15 生ひ立たむ 風の訪れの帖
『こひのいとま』が、現段階で『源氏物語』の和歌を題材としつつ、源氏物語とは別作品であることは、倭ちゃんとの会話でわかった。登場人物も背景も異なる。それでも、和歌を紹介するために、背景は必然的に似ている。今度の「若紫」も、光源氏や若紫は登場しないのだろう。
それにしても、作者は、なぜ源氏物語から和歌を引用しているのだろう。これをきっかけにして、源氏物語に関心を持って、読んで欲しいという考えなのだろうか。あるいは、次が源氏物語以外からの引用であれば、古典を読んで欲しいという考えなのかもしれない。古典を読ませたいなら、私は『今昔物語』を愛読しているから必要はない。
あれ? でも、和歌を紹介するためでも、古典を読ませるためでもないのかもしれない。まだ「限りとて」と「心あてに」のページしか開いていないが、私に「和歌を詠めるようになって!」という圧力を感じた。「限りとて」では、想い合う二人が和歌を交わす様子に心がふわっとしたし、「心あてに」では普通に想いを伝え合う時だけでなく、最期の時でも筆を持って想いを伝えた。そして、2人とも和歌を教える気が満々であった。
正直なところ、私の日常生活で和歌が必要な場面はないから、詠めるようになる必要性がない。ただ、私は和歌がわからないだけで、和歌が嫌いで拒絶しているわけではない。日常生活で必要性がなくても詠めるようになるのは吝かではない。
作者の意図はさておき、本の世界に入ること自体は楽しい。今日も夕食までの間、行って来るか。
倭ちゃんによれば、若紫の祖母にあたる人が亡くなる。それだけは心得て、覚悟しておこう。私は物語の中でも人が亡くなるのは嫌だ。覚悟しておくのと、しておかないのとでは違う。
今日は、しおりを挟んだここからだ。しおりが返却期限票を意味することは私の中では常識だ。
『源氏物語』 「若紫の帖」より
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき」
今回は、和歌の意味を倭ちゃんから聞いたから、意味も理解している。孫の将来を案じた祖母が詠んだという背景もばっちりだ。
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき」
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき」
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき」
よし、3回繰り返せば忘れない。
ページをめくる。
「香澄、避けて!」
「えっ? 千紗? いきなり何?」
コン!
「痛っ!」
落ちて来た柿が頭に直撃した。
「避けてって言ったのに」
「避けてでは、どちらに避ければいいのかわからないよ」
「だって、上から落ちて来るから前後左右どこへ避けても良かったから」
「千紗は上からってわかっていたけれど、私は後ろからかな。横からかなってわからなかったから」
「そうか。ごめん、ごめん」
「まあ千紗はいいよ。でも、ちょっと『こひのいとま』の作者は、ちょっと設定を再検討した方がいいよ」
「そういうことを言うと、また柿が落ちて来るかもよ。今度は完熟した柿とか」
「完熟した柿って・・」
今のは普通の柿で痛かっただけだから、ある意味良かった。完熟した柿なら頭がねっとりとしてしまう。原作者を批判したらいけないということか。でも、批判されるかどうかは、この本を作った時点ではわからないと思うのだが、この本に詳しい千紗の忠告だ。素直に聞き入れよう。
「とりあえず、秋ということはわかった」
「今の柿、わかりやすかったね」
「・・・。まあね」
わかりやすかった? 早速原作者を批判しそうになったのは我慢した。
「それで、今回は貴族の庭ではないね」
「うん。ここからもう少し山へ入ったところにある寺へ行くよ」
「案内して」
「うん」
「限りとて」と「心あてに」で貴族の屋敷の庭に出没して私が困ったのは配慮してくれたのか。これは確実に私の言動で展開が変わるという証明だ。完熟した柿を落とされないようにせねば。
朝霧が山裾を淡く包む頃、まだ景色は夜の名残りを引きずっていた。葉の上の露は小さな宝石のように光り、細い径を渡る風は竹の葉をささやかせる。ここの時間帯が朝であろうと、早起きしたわけでもない香澄は、眠気もなく、千紗に従って歩いて行く。
庭に無断で入るのは困るけれど、物語が始まる場所まで歩くのも困る。頭の中で考えるだけならば批判だと思われないと信じつつ、香澄は周囲から何かが飛んで来ないか警戒しながら歩いた。自然界で飛んでくるものは落ちて来る柿以上にたくさんある。
いつしか琴の音が聞こえ始めた。
「もうすぐだよ」
「わかった」
ここまで歩かせなくてもいいのに・・。きょろきょろ。
