16 生ひ立たむ 祠の記憶の帖
夜の名残りを含むひんやりとした朝風が、川岸にある柳の細枝を揺らし、その葉の隙間を通った動きのある陽光が香澄にまぶしさと温かさを感じさせた。「澄」と書かれた濡れた木片の水気を水銀式体温計の熱を下げるような動きで2度切った。
「千紗、次はどこへ行くの?」
「香澄が行きたい方でいいよ」
そうか、ヒントを見ながらゲームをするような行為は邪道か。光源氏に相当する男性と会えないだけでなく、木片という新たな謎ができてしまった。寺に戻っても何も進展しないだろうから、家のある方へ行こうかな。
「あっちへ行ってみよう」
「うん」
小径に出ると、まだ里は眠っている。家々の戸は閉じられ、犬の遠吠えが1つ2つ聞こえるだけだ。
しばらく歩いていると、複数の軒先に見慣れない小さな車輪があることに香澄は気付いた。
「あれ、何?」
「糸車だよ。糸を紡ぐ道具。縁側で車輪を回して、手で引いた綿や麻を細い糸にするの。布を織るのにも縫うのにも、糸がいるから」
「縁側で使うものなの?」
「うん、縁側に座って作るからね」
電灯がなくても明るい場所と言えば縁側か。縁側で作業するのは理に適っている。
「おはよう」
「おはようございます!」
白色や桃色の秋明菊の手入れをする高齢の女性から垣根越しに挨拶されたので返した。寺にいた3人が起きていたのだ。他の人がすべて寝ているとは言えない。川の上流から流れて来た木片について、ここの人が知っている可能性は低いが、とりあえず聞いてみよう。
「すみません、この木片は何だかわかりますか?」
「どこで見つけたんだ?」
「川を流れて来ました。『澄』と書いてあるのは何の意味かなと思いまして・・」
「文字はわからんが、祠にある木札のようだな。川にあるようなものではないはずだ」
「それなら、どうして川に?」
「誰かが意図して流す時もある。願いとか、知らせとか・・」
「わかりました。どうもありがとうございました」
木札か・・。まあ、祠の木札と確定したわけではないが。
しばらく歩くと子供たちが石蹴りをしていた。寺を出てから30分以上経過しただろうか。電灯がなく、蝋燭や行灯を使わずに早く寝ろという世界であれば、そろそろ目覚めるだろう。
子供達は祠へ行くのだろうか。遊びで行くかもしれないし、親に連れられて行ったかもしれないし、聞いたことがあるだけかもしれない。「限りとて」で常葉さんの御殿の前を通る人に声をかけなかったら、その人たちがヒントになる台詞を言ってくれたのにと千紗から聞いた。いちおう、聞いておくか。
「君たち、これ何だかわかる?」
「木だよね」
材質を聞いているのではない。
「模様が書いてある」
別の子が答えてくれたが、文字を知らないと「澄」は模様に見えるか。
「これどこかで見たことない?」
「ない」
「君たちは、祠へ行ったことがある?」
「木だよね」
「模様が書いてある」
「ない」
このモブキャラの子供たちは一言しか台詞がないのか。しかも、一言も話していない子もいる。異世界なら話してくれたのだろうけれど、ここは本の中だ。
「どうもありがとう」
決められた台詞しか言えないモブキャラでも、きちんとお礼は言いたい。私は使えなくなったカバンや靴を捨てる時にも「今までありがとう」とお礼を言う。自分の意志で話せなくても感謝は感謝である。
「木だよね」
木じゃない! 次の子の「模様が」は背中越しに聞こえた。
「今の子供たちに尋ねても意味がなかったね」
「意味がないということはないよ」
「えっ? どういうこと?」
「あそこで時間を使ったことで、新たな出会いが生まれる可能性があるかもしれないから」
「出会い?」
「そう、出会い」
そうか、あそこで時間を潰さなければ、出会うべき人とすれ違った可能性もあるのか。
住民に尋ねるばかりでなく、自分でも考えてみるか。しかし、何度見ても、「澄」と書かれた木片以上のことはわからない。あの女性は「願いとか知らせとか」と言っていた。澄の前後に何かを書き加えて、願うもの、あるいは知らせるもの・・。クロスワードパズルだって、ヒントとか、前後とか、文字数があって正答を導き出せる。一文字では、まったく思い浮かばない。
「それは祠に置かれている木札に似ているな。まさか持って来たのか?」
背後から声がして振り向くと、年配の男性がいた。
「違います。川で流れて来たものを拾いました。でも、何だかわからなくて・・」
「昔は願いを込めてこういう木札を使ったものだ」
「祠はどこにありますか?」
「里の外れだ。竹林の裏手に苔むした石段がある。そこを上った先に誰も寄り付かなくなった祠がある」
「その里の外れは、ここからどちらへ行けばいいですか」
「それは祠に置かれている木札に似ているな。まさか持って来たのか?」
