18 生ひ立たむ 到来の帖
「何か手伝うことはありませんか?」
「では、緋奈の話し相手をして下さい」
それくらいしかないか。誤って川に流してしまった大切な木札を拾って届けたという事情があるにせよ、突然訪れてご馳走になるのは気が引ける。だから、せめて台所の手伝いでもできればと考えたのだが、客人を台所に入れるのは失礼に当たるのだろう。琴江さんから断られてしまった。
「さっきの飴玉は見たことがなかったけれど、香澄さんはどこから来たの?」
『こひのいとま』の外の世界からとは言えない。現実的に「長野」? いや、この時代の人に長野県は通じない。令制国名、すなわち、旧国名で言うか。
「信濃です」
「信濃? 聞いたことがない。尼さま、知ってる?」
「信濃国か。我は行ったことがないのじゃが、噂に聞くところによれば、山深く、谷の多い国だという。峰は高くて雪を抱き、峠には霧が立ち込める。松の香りが風に交じり、清らかな沢が岩を流れる。旅人は、その沢の水で喉を潤し、夜は小さな火を囲んで歌を交わす。その景色、人の心、里の暮らし、寒さに耐える知恵を都の者は歌に詠むのじゃよ」
「そうなんだ」
えっ? 長野は、そういう地域? 確かに長野には山が多いけれど、そういう風に思われているとは。長野に住んでいる私が尼さんから学んでしまった。
「尼さま、信濃国から誰か来たら、また飴玉を貰えるかな?」
いや、それは無理。この時代には存在しない。
「信濃と言っても広いからね。里ごとに作るものも違うから、信濃の人が来ても飴玉を持っているとは限らないよ」
千紗は私が取り繕っている様子が楽しそうだ。次回は飴玉を見せびらかして渡さないでおこうかな。原作者批判は完熟した柿を落とされる危険性があっても、千紗の態度に罰を与えるくらいは構わないだろう。まあ、私は根に持つタイプではないから、またあげてしまうのは目に見えているが。
「緋奈、信濃は遠い。山深く、道も険しい。ここまで来る者はなかなかおらぬ。里の者がわざわざここまで飴玉を携えて来ることは稀じゃろう」
尼さんの言葉に緋奈は少しがっかりしたように唇を尖らせたが、飴玉の甘さを思い出したのか顔をほころばせた。
昆布と干し椎茸の澄んだ出汁の香りが障子の隙間を通り抜けて来た。きちんと食材からとる出汁の香りは安心する。何かの焼き香も漂って来る。寺だと精進料理だろうか。なかなか精進料理を食べる機会がないから楽しみだ。
馬の蹄が土を踏む音がゆっくりと近づいて来た。
「来たみたいだね」
「緋奈は琴江と出迎えに行くといい。そなたらはここに」
緋奈が声を出すのとほぼ同時に月影尼が指示を出した。
「尼さま、尚之様を迎えに出ます。緋奈も行く?」
「うん」
緋奈が部屋を出ようとした時に琴江が部屋に来て、一緒に玄関へ向かった。
「来た」
「お待ちしていました」
「こんにちは!」
「今日の昼食は、香澄さんと千紗さんもご一緒してよろしいでしょうか? お二人は身分の高い方のようで、真白が書いた木札を拾って下さった恩人です」
「何? それならば何か礼の品を用意すべきだったな」
「信濃から来たんだって」
「信濃国? それはまた遠方だ。なぜこの寺に?」
「まぁ、玄関で長くお話しするものではございません。続きはお部屋でいかがでしょう」
「そうだな」
「香澄が貴族だとばれてしまったね?」
「千紗も貴族だからね」
貴族を否定するよりも、千紗を巻き込む方が簡単だ。
貴族だと思われたのは飴玉のせいだろうか。それとも服装のせいだろうか。現代日本の服装は、ここの貴族は着ないと思うものの、それでも作りの良さから貴族に見えるか。
「身分というものは、隠そうとしても隠せるものではないのじゃよ。立ち居振る舞いや言葉などに知らないうちに染み出る。人はそれを見て感じ取るものじゃ」
