです」
夕瑶は言い訳すらできずにうつむいた。
「2つめ。あなたは、『夜の縁側に ふたり灯るかな』と詠うほど、彼女を好きなのに、なぜ上京を早く知らせなかったのですか? 大切なことほど、早く打ち明けて不安を和らげるべきです。もし彼女が早く聞いていれば、これを私だと思って持っていて下さいと。何か用意できたかもしれないでしょう?」
朔臣は頭を垂れた後、夕瑶の方を向いた。
「申し訳なかった。夕瑶さんを案じるあまり言いそびれてしまい、逆に不信を与えてしまった」
「私も、つい疑ってしまって、本当に申し訳なく思っているわ」
「私は和歌がわかりません。それでも、お2人がやりとりする歌を聞いていて、心がふわっとしました。あのような歌を詠みあえるということは、それだけの想いがあるという意味だと思います。お2人には歌の言葉だけでなく、心でつながりあって欲しいです。何でも打ち明け、お互いを信じて・・」
「その言葉、心に刻もう」
「私も」
朔臣が夕瑶の手を握った。
「夕瑶さん、これからは喜びも不安も、すべてを君と分かち合いたい」
夕瑶は小さく頷き、朔臣の手をしっかりと握り返した。月明かりに照らされた2人の影が縁側へと伸び、虫の声が新たな調べを奏で、二人の誓いを優しく讃えるかのようだった。