8 心あてに 花の蔭の帖
蔭とは、「陰」と違って、植物由来の「かげ」を表します。
「限りとて」から戻って来ると、まだ3時半になっていなかった。つまり、20分程度だ。そして、文字数は、私の感覚では18,000文字程度だったような気がする。ということは、こちらで経過する時間は、あちらの世界の時間ではなく、私が本を読む速度とページ数によって決まるのではないか。
まだ夕食まで時間があるから、もう少し読み進めよう。それから、和歌を暗記せずに出直した前回の失敗を教訓として、ページをめくる前の和歌は暗記しておこう。
『源氏物語』 「夕顔の帖」より
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
何となく言葉上の意味はわかっても、深い意味はわからない。和歌はわからないから仕方ない。いちいち倭ちゃんに意味を聞けないし、きっとあちらの世界の人に話せば通じるはずだ。暗記するのは和歌だけでいい。
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
よし、3回繰り返せば忘れない。
ページをめくる。
めくる途中で、甘く、涼やかな香りがほのかに鼻腔をくすぐった。夕顔の和歌だったし、これは夕顔の香りだろうか。朝顔は香りがほとんどないから、夕顔もないと思っている人が多いけれど、実は強くはないものの、上品な香りがする。
そもそも、朝顔と夕顔は系統が異なる。アサガオは、ヒルガオ科・サツマイモ属、熱帯アジア原産、ユウガオは、ウリ科・ユウガオ属、北アフリカ・インド原産で別系統だ。『源氏物語』の頃には既に日本で自生していたのに、外来種というのも不思議だが、外来種なのである。夕顔の果実はかんぴょうだから、食用・薬用として中国経由で日本に来たのかもしれない。小学生でも知っている遣唐使が怪しい。
アサガオ、ユウガオと言えば、さらに触れなければならない植物がある。ヒルガオとヨルガオだ。ヒルガオは、ヒルガオ科・ヒルガオ属、ヨルガオはヒルガオ科・サツマイモ属と、ややこしい。植物は名称よりも、生物学的分類で見た方がわかりやすい。
光の残滓が黄昏に溶けて、薄紫を帯びた空が一日の終わりを静かに告げる。香澄の足元には柔らかな土の感触が広がる。視界のほとんどを埋め尽くすのは無数の白い夕顔の花園だ。
目を凝らすと、大小さまざまな花弁が朝の光を反射し、まるで白い波がゆらめいているようだ。指先でそっと触れると、 一本の蔓を伝って、生命の脈動がじんわりと手に伝わる。花びらは絹のように薄く、指先に心地よいぬくもりが残った。
空気には甘く澄んだ香りが充満している。ページをめくる途中で鼻腔をくすぐった香りだ。深く息を吸い込むたびに、胸の奥が震えるように熱を帯びていく。
耳を澄ますと、風が蔓の間を流れる音、花弁を撫でるかすかな擦れ音、遠く水のせせらぎ。現実の世界では味わえない静謐な調べが、胸の鼓動と響き合う。
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
香澄は夕顔を本物の夕顔と勘違いしていると思ったら、それは誤解だ。和歌はわからなくても、『源氏物語』の夕顔が夕顔の君を意味することくらいは知っている。夕顔をイメージさせる女性なのだろう。今、香澄の周囲にある夕顔を。
それで、夕顔をイメージさせる女性はどこにいるのだろう。向こうに見える屋敷に行けば誰かに会えるだろうか。
「香澄!」
振り返ると、白絹の着物の女の子がいた。千紗だ。
「千紗、今回は登場が早いね。前回も早く登場してくれて良かったんだよ」
「千紗は香澄の優しさで現れたんだ。だから、もし、従者が小柄しか届けなかった理由を香澄が調べようと思わなければ、千紗は現れなかった」
「そうか。前回がなければ、少なくとも今は現れなかったんだね」
「うん、香澄の優しさがある時まで現れなかった」
「ところで、前回は目の前に常葉さんがいたのに、今回は誰もいないから、どうしたのかと思っていたんだ」
いけない。千紗は「風の通り道で、よく迷子を見つけるの」と言っていた。どうしたのかと思っていたなんて、また私が迷子だと言っているようなものだ。前回は薬師堂がわからずに迷子、今回は冒頭から迷子。まいったな。
「それは物語によって違うんだ。毎回、月を見ているわけではないからね」
「それはそうだ。この夕顔の花園は何なの? 夕顔は野生種だけれど、これほど自生力は強くないよね」
「ここは貴族の庭にある花園なんだよ」
また不法侵入かい! しかも、これほどの花園があるなら貴族だ。毎回毎回、登場場所が危険過ぎる。
「夕顔だけ、これほど栽培しているなんて・・」
「夕顔が好きなのだろうね」
夏渚ちゃんだったら、間違いなく、食べられる植物を植えるだろうな。あれ? 夕顔はかんぴょうの品種もあるから、畑の可能性もあるのかな。花園なのか畑なのかでイメージは雲泥の差だ。
「あれ? この夕顔は食用?」
「違うよ。観賞用だよ。球形の丸夕顔がかんぴょう用、円筒形の長夕顔が食用、これは瓢箪型だから観賞用だよ」
「そうか。かんぴょうに使われる品種があるのは知っていたけれど、そこまで知らなかった」
「2人を探しに行くよ」
「うん」
千紗は屋敷へ向かって歩き始めた。なんだ、屋敷へ向かうのか。千紗が案内してくれなくても行っていたよ。でも、千紗が登場しない可能性もあったなら、私一人でも行けるようになっていないとおかしいか。
「もうすぐ、2人がいる場所だよ」
「うん」
細い蔓が絡まるアーチを抜けると、花畑が途切れた。斜面を緩やかに下る先に、瑠璃色の狩衣をまとって小さな花器を両手で抱えた青年と、長い黒髪を垂らす女性の姿が小さく見えた。女性は白い袷に柔らかな薄紫を重ねている。あの2人が今回の主役だろう。
