20 生ひ立たむ 門出の帖
犬君さんが膳を下げ、新しいお茶を出してくれた。同じお茶だが、色も香りも濃い。ここまで違うと入れ間違えの可能性はない。
「千紗、食前と食後で同じお茶を濃さを変えて出すんだね」
「団茶は薬湯として飲まれて、食前や食中は体に負担をかけないように薄めで、食後は消化促進で濃いめで飲まれるんだよ」
「団茶というのは、どういうお茶? 同じ植物?」
「うん、同じお茶。大陸から伝わった固形のお茶で、蒸して、臼で搗いて、米膏で練って、餅状に固めて、乾燥させて作って、削って煮出すんだよ」
「蒸して、揉んで、乾燥させるより手間暇がかかっているんだね」
「うん」
お茶は緑茶(煎茶)、抹茶、ほうじ茶、紅茶は同じ植物で、製法が違う。団茶も製法の違いか。
月影尼は、香澄が大陸から伝来した団茶を知らないのは何も思わなかった。だが、「蒸して、揉んで、乾燥させる」? 自分が知らない製法のお茶の存在に驚いた。
「普段は、どのようなお茶を飲んでいるのじゃ?」
「普通のお茶です」
「普通とはどういうお茶じゃ?」
私は馬鹿ではない。ここに紅茶や珈琲が存在しないことは予想できる。失言はしないぞ。
「緑茶が多いですが、その時の気分でほうじ茶を飲むこともあります」
よし、完璧な返答だ。
「緑茶とほうじ茶? どのようなお茶ですか?」
尼さんではなく、尚之さんから尋ねられた。千紗を見ると楽しそうだ。これは失敗だ。指摘されなくてもわかる。
「緑茶は深蒸しして、揉んで、乾燥させたお茶です。水出しすると美しい緑色で、夏にいいです。ほうじ茶は焙煎したお茶で、香り高いお茶で、体が温まります」
「蒸して、揉んで、乾燥? それに茶葉を炒るのですか? 穀物、胡麻、栗のようにですか?」
琴江さんから驚いたように尋ねられた。
「はい。お茶屋さんの前を通ると、いい香りがして買いたくなるのです」
「信濃の国で飲まれているのじゃな」
「はい」
「信濃ではなく、日本全国です」と言いたいのは我慢した。
これ以上畳みかけられるとほころびが出そうだ。皆の関心は私よりも緋奈ちゃんにある。話題を切り替えるには十分だ。縁側で「決めた」と言っていたから、結論を聞いても構わないはずだ。
「お茶よりも緋奈ちゃんの話を・・」
皆の視線が緋奈ちゃんに向かった。
「尚之さまのところで暮らすことに決めたよ」
誰かが尋ねる前に答えた。
「名前はどうするのじゃ?」
「住むところが変わるし、お母さんが望んだようにしたいから変える」
「お母さんは私のことを思って変えようと思っていたらしいから、私のことを思ってのことなら変えなくてもいいわよ」
「お母さんの『真』が入っているから・・。私はお母さんがいなくてもお母さんの子だもの。それに、香澄さんの『澄』も入っているよね」
えっ・・。私のことは考えなくていい。
「良い助言をしてくれましたね」
違う。今の流れだと、私が「お母さんの名前と私の名前の一文字ずつ入っているよ」とアドバイスしたみたいだ。
「いえ、良い助言と言えるようなことは1つも言っていません」
「そうだよ。香澄さんに尋ねても、どうしたらいいかを教えてくれなかったの」
「えっ・・」
教えなかったのではなく、大人3人と同じ意見で緋奈ちゃんを追い詰めてしまうから教えられなかったのだ。尼さん、琴江さん、尚之さんに一気に引かれた。天国から地獄に落とされたようだ。気功をしている夏渚ちゃんではなくても、空気が変わったのはわかる。
「ただ、他人の意見を聞くことと、自分の意見を持つことが大切だと教えてくれたんだ。それで、私が自分で考えた」
「自灯明・法灯明ですね」
「それ、どういう意味?」
尚之さんが発した言葉を緋奈ちゃんが尋ねた。
