5 限りとて 月影の囁きの帖
『こひのいとま』を机に一度置いて深呼吸する。和歌が書かれたページをめくると異世界へ行き、「しおり、しおり」と言うと元の世界へ戻って来られる。もしかすると「しおり、しおり」は、たまたま私が二度言ってしまっただけで、「しおり」の一語でも良いかもしれない。いずれにせよ、戻って来られるとわかれば安心だ。何かあったら「しおり、しおり」だな。
あぁっ! 安心ではないよ。夕食で呼ばれたらどうなのだろう? 呼んでも返事がなくて、部屋に来たら、本に向かって意識がなくなっている私が座っていたらホラーだ。お母さんがムンクの叫びのような顔になってしまうかもしれない。呼んだらどうなのかという実験をするにしても、鼻で笑われて実験に付き合ってくれないだろうから、ここは割り切って、何かあったらあったでいいのではないか。良くないけれど・・。
『源氏物語』「桐壺の帖」より
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
しおりのページだ。このページをめくる。
白銀に光る夜明け前の月影が、松の梢を淡く照らしている。1度目と同様に夜露に濡れた木の香りが漂っている。2度目の余裕か、木の香りは松の香りだということもわかる。
そして、薄衣をまとった女性が、障子の影から庭の池の水面に揺れる月を見ていたんだったな。
「あなたは誰ですか?」
うぁ、女性は水面を見ていなかった。なぜ本なのに1度目と2度目が違うのやら。今は、それはどうでもいい。夜に庭に入っているのだ。大声で誰かを呼ばれたら困る。
「夏灯香澄と申します。ちょっと迷い込んでしまいまして・・。驚かせてしまってすみません」
「迷い込んで・・ですか。驚きましたが、ちょうど誰かと話したいと思っていたところでした。誰かを起こすのは悪いですから、ご訪問に感謝します。私は常葉です」
「どういたしまして。常葉さん」
迷い込んだは無理があった。でも、それ以外、言いようがない。駄目だよ。人の庭に転移させたら。まあ、庭の外なら、この人と出会えないから話の進行上、仕方なかったのかもしれないけれど。
きっと私が小学生だから大目にみてくれたのだろう。もしも私が成人男性だったら・・。その先は想像したくない。
桐壺ではなく、常葉か。『源氏物語』の桐壺とは違うのか。常葉というのは常緑樹のイメージだろうか。一年中、常に青々として、元気でいて欲しいという願いで命名されたのだろうか。古典の世界だと、変わらぬ心を意味しているかもしれない。
「見せたいものがあります。そこで待っていて下さい」
「はい」
話相手にはしても、さすがに夜中に庭に出没した私を部屋へ通さないか。
改めて、周囲を見ると、池には苔生した石橋がかかっており、その先には雑木林が見える。遠くからは牡鹿だろうか。時折、「ボーッ」という鳴き声が低く響く。
女性は、蒼を帯びた金具が施された漆黒の木箱を持って戻って来た。
「お待たせしました。これを見て下さい」
「はい」
女性が蓋を開くと、中には朧銀の小柄が一振り収められていた。松葉を模した彫刻が緻密に刻まれ、刃の先端がほのかに光を帯びている。
なお、小柄と言っても、持ち手の柄だけでなく、刃が付いている。それなら小刀と言っても良さそうだが、雅な装飾を目の前にすれば、小刀ではなく、小柄という単語が自然に出て来る。
初対面の私に見せるくらいだから、この小柄には何かあるのだろう。
「この小柄には、どういう思い入れがあるのですか?」
「これは愛しい人との契り。遠い国へと旅立つ夜に命を繋ぐ証として託したものでした」
常葉は囁くような声で話した。金の刻印を宿した小柄からは、乾いた温もりが伝わってくる。木箱の蓋の木目に常葉がぽたりと光る一滴を落とした。
愛する人に渡したものがここにある? 常葉さんは渡そうとして渡せなかったのではない。「託した」と言った。
「どうして、ここにあるのですか?」
私を見つめる常葉さんの瞳には、深い哀惜と覚悟が混じっているようだ。話の流れとして聞くべきでも、人には話したくないこともある。聞いてはいけなかったかもしれない。
「すみません。私が立ち入る話でなければ聞かなかったことにして下さい」
常葉は、横に首を振った。やがてゆっくりと語り始める。
「もうすぐ、私の命は尽きます。限りあるものとして、別れは定められています。でも、もう一度だけ、せめてもう一度だけ気持ちを伝えたかった。それで命の限りを感じながら、月の光をただひとりの友として、愛しい人の面影を縁側にて待ちわびていたのです」
「限りとて 別るる道の 悲しきに・・」
ページをめくる前に書かれてあった和歌の上の句をつぶやくと、切なさと同時に温かなものがほとばしるのを感じた。まだ20歳前後だろうし、具合が悪そうには見えないが、病気というものはたいてい目に見えないものだ。
「香澄さん、今の私を詠んでいるかのような句ですね。下の句も詠んで下さい」
感慨に浸っていたら現実に引き戻された。
「これは『源氏物語』の「桐壺」に登場する和歌です」
「そうでしたか。下の句を教えて下さい」
下の句・・。私は和歌に興味がないから、ページをめくる前に読んだけれど暗記はしていない。倭ちゃんなら暗記しているのだろうな。それに、倭ちゃんなら即興で詠めるのだろうな。
「ちょっと待って下さい。思い出しますから」
「はい」
覚えていないのに思い出せるはずがない。常葉さん、ごめんなさい!
