6 限りとて 暁の契りの帖
「ないものは探す。ないから諦めるというのは私の性分ではありません」
「なくしものと心は違いま・・。あっ、香澄さんは何とかするために私のもとへ来てくれたのですね」
違っ! それは壮大な勘違い。そのような重過ぎる責任は、私に負えない。大切なことを小学生に頼る大人などいないから、少し大袈裟に言っただけだろう。違う、違う、今の常葉さんは溺れる者は藁をもつかむ心境だ。そこまで頼られるのは重いけれど、できることであれば叶えてあげたい。
「いえ、そういうわけではありませんが・・。そうだ。最後に会った場所とか、想い出の場所とか近くにありますか?」
「『いかまほしきは 命なりけり』。命ある限り、まだ何かができるはずということですね。それならば、祠へ参りましょう」
指差した先には石畳の小径が続く。こういう和風の庭園に憧れる。
庭園は静寂に包まれ、空気が澄み渡っている。よく手入れされた木々は露をまとい、築山はなだらかに連なり、苔生した石が月の残光を受けて淡く光る。砂利を踏んで誰かを起こさないように石畳の上を歩いているのだが、かすかな足音が立つ。歩を進めるごとに、眠っていた庭が目覚めていくようだ。
ふいに風が頬を撫でた。その瞬間、どこか懐かしく、胸の奥に染み入るような香りが漂って来た。白檀の穏やかな甘さに、沈香の深みが重なり、その奥にほんのりと、乾いた落ち葉のような渋みが潜んでいる。それは、夏の名残を包みながら、秋の静けさへと誘う香りだった。
縁側にいた時には気づかなかった。しかし、目指す祠への道すがら、常葉の袖からこぼれた香りが、まるで庭の空気と溶け合い、季節そのものになっていた。香りは語らず、ただそこに在る。常葉だけが纏う、秋の記憶のような香りだった。
「常葉さんの香り、いい香りですね」
「秋風に少しばかり染み入りましたかしら? 褒めてもらえるなら、焚き染めた甲斐があります。この香りは庭の落ち葉に似せて調えてみたのです。けれど、香りは誰かのために残すもの。私のためではありません」
「落ち葉の香り? 納得します。秋が話しかけて来るような感じがしていました。常葉さんの香り、ずっと覚えていたいです」
「ありがとう」
私の為に香を焚いてくれた。そのような傲慢なことは言わない。でも、今この瞬間は、私が常葉さんの香りを独り占めしている。
2、3分歩いた頃だろうか。これほど庭が広い御殿に住んでいるのだから、貴族の女君なのだろう。
「あの祠は、幾度も2人で行き、彼が最後に私の名を呼んだ場所です」
竹垣の向こうに小さな古びた祠が佇んでいるのが見えた。長い時の重みを堪えていたかのように苔の緑が深いが、ところどころに淡く咲く愛らしい菫がある。
「あれは菫ですか? 初めて見ました」
「あれは夜香菫。夜の香りの菫と書きます。秋の夜に月明りに照らされると香りを放つ菫と言われています。祠の近くのみに咲き、願いを秘めた者の足元に現れるとも聞きました。私も見るのは初めてです」
夜香菫という名前だけなら、私が知らない可能性の方が高いけれど、祠の近くとか、願いを秘めた者とかという条件だと、現実には存在しない菫かもしれない。常葉さんも、このような時間帯に祠に来ないから初めて見たのだろう。
月明りしかなくとも、そこだけが不思議と明るく、まるで夜の闇が祠を避けているかのようだ。鳥居の下に立ち、一礼してから静かに石段を登る。鳥居を一歩くぐると、俗世から神域へと切り替わり、心が引き締まる感覚になる。石段を登ると、木々のざわめきが遠のいて精神的にも高みに登る気分になる。庭園のすべてが息を潜め、祠にいる私たちを見守っているようだ。
石段の頂まで登ると、常葉は再び言った。
「ここは彼が最後に私の名を呼んだ場所です」
祠の前には木箱と同じ大きさの四角い石があり。小柄のような形で彫られていた。
「ここ、小柄を置くようにできていませんか?」
「本当ですね。以前はなかったはずなのですが・・」
「試しに置いてみましょうか?」
「はい」
常葉は、木箱から小柄を出して静かに置いた。すると、祠の扉の鍵がことりと音を立てて回り、重い軋みを伴いながら開いた。内部は蒼白の光に満ち、中央には小さな木箱、左には古びた巻物、右には何かがある。
「これは彼が愛用していた柳筥です。なぜ祠の中に?」
「柳筥?」
「筆や硯や短冊を持ち歩くために柳で編んだ箱です。硯箱と言えばわかりますか?」
「はい」