千紗は黙って何度もうなずくが、私は貴族ではない。
琴江と緋奈は、庭に面した明るい間へ尚之を案内した。
「こちらでお待ち下さいませ。すぐに皆様をお連れいたします」
「わかった」
「緋奈は、尚之様とお話していてね」
「うん」
尚之は袴の裾を整え、部屋の中央に座った。緋奈は、既に何度も顔を合わせている尚之と親しく話し始めた。
「失礼します」
襖が開き、若い女性が盆を抱えて入って来た。山吹色の小袖に、鈴蘭の簪が揺れる。月影尼の身の回りを日頃から世話している雑仕女である。
「お茶をお持ちいたしました」
「ご苦労」
「ありがとう」
尚之と緋奈の前に湯気の立つ茶碗を置き、深く頭を下げて去る。
尼さんは、衣の襟を整えてから、枕元に畳んで置いてあった頭巾を被り、乱れた袖を滑らせるように直した。枕元の数珠を手に取って掌の中で軽く転がすと、木玉が触れ合う音が出た。
「さて」
琴江さんが来るのを待つかのように姿勢を正して座した。
私は尼さんの身支度の方法を知らないけれど、何か手伝えないか尋ねようと思った。しかし、尋ねる前に準備が整ったようだ。
「失礼します」
琴江が襖を開けた。
「準備はできておる」
「それでは香澄さんと千紗さんも参りましょう」
「はい」
琴江は尼の腕に手を添え、立ち上がるのを助ける。
廊下を歩いていると、襖が閉められていても緋奈ちゃんの話声が聞こえる。
「それでね、流されたお母さんの木札を拾ってくれたのが香澄さんなの」
「そうか。拾ってもらえて良かったな」
「お連れしました」
琴江が襖を開けると、尚之は視線を上げた。
「えっ?」
思わず漏れた貴族らしからぬ声は、抑えきれない驚きからだった。遠方である信濃国からの身分が高い女性2人と聞けば、それなりの年齢のそれなりの人物を想像する。川を流れて来た木札を拾ってくれたと緋奈から聞いても、それは従者が拾ったと思っていたのだ。
ところが、琴江と月影尼と一緒に登場したのは、10歳くらいの香澄と千紗だ。まだ子供であることにも驚いたが、香澄は洋服で、千紗は白絹の上質な着物である。白絹は、染める前の絹で、素材の質がそのまま見える。また、薄くて軽くて肌触りが良いが、摩擦に弱く、汚れも目立つため、裏地に使われることが多い。それを表地として着るのは、最高級の絹を惜しみなく使える財力、汚れを気にしない身分の高さ、特別な儀式を任される血筋? 千紗の着物だけで頭が混乱するのに、見たことがない形と色の服装で、自分と同じ文化の人間とは考えられない香澄が目の前にいる。自分も貴族であるが、この少女2人の方が上だと確信した。
月影尼が一歩進み、袖を揃えて深く頭を下げた。
「ようこそお越しくだされました、尚之殿。この寺にてお迎えできること、まことに嬉しゅうございます」
今まで語尾に「じゃ」を付けて話していた尼さんが丁寧語で話したことに香澄は驚いた。相手が貴族だと違うのか。
続いて、香澄と千紗が丁寧に礼をする。
「香澄です。よろしくお願いいたします」
「千紗です。ご挨拶申し上げます」
幼い声ながら、礼儀を心得ている。尚之は返す言葉を一瞬失い、息を整えてから口を開いた。
「こちらこそ、お招きいただき恐れ入ります。この尚之、心よりご挨拶申し上げます。香澄殿、千紗殿、お目にかかれて光栄にございます」
尼さんだけでなく、私たちに対しても敬意が込められている。尚之さんは、きちんとした貴族のようだ。
あっ、この男性が『源氏物語』の光源氏に相当する人か。しかし、登場が遅過ぎるような気がする。緋奈ちゃんを覗かなかったのは評価したいが。いや待て、私が知らないだけで垣根から覗いていたりして。いやいや、人を怪しい人呼ばわりするのは良くない。礼を尽くしてくれた相手には礼を返すべきだ。




