4 霧の海
犬君の背景です。
なぜ犬君が登場したのか?
なぜ夏灯香澄が選ばれたのか?
「霧の海 波にまぎるる 君が声 言の葉結び われ待ちにけり」
使いの者が一首の和歌を携えて訪れた。手紙ではなく、歌? 犬君は眉をひそめる。誰かのいたずらか、風流好きの貴族か。だが、言葉の端々にただならぬ気配がある。そして、「われ待ちにけり」の静かな力強さ。
差出人名はなく、使いの者も誰からと教えてくれなかった。犬君は繰り返し歌を口ずさむ。そのたびに、胸の奥がざわめく。まさか、これは和歌三神の一柱である衣通姫尊の御歌? 名を記さずとも歌そのものが名に代わるということか。
待ちにけりとは、先に来て待っているという意味ではないか。冗談はやめて欲しい。人間である私が、神を待たせるなどできない。玉津島へ急がねば。
紀伊国の和歌浦に淡い霧が静かに立ち込める黄昏時。空は青みを残しながらも、遠く西の空から金色の光が滲み始める。その光が霧を透かし、波面に柔らかな輝きを落とすと、金色の波が、神の息吹に揺れるように静かに打ち寄せる。
その時、霧の向こうに、ひときわ鮮やかな光が差し込んだ。波間に立つ御姿は衣通姫であった。その衣は夕陽の金を編み込んだように輝き、髪は風に揺れ、肌は玉のように輝き、まるで万葉の歌から抜け出したかのように、気高く、美しかった。
「犬君よ。霧の海辺に、一人立ちて我を待ちし心、風よりも澄みて美し。汝が足音、波のさざめきに溶け、我が魂に届きたり。よくぞ来たり。今宵、汝と共に、言の葉を交わさん」
衣通姫と会うために来たとは言え、いざ目前にすると緊張する。
「はい、待っていました。お会いできて嬉しいです。ただ、言の葉と表現するような立派なことは言えませんが、お話したいです」
たどたどしい言葉に微笑まれた。
「言の葉は、飾らずとも美し。汝の声、我が耳に真珠のごとく響く」
『源氏物語』の中で言い回しは慣れているはずなのに、衣通姫の優雅と言うか飾り立てられた言葉に頭が追い付かない。神は、皆このように話すのだろうか。それとも衣通姫が和歌の神だからだろうか。
「犬君よ。この国の人々は、もはや和歌を口ずさまぬ。心を詠む術を忘れ、言葉はただの記号となり果てた。歌に命を宿す者として悲しむべきことぞ。和歌を人々の心に呼び戻さねばならぬ」
その声は、絹のように柔らかくも、確かな響きを持っていた。だが、袖を揃えて一礼するも、どこか反発の色を隠しきれない。
「私は、紫式部さまの筆により、上方に仕える女童として描かれました。今も教科書に載り、文学の一端として生きております。誠に恐れながら、和歌の普及など、私の役目ではございません」
衣通姫は、静かに微笑みながら首を振った。
「教科書に載るだけで、汝自身は何をして来たのか? 何もせぬ者に価値はない。実際に授業で学ばれるだけで、汝は何の貢献もせず、日々の暮らしに息づいてないではないか。見なさい」
目の前には、どこかの町が映し出され、拡大するとスマートフォンを手にした若者たちが短い言葉どころか、言葉を使わずにメッセージを送受信している姿が見えた。
「歌が詠まれないではなく、日本語が使われていないのですね」
これでは『源氏物語』も読まれなくなるだろう。
「世は既に言の葉を忘れたり。古より続きし、倭の言霊。今や掌の器にて異国の符号を交わされるのみ。言語そのものを捨てるは、魂の根を断つに等しきこと。我らが手を打つは、あまりにも遅かりき。もっと早く、言の葉の火を灯すべきであった。されど、今こそ犬君、汝を遣わさん。言霊の司として、日本語の美を、歌の心を、再び人々の胸に宿らせよ」
「もし、私の言葉が、誰かの心に届くのでしたら、紫式部さまも、きっとお許し下さるでしょう。
でも、この姿では耳を傾けてくれるでしょうか。私は、ずっと子供のままでした。雀の子を逃がしたあの日、ただ可哀想で・・。逃がしたら褒められると思ったのに、叱られて、泣いて、それでも誰も私の気持ちを聞いてはくれませんでした。それから、鬼払いをする前に壊れていたところを直そうとしたら、もっと壊れてしまい、『心なし』と言われたり・・。何も変わらず、何も語らず、ただ紫の上さまのお傍にいて、気付けば1000有余年が過ぎていました。成長せず、幼きまま閉じ込められて。今、衣通姫君の言葉で、私は初めて私になれた気がしますが、お役目を果たせるかどうか不安です」
『源氏物語』で犬君は5帖「若紫」と7帖「紅葉賀」の2回しか登場せず、大人になった描写はない。それゆえ、書かれた時から1000年以上子供の姿なのだ。
衣通姫は、温かく微笑み、いつのまにか持っていた「時の巻物」を広げる。
「ならば、汝に『時の巻物』を授けよう。汝の心は既に成熟している。その姿も使命に相応しくあれ」
犬君が身にまとっているのは、淡い紅梅色の衵に、裾を短く仕立てた切り袴。袴の紐は少し緩くて、遊んでいる最中にずり落ちそうになるのを手で押さえていた。その上には絹の光沢が揺れる汗衫を羽織っているけれど、袖口が少し汚れていた。その姿は春風に舞う花びらのようで愛らしい。