そう言えば、倭ちゃんが「硯箱は硯筥と呼ばれていた」と言っていた。つまり、「筥」とは「箱」だ。それの柳版だ。
何かわからないのは、現代風に言えば筆箱だった。
「ここに彼が? ここまで来たなら、顔を見せてくれれば良かったのに・・」
それはそうだ。ここは常葉さんの庭の中にある祠だ。
「柳筥が彼のでしたら、この巻物も、木箱も彼のではありませんか?」
「そうですね」
わからないことを考えても埒が明かない。彼のものに触れれば気が紛れるだろうし、小柄だけ返させた意味もわかるだろう。
「この巻物には、旅の様子が描かれています。これは狸? それとも狐? 絵が不得手なのに絵を描くとは・・。私を笑わせるつもりかしら。細かい文字は暗くてよく見えませんから、明るくなってから読み直します」
「この木箱は常葉さんが持っているのと同じですね」
「木箱は1つしか存在しません。あれ? 私が持って来た木箱がありません」
「もしかすると、ここまで導いて来てくれて、元の場所に戻ったのかもしれませんね」
「そうかもしれません。蒼を帯びた金具がついた漆黒の木箱。これは見間違いようがありませんから」
そう言いながら木箱を手に取って中を確認した。
「小柄が入っています。石の上に置いた小柄が!」
「不思議なことがあるものですね」
もちろん、石の上に置いた小柄は消えていた。
「ところで、歌は、どこかにありましたか?」
「そうでした。歌です。歌ですよ。歌と言えば、柳筥です!」
えっ? 巻物に気を逸らしたのは失敗だったか。そう言えば、柳筥は筆や硯や短冊を持ち歩くためのものと言っていたな。
短冊を取り出した。
「忘れじと 誓ひし君を 思ふ日も 途絶えぬままに 月は巡れり」
「『忘れない』と誓った君を想う日は、途切れることなく続き、月だけが巡っている」
「君を待つ 夢路の果てに 目覚めても 変わらぬ月の 影に寄り添ふ」
「君との再会を待つ。夢の中でさえ君を探し、目覚めても想いは続く。時が流れても月光の下で君を想い続けている」
「命果て 時の隔てを 越えしなら 同じ月見て 君と笑はむ」
「命が尽きても、時の隔たりを越えて再び会えるなら、同じ月を見ながら君と笑いたい」
常葉は3句を読む途中で涙をこらえきれなくなったようだが、香澄に説明する感じではなく、自分の心で確認するかのように言い換えた。3句とも月が登場するのは月夜の晩に旅立ったからか。そして・・・。
「あなたの想いがようやく届いた。でも、なぜ今頃なの? 私は・・命ある限り、あなたを待ち続けるつもりだった。でも、もしこれが届いていたなら、もう少しだけ強く生きられたかもしれない」
常葉は涙が落ち着いてから、柳筥から筆と短冊を取り出して、3枚続けて書き、心を込めて詠みあげた。
「君去りて 音なき庭に 立ち尽くす 露に濡れし 葉の色も変はらず」
「あなたが去った後、静まり返った場所で私は立ち尽くし、涙のような露に濡れても常葉は想い続けている」
「置き去りの 小柄ひとつに 託すもの 言の葉なきは 別れとぞ知る」
「小柄ひとつだけを残して去ったあなた。 言葉もなく、それが別れの印だと私は受け取りました」
「旅路へと 背を向けし 君知らずとも 常に葉は在り 風に耐えつつ」
「旅立つあなたが知らなくても、 常葉はいつもそこに在り、風に吹かれても耐えている」
相思相愛の2人が恋歌の贈答を直接できたら良かったのに・・。この祠が最後に名前を呼ばれた場所だと言っていたから、それ以前からこの祠の前で贈答していたのだろう。
「好き」とか「愛している」とかではなく、和歌の応酬か。雅だな。倭ちゃんなら喜びそうだな。今の日本で返歌を詠んでくれる男性なんていないだろうし・・。
「香澄さん、どうもありがとうございました。ようやく彼の歌が届き、私の歌を届けられました」
「どういたしまして」
私の存在をすっかりと忘れていたようだったけれど、何年振りかに愛する人と触れ合えたと思えば、むしろ忘れていてくれた方がいい。
「『源氏物語』の『限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり』ですね。生きていて良かったです」
「はい!」
「ただ、なぜ従者が小柄しか届けてくれなかったかのか気になります」
「そうですね。彼が歌を詠んだという事実から、どのように考えても届けて欲しいと解釈できますから、届けないのは主の意志に反した行動で理解できませんね。従者のみぞ知るとしか」