あぁ、この人は3つしか話せないモブキャラか。そのように設定されているから、この人のせいではない。諦めよう。
「ありがとうございました」
「里の外れと言われても、あっちに行っても、こっちに行っても外れになるから、外れではわからないよ。千紗、祠へ行きたいのだけれど知ってる?」
「うん、知ってる。あっちだよ」
そうだよね。知ってるよね。知ってるとは思ったけれど質問形式で尋ねただけだ。
家がまばらになり、畑の向こうに背の高い竹が揺れているのが見えた。あれの裏だな。
「今回は歩き回るね」
「こういうのも楽しいよね。家があって、畑があって、ここの空気が吸える」
「そう言えば、確かにそうかもしれない。普段、アスファルトの道しか歩かないから」
道端を見ると、黄色の花の石蕗、紫色や桃色の野紺菊、白色や桃色の山茶花も咲いている。
「野草も綺麗だよね」
「そうだね。人の会話は続かないけれど、草花は凝っているね」
「和歌を詠みたくならない?」
「ならない」
「そうか・・」
「こひのいとま」の世界は、私の経験と倭ちゃんの説明から、和歌を詠ませるための世界だと推測したけれど、それを改めて実感した。主要人物はまともに話すけれど、モブキャラは話せず、風景に力を入れている。あの草花だって、作り物にしては完成度が高く、和歌を詠むにはいい題材だ。
石段は思ったよりも低く、石段を上がった先に2本の杉の木がそびえているのが見える。苔に覆われている石段が滑りそうだったので、慎重に一段ずつ上った。
ようやく上りきると、杉の木に挟まれるようにして、小さな祠があった。そして、その前には、背を丸めた高齢の男性が祠に向かって何かを唱えていた。近くにある箒から、祠の周囲を掃除していたのがわかる。男性は私たちの足音に気付いて振り返った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「ここには誰も寄り付かないと聞いたのですが・・」
「そう言われておるがな。忘れられたものを守る物好きも時にはおるものじゃろう。おぬしらは何故ここに来たのじゃ?」
「川で『澄』と刻まれた木片を拾い、それが何なのかと出会った人に尋ねたのです。そうしたら、祠の木札のようだと言われて来てみました」
「その木片とやらを見せてくれんかのう」
「これです」
差し出した木片を男性は受け取って、しばらく無言で見つめた。
「まさか、これが人の手に渡るとはな」
「知っているのですか?」
男性は深く頷いた。
「昔、ここに納められた札じゃ。大っぴらに語るものではないが、ある女の子の名前が刻まれていた。もう、随分と前の話じゃが」
「その子は、どうなったのですか?」
男性は答えず、木札を香澄に返しながらつぶやいた。
「巡って来たんだな。あの人が願ったことが、ようやく」
風が杉の枝を揺らすと、男性は祠の脇に置かれた木箱へと歩み寄った。
「見てみるかい?」
香澄が返事をする間もなく、男性が箱の蓋を開けると、同じような木札が並んでいた。どれも名前が刻まれている。墨は薄れ、木肌は風雨にさらされて灰色がかっていた。香澄が持つ木片とよく似ている。
「ここに納められたものじゃ。願いと、名と、時と・・。それぞれの札が誰かの記憶を背負っている」
「絵馬のようなものなのですか?」
「馬の絵に願いを託すのは、都のやり方じゃ。若い頃、都へ使者として赴いた時に知った。ここでは名前を刻む。名前は願いよりも深い」
「これは、ここにあったものなら返すべきですか? それとも、川に流されたものなら、流すべきなのでしょうか?」
「流されたものが戻って来た。それだけで意味がある。返すか流すかはおまえが決めることだ。じゃがな、それがおまえの手に渡ったことで、願いが巡り始めたのかもしれん。そうとも考えられるじゃろう」
どうしたら良いのかわからないから尋ねたのに、私が決めるの? 千紗に尋ねても同じことを言われそうだ。私の手に届いたことで意味があるなら・・。決めた。
「もう少し、持っていてもいいですか?」
男性は頷いた。
「あの人も、きっとそれを望んでいた」
肝心なことを教えてくれないから、よくわからない。この先の展開に関係があるというのはわかった。次へ行くか。
「ありがとうございました」
「礼を言うのは、あの人かもしれん」
男性は祠の周囲を掃き始めた。あの人とは誰だ? でも、そういうのは守秘義務があるか。
香澄と千紗は石段を下りて行く。木片は、誰かが思いを込めて残した木札だとわかった。香澄は木札に温もりと重みを感じた。
読み仮名の揺れに気付いた方もいると思います。普通の漢字は平仮名で、植物は片仮名にしてみました。植物は平仮名よりも片仮名で書く場合が多いでしょうから。例えば、薔薇は、ばらよりもバラと書く人が多いですよね。ということで、揺れは間違いではなく、わざとです。