「尼さまの前で説明するのは、おこがましいけれど、仏教の言葉なんだよ。自灯明とは、他人に盲従せずに、自分の智慧を灯火として生きよという意味で、法灯明とは、独断ではなく、法、つまり、真理を基準にせよという意味なんだよ。そうですよね」
「そのとおりです。尚之殿に仏教用語を説明されたら、我もしておくべきですね。緋奈には難しいだろうが、『如実知見』という言葉がある。意味は尚之殿と同じじゃ。物事をありのままに見て、他人の言葉に振り回されず、自分の智慧で判断すること。これも誰かの言葉に振り回されないようにと言っても、言葉を聞くなという意味ではない。緋奈に良い助言をしてくれたことを感謝する」
「どういたしまして」
「さて、緋奈の門出じゃ。1つ和歌を送ろう」
ようやく来る。『源氏物語』の「若紫」で若き日の紫の上である若紫を詠んだ和歌だ。3回繰り返したから覚えている。
覚えている? 覚えているよね? 忘れた。ここへ来たばかりの時には記憶していたけれど、さすがに時間が経ち過ぎた。言い訳ではない。短時間で記憶したものは短時間で忘れる。試験勉強の一夜漬けの経験者ならば誰でも知っている。
しかしながら、私は一夜漬けをしたことがない。中学に入学したら中間テストや期末テストがあると聞いたものの、小学校のテストは、先生の気分で予告なしに実施されるからだ。
話がそれたけれど、詠んでくれるから、私が覚えている必要はない。忘れても何ら問題ない。
「うん。楽しみ」
緋奈ちゃんは尼さんの和歌が楽しみなのか。私は祖母が和歌を詠んでくれると言われても楽しみだと思わない。やはり文化が違うのだろう。
尼さんは軽く咳払いをした。声優が地声と違う声を出す時に喉の調子を切り替えるようなものか。
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草に おくる露の 消えぬことなし」
今まで話していた声と違って、改まった声だった。短冊に書いた後に詠むのではなく、詠んだ後に短冊に書いている。
いや、違う。それではない。何か私が記憶した和歌とは微妙に違うような気がする。
「心に深く染み入る和歌です。若き者を送り出すの相応しいです」
「優しい言葉選びで、思いの深さが伝わって来ました。これほど門出に合う和歌はありません」
尚之さんと琴江さんが褒めている。何か違うのに。でも、源氏物語を知らない人には違うも何もない。
「尼さま、ありがとう」
私が思案する間に尼さんが自分が書いた短冊を緋奈ちゃんに渡した。
あっ、思い出した。似たような和歌がヒントになって記憶の回路がつながった。
「千紗、ここは『生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき』と詠むべきだよね?」
千紗だけに聞こえる声で尋ねた。しかし、千紗は何も言わずにニコリと微笑んだ。折角思い出したのだから、「そうだね」でも「うん」でもいいから何か言って欲しい。
「まさにそれが我が心のうち。良い歌じゃ。よくぞ詠んでくれた」
いや、私は千紗だけに聞こえる声で言ったはず・・。無理か。隣の千紗に話しても、全員に聞こえてしまう広さの部屋だ。
「い、いいえ、これは『源氏物語』の一首で、私が詠んだわけでは・・」
「まあ、謙遜がお上手。それほどの歌を詠んでおいて、ご自分の作ではないなどと」
琴江さんが微笑んで私の言葉を遮った。
「確かに香澄さまの歌は見事でした。若草を送り出す情が より深く響きます」
尚之さんは感心したように頷く。「香澄さま」はやめて欲しい。
「さすが香澄さん、すごい!」
千紗なら、私が詠んだわけではないと証言してくれる。そう思って、千紗を見る。
「やはり香澄だね」