「はい。いつも主のことを第一に考えてくれる優しい従者だったのですが・・」
「いずれにせよ、これで夜に縁側で立ち続けなくてもよくなりましたね」
常葉は深く頷き、にこっと幸せそうに微笑んだ。
「私は自由になれました。香澄さんのおかげで、命の意味を取り戻せましたから」
「それは良かったです」
常葉が、祠の方を向いた。
「今まで、何年も保管してくれてありがとう」
その言葉に反応したように扉が閉まり始め、閉まりきると、ことりと音がして再び鍵がかかり、青白い光が消えた。
祠にあった木箱、巻物、柳筥を両手に抱えた常葉さんが、満面の笑みで私の方を見る。
「これは愛する彼と一緒に楽しみます」
「彼とですか?」
「はい、彼とです」
もういない彼と楽しむのか尋ねてしまったのは野暮だった。これから先、常葉さんの近くにはいつでも彼がいるのだ。
「さて、もう戻りますか?」
「いえ、私はもうしばらくここにいます。本当は香澄さんを門まで見送りたいのですが、空が白み始める瞬間を彼とここで過ごしたいのです。お世話になったのに我儘を言ってすみません」
「いいえ、常葉さんと彼の和歌を聞けて、心がふわっとしました」
「ありがとう」
「ところで、彼の名前を聞いてもいいですか?」
「はい、もちろんです。匡季と言います。『ただ』は正しきをただすの『匡』、匡正の『きょう』、『すえ』は季節の『季』。彼によれば、季節を越えて私を守ろうとする名前だそうです」
「匡」は、守るという意味もあるし、人名だと「人を導く力」や「誠実さ」も意味する。親が命名した時には常葉さんを知らなかったから、常葉さんを季節を越えて守ろうという意味はなかっただろうに。あれ? 許婚がある時代ならば、そういう意味があった可能性もあるのか。
「とこしえに愛する人を想い続ける常葉さんと、その常葉さんを季節を越えて守る匡季さん、お似合いです」
「ありがとうございます」
「では、私は帰ります」
「はい。どうもありがとうございました」
帰ると言って、いきなり、「しおり、しおり」はないだろう。夜に庭に登場した小学生というだけで不思議だけれど、突然消えるのは駄目だ。
10mほど歩き、曲がって見えなくなる前に手を振って最後の別れをしよう。そう思って振り返ると、2人いた。常葉さんと匡季さん? 2人が笑顔で手を振ってくれていた。それで「これは愛する彼と一緒に楽しみます」だったのか。
現実であれば、驚く。しかし、これは本の中での話だ。常葉さんは、縁側で見た時には既に亡くなっていたのだろう。愛する人を想い続け、成仏できないでいたということか。
私が手を振り返していると、青藍と常盤の光の玉となり、祠を名残り惜しむかのごとく蝶のように舞い、天高く飛び去って行った。
あの光は2人の想いそのものだったのかもしれない。もう祠に戻らなくてもいい。あの空の向こうで交わす歌が2人をいっそう結び続けるのだろう。ずっと、ずっとお幸せに。
「舞い上がる 青藍常磐の 光蝶 祠に残る 歌の余韻よ」
私が考えていないのに思い浮かんだ。常葉さんが詠んだのかな。
そうだ。祠に何か花を供えたい。周囲を見回すと、白い花があった。梅鉢草か。確か花言葉は「清らかな愛」だったか。私が去った後にも咲き続けて欲しいから、切らずに植える方がいい。近くの石で掘って祠の前に植え替えよう。
植え替え完了。
「この小さな花は、私の最初で最後の贈り物。いじらしいほどに、ただまっすぐに咲く梅鉢草さん、私の祈りに代えて、静かにここで咲き続けて下さい」
2人が飛び去った方向を見上げた。そこには何もない。ただ、澄んだ空と遠くで鳴く鳥の声。常葉さんと匡季さんが笑っていたから、私も笑ってここを離れよう。
苔生した石畳を歩き始める。そうか、暗い時には気付かなかったけれど、石畳の間には褐色の苔が混じっている。雨に濡れ、陽に焼け、風に削られても何度も芽吹いて覆って来たのだろう。苔は風流だとして育てる人もいるが、滑りやすいから普通は定期的に除去するものだ。もし、常葉さんが風流を愛するとしても、それなら苔を整えるはずだ。苔の厚みと色の層が、常葉さんの死から刻まれた歳月を証明する。
風が吹き抜ける。苔の上に落ちた1枚の葉が、くるりと転がった。香澄はそれを見届けると、再び歩き出した。かつて2人が何度も歩いたであろう道を。
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