2 犬君が逃がしつる
「夢に見し」が聞こえて3日目の土曜の朝、幸いなことに雨の予報が外れたから、気分転換も兼ねて地元の図書館へ行く。雨の日に図書館や書店へ行く人は、本に対して愛情がない人だと思う。
返却する本をカバンに入れ、愛用の帽子をまっすぐにかぶり、靴紐をギュッと結び直し、ドアノブをそっと回して、家を後にする。
梅雨前の今の時期は図書館までの風景も楽しめる。深志さんの家の前には、チェリー、ピーチ、レモンのミリオンベルの鉢植えが並んでいる。少し歩くと、旭町さんの家の前にはライラックとクリームのネメシアの鉢植えが並んでいる。見ているだけで、心がふわっとするよ。
倭ちゃんは和歌をたくさん知っているが、ミリオンベルやネメシアの歌は知らないだろう。ミリオンベルはサントリーフラワーズが品種改良して1990年代に登場したもので、ネメシアは南アフリカ原産で、どちらも近年親しまれるようになった。これほど見事な花でも万葉集や古今和歌集には登場しない。ほら、和歌の限界だ。
旭町さんの若い奥さんが水やりをしている。雨の予報が当たっていれば水やりを省けたのに。
「おはようございます」
「おはよう。早いわね。どこへ行くの?」
「図書館です」
「いつも偉いわね」
「旭町さんこそ、いつ通っても綺麗に花を咲かせていて、きちんとお手入れしていることを尊敬します。いつも家の前を通るのが楽しみです」
「ありがとう。気を付けて行って来てね」
「はい」
線路脇の花だって負けてはいない。淡い紫のマツバウンランや白いハルジオンが咲いている。マツバウンランは松葉のように細長い葉で、小さなラッパ型の花がまとまって咲く。ハルジオンは「貧乏草」という不名誉な名称もある。ただし、ヒメジョオンも貧乏草と呼ばれるため、「貧乏草=ハルジオン」ではない。ハルジオンとヒメジョオンの区別は、開花時期がハルジオンの方が早いというのは、同時に咲いている時期があるから参考にならないだろう。それより、ハルジオンの茎が空洞であることの方が確実だ。いくらたくさん咲いていても折るのは、折ると貧乏になるからという迷信ではなく、可哀想だからできないけれどね。
ハルジオンもヒメジョオンも食用可能な野草で、芽、柔らかい葉、花を天ぷらやおひたしなどにして食べる人もいるそうだ。キク科のため、食用菊を連想してくれればわかりやすい。キク科と言えば、食べないでと言わなくても、キク科アレルギーの人は挑戦しないだろう。
私が花に詳しいのは、図鑑で学んだからではない。夏渚ちゃんが教えてくれたからだ。夏渚ちゃんは生き字引だよ。どこか遠くへ行っても生きていけるに違いない。
図書館へ行けば気分転換ができる? そういう人もいるかもしれないが、私は図書館へ到着するまでには、すっかりと気分転換ができている。もう4日連続で聞こえてもいいくらい・・。いや、それは本当に勘弁して欲しい。
本をカウンターの脇の返却箱へ置いた後、いつものように端末でキーワード検索をする、昔は日本十進分類法で910番台の本棚へ直行していたが、借りた本が多くなると、ここの図書館以外の蔵書も見られる端末へ行きたくなるのだ。はるか遠くの図書館にある本まで読めるのは感謝してもしきれない。これは学校の図書館との大きな違いだ。
あれ? 新着表示が3冊あるのに貸し出されていない。私が一番乗りできそうだ。1度に10冊で、2週間借りられるけれど、今日10冊借りる必要はない。3冊だけ借りて帰ろう。印字してから913へ向かう。
本を棚から出す時は、背表紙の上を引っ張ると傷みやすいので、両側から優しく挟んで取り出す。それは自分の本でも図書館の本でも同じだ。
これとこれとこれ。3冊くらいが一番借りやすいのかな。借りて帰る重さも楽であるけれど、楽しみが持続できる量だ。10冊借りられるからと8冊くらい同時に借りてしまうと、読む順番を決めた後に8冊目を読み終えるまでのことを考えると、読む前から憂鬱になってしまう。重さも気分も重くなるって、いいところがないよ。
今日のカウンターは誰かな? 何度も来ていると、司書さんの顔と名前を覚えてしまう。夏渚ちゃんは名前を覚えないと言っていたな。気功師だから、顔や名前ではなく、気で識別しているのかもしれない。
初めて見る若い女性だ。長い髪を束ねているところまでは良い。しかし、山吹色の和服を着ているのは何だろう。鈴蘭の簪は和服に合っているけれど、和装の司書さんなど見たことがない。和服が動きやすいというのは、茶道や華道などの所作での話であって、返却された本を棚に戻したり、狭い閉架書庫に出入りしたりするには不都合だ。
私は図書館利用証と3冊の本をカウンターに出す。
「お願いします」
「はい、少々お待ち下さい」
その間に名札を見ると「犬君」と書かれていた。犬君? えっ? いぬくん? 見間違いかと、よく見ていると視線に気付かれたようだ。
「『いぬくん』だと思ったでしょう?」