「うん、香澄さん、すごい」
違う。千紗は私が思い出したことを褒めてくれたのか、私が詠んだことにしたいのか知らないけれど、曖昧な言葉では困るのに、証言してくれるつもりがないことがわかった。
千紗が中途半端な言葉を言うから、また緋奈ちゃんから「すごい」と言われてしまった。
「香澄さまの和歌の後に詠むのは恐れ多いが、一首詠もう」
私の和歌ではなく、『源氏物語』の和歌だ。
「迎え入れ 若き日を抱きて 家の戸を 開けば春風 笑みぞ満つる」
これから来る日々を歓迎するという意味か。難しい単語を使っていないから、これくらいならわかる。字余りは許容限度だろう。
「何と心のこもった歌でしょう」
琴江さんが声を弾ませる。
「お家に行っても、毎日笑って暮らせるように頑張る」
緋奈ちゃんが嬉しそうに言った。
「私にも一首詠んで下さいな」
琴江さんが尚之さんに向かって悪戯っぽく頼んだ。
「その前に、真澄の返歌を聞きたい。香澄さまのような上手さは求めていない。心のままに詠んで欲しい」
和歌が詠めない私に上手さと言われても。
緋奈ちゃんは、俯いて考えている。まだ幼い緋奈ちゃんに和歌を詠むなど無理だ。いくら心のままに詠んでと言われても、和歌がすらすらと出て来るはずがない。
しばらくしてから緋奈ちゃんが口を開いた。
「3つ、思いついたの。どれがいいか迷って」
「3つも?」
思わず、尋ねてしまった。詠めなくてうつむいていたのではなかったのか。
「尼さまから、いつも3つ考えてその中から選べと教えられているの」
どのような教育だ。現代日本と教育方法が違うのは予想できるけれど。
「3つとも聞かせてくれ」
尚之さんが緋奈ちゃんに期待の眼差しを向けて言った。
「母の名を 胸に抱きつつ 真澄とて 朝ごとに咲く 小さき笑みを」
改名の意を含みつつ、尚之さんの「笑み」に対して返したのか。
「真澄とて 母の色香を 携えつつ 軒に差す春の 風に笑まん」
今度も解明の意を含みつつ、「春風」に対して返している。亡き母の面影を持ち続けるところが何ともいじらしい。
「行く先に 不安あれども 手を取りて 日毎に咲かす 笑みの花を」
不安と前向きさに、「笑み」を含んだのか。
「どれも真澄の心情がしみじみと伝わって来る。良い和歌だ」
「尚之さま、ありがとう。でも、もう1つ思いついた」
「詠んでくれ」
「ここを去り 母の声抱き 真澄とて 朝夕重ね 学び結ばん」
そうか。ここでは教育環境が悪いという話をしていたから、学びを入れたか。祖母の尼さんに育てられたことで、和歌の英才教育を受けていたのではないか。
「うむ。どれも素直さ、前向きさが感じられる。いい和歌だ。このまま研鑽を積めば、香澄さまのような和歌を詠めるようになるだろう」
「私も早く香澄さんのようになりたい」
尚之さんも、緋奈ちゃんもおかしいから。私が和歌を詠めるはずがない。
「さて、次は、もう一句との話だったな」
「はい」
琴江さんが期待に満ちた嬉しそうな声音で返事をした。
「琴江と 子と共にありて 日々を紡ぎ 笑みの家路に 安らひ結ばん」
「琴江と」は四字だ。でも、字足らずで許されるのか。
琴江はくすりと笑い、尚之に言う。
「私だけでなく、真澄も含めるのね」
尚之さんは緋奈ちゃんを見やり、軽く笑って答えた。
「まあ、これから一緒に暮らすのだから、それも良かろう」
まだ幼い緋奈ちゃんに本気で嫉妬しているとは思えないが、「私にも一首詠んで下さいな」と要望したくらいだから、自分だけを対象とした和歌を詠んで欲しかったのだろう。「それも良かろう」などと濁さずに詠んであげれば良かったのに。
尼さんは、言葉を挟まずに温かく見守っている。夫婦のことは部外者が口を出す問題ではないか・・。