その犬君の身体を時の巻物が風に舞いながら包むと、まばゆく光り、身体が成長した。光りがなくなった時には幼かった面影は存在しない。山吹色の御召に、深紫の帯をきりりと締め、鈴蘭の簪が揺れる髪は艶やかに結い上げられ、帯にある犬の足跡型の根付が、幼き日の名残りのようだ。もちろん、根付は江戸時代以降でも、成人男性の実用的装飾品という位置づけであり、平安時代には存在していなかった。衣通姫の心ばかりの餞だ。かつて雀を追いかけていた少女とは思えぬほど、凛とした佇まいとなった。まさに優雅で知性を湛えた大人の姿である。
犬君は、髪をサラっとかき上げて、授かった大人の姿に胸を高鳴らせた。袖を翻し、目を輝かせながら、現代の日本へと駆け出そうとする。
「早速行って来ます。和歌を広めに!」
衣通姫は静かに手を上げて制した。
「待たれよ、犬君。行き先も定めずに、ただ駆けるは風のごとし。和歌は、風ではなく、心に根を張るもの。汝が種を蒔くべき土を選ばねばならぬ」
犬君は照れくさそうに頷く。
「では、どちらへ?」
衣通姫は2人の少女の姿を映し出す。
「ひとりは梓川倭。小学生ながら和歌を愛する少女。もうひとりは夏灯香澄。古典文学は好きだが、和歌はわからないと苦手意識を持っている少女。和歌を既に愛する者にさらに深く根付かせるか、和歌を遠ざける者に初めての花を咲かせるか。どちらでも良い。汝の心が導くままに選べ」
犬君は映し出された2人を見つめる。倭の瞳には和歌の光が宿っているが、香澄の瞳にはない。しかし、空白があるからこそ、そこに歌が宿る余地がある。
「私は香澄さんにします。和歌が苦手な人に好きになってもらえたら、それはとても素敵なことだと思いますから」
衣通姫は微笑み、頷いた。
「よくぞ選びたり。ならば、恋の和歌の世界に入るための書『こひのいとま』を携え、香澄の元へ赴け。読む者の心が開かれれば、歌の世界がその者を包み込む。そして、和歌はその者の魂に根付くであろう。そして、それが歌の未来を開く鍵となるであろう」
夏灯香澄は、毎週土曜の朝、雨の時を除いて地元の図書館へ来る。街頭で呼び止めて本を渡すよりも、図書館で貸すという名目で渡した方が抵抗なく、手にしてもらえるだろう。そう思い、犬君は、誰よりも早く図書館へ行き、閲覧席の一角に静かに座っていた。その姿は誰にも見えないのだが・・。
犬君は、神ではないから、香澄が今どこで何をしているのかはわからない。
「夏灯香澄さん、あなたが来ると信じています」
そう言葉にした。そして、声には出さずに歌を詠む。
「たまゆらに 君を待ちつつ 風を聞く こひのいとまの 扉ひらかん」
香澄の心に届くように・・。
図書館の自動扉が静かに開いた。あの子が夏灯香澄だ。本を借りる時に司書になり、手続きをする。それは勉強した。その手続きまで、香澄の様子を伺う。
返却する本をカウンター脇の箱へ入れた後、端末へ一直線で向かう。機械から出て来た紙を持って、本棚へ向かう。
戻って来た。ここから衣通姫の力で私と香澄だけの世界になる。周囲の人は見えていても、香澄の後ろには並ばない。他の人が本を借りる手続きは、現実の世界で進行する。
「お願いします」
さあ、紫式部さまの言の葉に頼らず、自分の言の葉で、衣通姫から託された使命を全うするぞ。
無事に『こひのいとま』を手渡せた。さて、帰るか。
「犬君よ、よくぞ果たした」
どこかで衣通姫が見てくれているとは思ったが、声が聞こえるとは驚いた。
「汝が渡したるは、ただの書にあらず。言霊の灯を託すものなり。汝の歩みは、幼き日の涙を越え、今や言の葉を運ぶ者となりぬ。我は汝を誇りに思う」
「ありがとうございます、衣通姫君。ようやく自分の言の葉が届いた気がします」
「されど、歌の根は、1本では森とならぬ。汝の歩みは、まだ始まりに過ぎぬ。次なる者へ、また一冊を託すのだ。歌を知らぬ者、歌を忘れた者、歌を拒む者、その者らの心に言の葉の種を蒔け」
「次の人にも届けます。歌が、また人の心に根を張るまで、歩き続けます」
犬君が図書館を出ると、日の光が髪を柔らかく照らした。
図書館の中庭に雀がいる。かつて、私は籠の中の雀を自由にしたら叱られ、泣きながら雀の行方を探した。今、雀を放つことで神から褒められた。振り返れば、私も籠の中の雀だったのかもしれない。私もようやく羽ばたけるんだ。自分の翼で、自分の言の葉で空を飛べるんだ。
山吹色の和服で、帯に犬の足跡型の根付を付けた大人の犬君が歩き始めた。
夏灯香澄さんが聞こえた和歌は、和歌三神の一柱である衣通姫尊の仕業だったようです。
犬君の名札を漢字にするか平仮名にするかというエピソードは、2話で既述のとおりのため、省略しました。
『源氏物語』にて犬君は批判ばかりされているようですが、実は紫の上の方こそ、いつまでも子供っぽいとか、大人になりなさいとか言われている描写があります。叱られた印象が強過ぎて、犬君の耳には届いていなかったのかもしれません。