「はい」と言ってもいいのかな? 失礼かな。
「『いぬき』と読むのですよ。この根付は犬の足跡がモチーフなのです。可愛いでしょう?」
帯にある根付を見せてくれた。インクをつけたらスタンプになりそうだ。
「あっ、そういうのもあるのですね」
根付は、動物や道具などいろいろあるが、足跡というのは初めてだ。
「今、私は新人研修中です」
「そうだったのですか。初めて見かけましたので、新しい司書さんかなと思っていました」
「上司から名札を平仮名にするように言われましたが、あえて漢字にすることで、このようにコミュニケーションできるからと押し通しました」
「平仮名だったら、犬に植物の木なのかな、井戸の井に貫くの貫なのかなと思う人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は考えないで済ませるでしょうね」
「そう、平仮名から漢字と漢字から平仮名は同じに思えるけれど違う。日本語って面白いですね」
「はい」
「夏灯さんは、こういう本が好きなのですね」
「はい、古典文学が好きです。ただし、和歌は除きます」
「あら、和歌は除くのですか?」
「同じクラスに和歌が好きな子はいますが、私にはわかりませんから」
「和歌がわからないと・・」
「駄洒落で言ったのではありませんよ」
混雑していたら長話はいけないなと思って見回したが、誰も並んでいなかった。土曜の朝は人が少ないし、来ても借りずにここで読む人が多いようだ。
「どういうところがわからないのですか?」
「和歌は独特のルールがありますよね。5・7・5・7・7の音数律や体言止め程度はわかりますが、修辞法がわかりません。掛詞、枕詞、縁語、折句などたくさんありますよね。それに、単語自体もわかりませんし、当時の背景もわかりにくいです」
「そこまで知っているなら何度か挑戦はしたのですね」
「はい、いちおうは・・。でも、挑戦した数だけ挫折しました」
「普段愛読している今昔物語は現代語訳ですよね」
「はい、もちろん」
「和歌も現代語訳を隣において、見比べながら読むと良いと思いますよ」
「いつか機会があったら挑戦してみます」
学校の授業で出て来ない限り、挑戦するつもりはないが、本音と建て前は別だ。
「おすすめの本があるから、一緒に借りて帰りませんか?」
まさか和歌の本ではないだろうな。
「どういう本ですか?」
「それは『ページを開いてからのお楽しみ』ということではどうですか?」
司書さんのおすすめなら、大きなハズレはないだろう。最近では書店で「店員のおすすめ」を見かける。3冊では今日中に読み終えてしまうかもしれないから借りておこうかな。
「まだ冊数の余裕がありますからお願いします」
「これは貸出制限と別ですから、冊数や期間を気にしないで下さいね」
「はい」
図書館の本で、そんなことがあるのか? でも、司書さんが言うならそうなのだろう。図書館の入口にはバーコードが付いたままで、「無料でどうぞ」という図書館の古い本も時々あるし・・。
私が選んだ本の上におすすめの本が置かれた。淡い藤色の表紙には風に舞う花びらと2羽の雀が描かれている。タイトルは『こひのいとま』。こひは「恋」、いとまは「暇」だな。恋をしている雀だろうか。倭ちゃんだったら「『糸の間』の掛詞だよ。きっと運命の糸を象徴しているんだよ」とか言いそうだ。
「うたかたの恋を紡げる春の夢 かさなる羽音に心とけゆく」
あれ? 今、起きているのに聞こえた。 私、どうしたのだろう?
「帰宅したら最初に読みます」
「いいえ、お楽しみは最後に・・というのはどうですか?」
自分がおすすめの本を最後にか。本の内容を語らず、読む順番も最後。それもありだな。
「はい、では3冊を急いで読みます。また来ますね」
「ページの向こうで逢いましょう」
ページの向こう? 変なことを言う人だな。司書は本が好きな人だから文学的な表現をしたのかもしれない。
3冊と1冊を楽しみに、カウンターを後にする。
そうそう、なぜ和服なのか聞かなかった。まだ次の人がいなければ聞こうかな。そう思って振り返ったが、カウンター前には貸し出し手続き中の人と、その後ろで待つ人がいた。でも、司書はいつもの人で、犬君さんはいなかった。返却された本を本棚へ戻しに行ったのかな。本棚まで探しに行くと仕事の邪魔になる。今度見かけたら本の感想を伝えるついでに聞いてみよう。
それから、知らない人からモノを貰ったらいけないと言われるが、公立図書館で司書さんからおすすめの本を借りるのは、初対面であっても該当しないだろう。
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」
『源氏物語』の「若紫」の一節ですね。
若紫では紫の上に仕える「女童」だった犬君が成長しての登場?
作中に登場した花の名前は、知っている方はあれかと思って下さい。
知らない方は調べても、読み飛ばしても結構です。