狩衣とは、もともと狩りに行く時に着る服だったが、動きやすさから平安時代以降の公家たちの普段着として定着し、鎌倉時代以降は武家の礼服として用いられるようになり、現代では神主の儀式用の装束として使用されている。
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
青年の口から低く美しい声が響いた。
「千紗、ちょっと待って! あれは『源氏物語』に登場する和歌だよね。私が必死に暗記して来たのに言われてしまったよ」
「まぁ、努力が報われないこともあるから」
「努力だけの問題ではないから。これ二次創作にならないかな? 『こひのいとま』は問題だよ」
「香澄、ちょっと待って。女性が何か言うから」
私がちょっと待ってと言ったら、ちょっと待ってと言い返されて途切れた。
「思ひつつ 見れば霞立つ 夕映えに 露にぬれし 夕顔の花」
女性の声音は、水音のように柔らかく胸に染み込む。
二人の間に漂う和歌の気配が、糸を結ぶかのように空間を静かに締め付けた。
「待ったよ。きちんと説明して。あと和歌はわからないから、意味も教えて」
常葉さんは、私にはわからないと思って意味を説明してくれた。でも、あの2人にはお互いの和歌の意味がわかっているから、いちいち説明してくれない。
「『こひのいとま』は、古の恋の和歌に親しんでもらうための書物なんだよ。だから、実在する和歌が登場する場合もある。でも、登場人物や背景は違うんだ。例えば、『限りとて』も光源氏の母の桐壺更衣ではなく、常葉さんだったよね。本当は、この場面は夕顔と光源氏の場面だけれど、あの2人は夕顔と光源氏ではないし、あの男性は常葉さんの子でもないんだ」
「それって、どうなのだろう。設定を変えればいいという問題かな?」
「ちなみに、今の和歌を解説すると・・」
千紗は、私の問いに答えずに和歌の解説をするつもりか。私が「和歌はわからないから」と続けたせいか。「説明して」で切れば良かった。
「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
「もしかすると、あれが君かと見てしまう。白露に光が添えられたような、夕顔の花のように美しい人だな」
「思ひつつ 見れば霞立つ 夕映えに 露にぬれし 夕顔の花」
「あなたを思いながら見つめていると、霞が立ちこめる夕映えの中、露に濡れて咲く夕顔の花が、いっそう切なく美しく見えます」
「この和歌の流れもひねられていて、『源氏物語』では、「心あてに」を詠んだ人の候補が3人いるんだよ」
「3人?」
「夕顔、光源氏、頭中将の3人。光源氏説は、歌の技巧や表現が源氏の教養を感じるから、頭中将説は、光源氏と共にいた際に歌を詠んだ可能性があるからとしているけれど、前後の文脈や描写から夕顔が通説になっている。でも、今詠んだのは男性だったね。2人だけだから、頭中将は外れ、光源氏に相当する人物だよ。夕顔が詠んだ和歌を光源氏が詠んだら違うよね?」
「小細工のような気がする。ちなみに、女性が詠んだ場合の現代語訳は?」
「もしかすると、あの方かしらと思って見ています。白露に光が添えられたような、夕顔の花のように美しい方」
「ほぼ同じだね」
「和歌が同じだからね」
「確かにそれは異論がない」
「あと、もう1つ大きな違いがあって、『源氏物語』では、光源氏が次のように返すんだよ」
「あぁ、男女が入れ替わったら返歌も違わないとおかしいからね」
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」
「近付いてこそ、それが誰なのか確かめられるでしょう。 黄昏時にぼんやりと見えた、夕顔の花のようなあなたの姿は、まだはっきりとは分からないのです」
千紗が現代語訳も教えてくれた。教えないと尋ねられるのを知っているからだろう。
「そうか。男性が女性を『美しい人』と言えば、女性は夕顔の花が・・と返し、女性が男性を『美しい方』と言えば、男性は近付いて確かめるという流れになるか」
「『こひのいとま』の作者は凄いよね」
「普通の本ではなく、世界に入り込めるのは凄いと思うけれど」
「うん、凄い、凄い!」
『こひのいとま』をものすごく偉い人が作って忖度しなければいけないような喋り方だな。人間には作れないから、神様が作った? 日本には八百万の神がいると聞く。和歌の神がいて、その神様が『こひのいとま』を作った? まさかそれはないだろうな。自分がわからないことを神仏に関連付けるのは、現代の日本で生きる私にはありえない。
「香澄、香澄!」
「どうしたの?」
「見られてる・・」
あっ・・。あちらの声が聞こえるということは、こちらの声も聞こえる。男女が和歌を交換しているのを小5の女子2人が見ている構図だ。これは気まずい。
「袖を小さく振っているのは、どういう意味かな? あっちへ行けかな?」
「あれは手招きだよ。大きく手招きするのは下品だとされるから」
物語の進行上、どこかで関わらなければならないとしたら、あちらから呼んでくれるのは幸いかな。禍を転じて福となすか。
ちなみに、「わざわい」を「災い」と言わないのは、夏渚ちゃんが「災い」は天災のような自然現象で、「禍」は人為的なものと教えてくれたからだ。「はかる」は「図」「測」「計」「量」を区別するけれど、災と禍は区別しない人が多い。自分の生活に密着しないものには疎くなる法則だ。その結果、いつのまにか人為的なものまで災で済ませるようになってきていると夏渚ちゃんが言っていた。
男女がいる場へ千紗と歩いて行くと、男性は花器を置いて、木箱から短冊を出した。
「ここでひとつ、詠い手としての証を示してもらおうか」
初対面の子供に和歌の創作を求めるか?