「しおり、しおり!」
自分の部屋に戻って来た。「しおり」と1回だけ言っても戻って来られるかという実験をする余裕はなかった。戻れなかったら、「しおりとは、本のしおりのことですか?」とでも尋ねられてしまうだろう。
しおりが挟まれたページが開かれている。
『源氏物語』「桐壺の帖」より
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
よし、3回繰り返せば忘れない。明日まで覚えている必要はない。ほんのしばらく覚えていればいいだけだ。少し懸念事項があるけれど、それは今考えても仕方ない。
ページをめくる。
白銀に光る夜明け前の月影が、松の梢を淡く照らしている。1・2度目と同様に夜露に濡れた木の香りが漂っている。1度目は常葉さんが池の月を見ていて、2度目は「あなたは誰ですか?」と尋ねられた。
「香澄さんですね?」
「はい」
驚いた。名前を覚えているのか。
「初対面で、お顔も知らないし、約束もしていないのに、今晩、香澄さんという方が見える予感がしていました。木箱も用意してあります」
えっ? 微妙に記憶が残っているのか。懸念事項とは、まさにこれだ。しおりが前のページにあるのだから、ここは未読ということになり、振り出しに戻るのだ。しかし、ページをめくった痕跡が、この世界に残っているようだ。
「私の名前を知っているのですね。私も常葉さんの名前を知っていますよ」
「それは嬉しいです。遠い昔から縁があるようですね」
ないない。今朝、犬君さんから『こひのいとま』を借りて、読み始めたばかりだ。でも、否定するのは悪い。真実を伝えるのが最善とは限らない。
「これを見て下さい」
「はい」
松葉を模した彫刻が緻密に刻まれた朧銀の小柄だ。松葉は2つに分かれているから分離するというイメージを持つ人もいるが、その二葉が一対で落ちることから、離れない絆の象徴とされている。そのため、旅立つ彼に託す小柄の彫刻として相応しいと言える。
新人俳優が台詞を忘れたために、ベテラン俳優に同じ場面を撮り直しさせているようで悪いし、覚えた和歌を忘れる前に伝えたいから、私が会話を進行させるか。
「これは、愛しい人との契りで、遠い国へ旅立つ夜に命を繋ぐ証として託したのですよね」
「はい、まさにその通りです。香澄さんは、すべてを見透かしているようですね」
「いえ、そう言われるほどでは・・」
「もうすぐ、私の命は尽きます。限りあるものとして、別れは定められています。でも、もう一度だけ、せめてもう一度だけ気持ちを伝えたかった。それで命の限りを感じながら、月の光をただひとりの友として、愛しい人の面影を縁側にて待ちわびていたのです。今日だけは香澄さんを待っていたのですけれどね。ふふっ」
よし、和歌の出番が来た!
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」
無事に言い終えると、「これで今日の私の仕事は終了!」というくらい安堵した。
「今の私を詠んでいるかのような和歌ですね。今生の別れだといって、あなたと別れるこの道があまりにも悲しいので、私が本当に望むのは、死ではなく命とは。死が避けられないのは仕方ない。別れる道は確かに悲しい。でも、それでも共にいたいから生きていたいと」
暗記するだけで、「いかまほしき」の意味を調べて来なかったから、意味を尋ねられたらどうしようかと思ったが、常葉さんが解釈してくれた。しかも、1回目の解釈だと、別れが悲しいのに生きていたい心が理解できなかったが、2回目の解釈でわかった。「命に限りはあるし、別れという現実もあるけれど、一緒にいたいから生きていたい」という意味か。
「これは『源氏物語』の「桐壺」に登場する和歌です」
「とても良い和歌です。心に深く留め置きます」
もう一度だけ気持ちを伝えたかったか。
「愛する人には想いが通じているとわかっていても、伝えたいものですね」
「はい、一般的にはそうですけれど、私の場合には通じていません。香澄さんが言うように通じていれば良かったのですが・・」
「どうして通じていないと思うのですか?」
「この木箱は従者が届けてくれました。あの人であれば、歌を必ず添えるはず。添えないことが意味するのは・・」
他に好きな女性ができて、和歌を書くのも面倒という意味か。「返したということは・・」と言おうとしたが、思いとどまった。「想っていても何かがあって」と不幸を暗示するのは悪いし、それができないと「縁を切りたい」とか「もう忘れろ」とか変な解釈をされそうだ。
お姉ちゃんの友達でも、彼氏と別れる時に、想い出のものをすべて送り返す人と、すべて処分する人が多いと聞いた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないが、モノはモノだからと割り切れる人は少ないらしい。男性だと残しておく人が多いらしい。でも、常葉さんの彼は従者を通じて返させた。女性的な方程式で解を導けば、振られたとなるのだろう。
「私の願いは、彼のもとへ届かぬまま散ること。香澄さんには見届けてほしい。初対面なのにおかしいかもしれませんが・・。ふふっ」
想いが咲いて見られぬまま散るのを見届けてもらいたい? 違う。「もう一度だけ気持ちを伝えたかった」とか「縁側にて待ちわびていた」とか言ったではないか。本心では気持ちを彼のもとへ届けてから散りたいのに、報われない恋を運命だと受け入れて、美しく終わらせると割り切りたいだけだ。
「わかりました。何とかしましょう!」
「何とかする? 見届けてくれるだけで十分です」
その瞬間、雑木林の奥から風がざわめき、松の梢がざわりと揺れ、池の水面に反射する月明りが一層鮮やかになった。心にも風が通ったみたいだよ。
夏灯さんが和歌を覚えていなかったせいで、ふりだしに戻り、1話で完結しませんでした。
読者の皆様は、常葉さんから下の句を尋ねられた時に覚えていましたよね?