「私には、まだ和歌を詠む力がありません」
青年は優しく微笑みながら一呼吸置いた。
「焦ることはない。言葉はすぐには紡げぬものだ。まずは耳と心を澄ませるのだ」
「はい、耳と心を澄ませます」
香澄の隣にいた千紗がそっと身を乗り出して、青年に問いかける。
「香澄の代わりに、千紗が詠んでも構いませんか?」
「君が? いいだろう。君の声を、この庭に響かせてほしい」
「ものあはれ 消えぬ影追ひ 心揺らめき 夜の庭に鳴く ほのかな声に」
青年は瞳を細め、感心したように頷く。
「深い。君の声が庭の闇を震わせる」
そこで、女性が箏のような細い撥を取り出し、そっと和琴の弦に触れる。 かすかに響く調べに乗せて、短く和歌の一節を口ずさむ。
「もののあはれを身にしむれば、夕顔の闇に映る涼しさよ」
弾かれた音と共に庭の空気が揺らぎ、花器の夕顔の花弁がひらりと舞い上がったようだ。香澄はその美しさに息を飲んだ。青年は香澄に女性の調べを邪魔しないように囁く。
「まずは耳を澄ませ。君がここで見出すべきは、声そのものの響きだ」
香澄は目を閉じ、滴る夜露の音、撥の軽やかな余韻、遠くで揺れる花影をひとつに重ねる。 次第に胸の内に、小さな灯がともるように。何かわかるような気がする。でも、和歌はわからない。理解の種が芽吹くまで、まだ時間がかかるようだ。
女性が雅を紡ぎ終えると、青年が声をかける。
「君の自然な言葉が、この庭の夜気とあっていたよ」
青年は満足げに頷き、再び千紗に視線を移した。
「君なら、背伸びしない素直な和歌もきっといい。もう一首、詠んでくれないか」
千紗は一度息を整え、行灯の淡い灯に照らされながら静かに口を開く。
「ほのかなる 油灯の影に 揺らめきて 消えぬ恋の声 夜の庭響く」
青年と女性は顔を見合わせて、やわらかな満足を湛えた瞳を千紗に向ける。
「千紗の詠んだ和歌を説明して」
「ものあはれ 消えぬ影追ひ 心揺らめき 夜の庭に鳴く ほのかな声に」
「もののあはれを深く感じる人は、消えない想いの残像を追いながら、心がざわめくままに夜の庭にこだまするかすかな声を聞くものです」
「ほのかなる 油灯の影に 揺らめきて 消えぬ恋の声 夜の庭響く」
「ほのかな油灯の影が揺れる中、消えることのない恋の声が夜の庭に静かに響いている」
「どちらも千紗たちが、2人を見つけた時の様子を詠ったんだよ」
「そうか、和歌にすると、それほど優雅な響きになるんだね」
夕顔の花園の奥から優しい風が吹き込み、庭木の葉がざわめく。灯りの陰がふわりと揺れ動き、詠い手と聴き手、それぞれの胸にじんわりと染み入る余韻を残していく。
やがて風は遠くへと抜け、夜の帳がそっと降りる。まだ見ぬ物語の始まりが、そっと息をし始めていた。
かんぴょうの主な効能
体内の余分な熱を冷ます、利尿作用(むくみ改善)、解毒作用(老廃物排出)、食物繊維(便秘改善)、ミネラル補給。
かんぴょう巻きは子供の好きな食べ物というイメージがあって、最近食べていない方も多いのではないでしょうか。たまには健康のためにいただきましょう。なお、たまに食べるくらいでは効能は期待できません。悪しからず。
味わう時間こそが何よりの癒しなのかもしれません。