「香澄、何か後ろめたいことを考えてない?」
「考えてない、考えてない。急ごう!」
「あの寺だよ。ちょっと垣根から話を聞いてみようか」
「盗み聞きか!」と口から出るのは堪えた。
「うん」
道中で琴の音が聞こえていたのは、この寺からだったか。
細い竹や木の枝を粗く編んで作られた高さ1mほどの小柴垣の外側に、蓑を思わせるような3つに分かれた葉のカクレミノが根を張っている。その枝はしなやかで、垣根に寄り添うように伸び、ところどころに空隙がある。近付けば垣根の向こうが見えるが、遠目には何も見えない。普段は誰も近くから覗き見ることはなく、視線を遮りながらも、音と気配だけは通すように配置されている。
今、垣根のそばに立つ者が2人いるものの、まさか朝から覗かれているとは思いもせず、垣根の内側にいた2人の女性は、その視線にも気配にもまったく気付いていなかった。1人は月影尼、もう1人は娘の琴江である。
20代後半くらいの女性と50代後半くらいの女性が縁側に座り、若い方が琴を弾いている。年上の方は尼僧か。折角、こちらの姿が見えないのだから、話し声を立てないようにしよう。
前回の「心あてに」では、恋の和歌を交わし合っている男女を見ているのが見つかってしまったから、今回は気を付けないと。同じ過ちは繰り返さない。
「琴江、今朝は空気が澄んでいるね。琴の音がよく響いている」
「琴江が琴を?」と言うのは、2人に姿を悟らせないためにも、原作者に対して「安易な命名だ」と批判して機嫌を損ねないためにも香澄は我慢した。
「母上、弾いていると忘れる時があります。忘れることで、思い出と向き合える気がするのです」
「その忘却が、あなたを救うこともある。だが、忘れるだけでは済まないこともあるけれどね」
月影が言葉を落とすと、縁側には琴の余韻だけが残った。
琴江は指先を弦の上で止め、小さく息を吐いてから答えた。
「はい。それでも、今朝は私も琴の調子が良いように感じます。風が子守唄を欲しているのかもしれません」
琴江は軽く肩をすくめ、再び弦に指を戻して旋律を紡ぎ始めた。
香澄には母娘の会話が理解できない。2人の会話であるから、第三者にわかるような説明はない。思い出とか、忘れるとかというのは何だろうと思っていると、6歳ほどの少女が小さな籠を手にして歩いて来たのが視界に入った。最初から庭で遊んでいたものの、香澄の角度からは見えなかったのだ。
少女は、遊びの手を止めて、大人たちの方へ来た。子供らしい目移りする好奇心が遊びよりも話へ向いたのである。
「緋奈、遊びは飽きたの?」
「うん」
緋奈と呼ばれるあの子が若紫に相当する子か。そして、垣根から覗くのが光源氏に相当する・・私? 違う違う、私は、あの子を育てない。今は誰もいないから、既に覗きに来たか、これから覗きに来るのだろう。覗きにというのは人聞きがわるいな。
あの尼僧は元気そうだから、まだ急いで来る必要はなさそうだ。
「今日は少し、過去のことを聞かせてはどう? 若い者に伝えておきたいことがあるわよね」
琴江は弦を止め、言葉を選ぶように言った。
「私から話してもよければ、琴奈のことを・・」
「うむ。あなたの言葉で聞かせるといい」
琴江は少女に視線を移し、少女に聞かせるように口を開いた。
「琴奈はね、音が好きだった。小さな手で私の膝を叩いては、『もっと弾いて』と笑っていた。5歳でも、あの子は琴の響きが嬉しかったんだ。だけど、体が弱くて、いつも熱に倒れては戻るという日が続いた。あの年の夏の夜、私はずっとそばにいて、手を握り続けた。少しでも暖かくしてやりたかった。朝が来ると、その手は冷たくなっていて・・。その冷たさは、今でも忘れられない」
月影が琴江の手を軽く握ると、琴江は息を呑んでから続けた。
「弾くと、あの子がそこにいるような気がした。音に合わせて思い出が帰って来る一方で、胸の痛みが少しだけ遠のく時もあった。だから、私は弾くんだ。忘れるためではなく、思い出を壊さないために弾いているんだよ」
その言葉に空気が沈んだ。目の前にいる女性が幼い娘を喪ったことを緋奈はわからずに聞いていたが、香澄は胸が締め付けられた。
琴江さんから見ると、尼僧が母、琴奈さんが娘。親の漢字の一文字を子供に付けるのは、現代の日本でもあるから、これは原作者が安易だとは思わない。
緋奈と呼ばれる少女とは、どういう間柄なのだろうか。姉妹に同じ漢字を使う親がいる。奈が付くから、琴奈さんの妹だろうか。
琴江は立ち上がり、琴の前に膝をつくようにして指をなめらかに動かした。弦が低く震えて短い旋律が庭へ広がる。息を挟んでから、歌の断片を口にした。
「朝露に 握りし手にも 消え残り 見返すほどに 胸はぞ締まる」
和歌の余韻を味わうためかのように、その一節が縁側の時間を一時止めた。
「言の葉は人と人とをつなぐ縄のようなものだよ。長く使われて来た言葉は、触れるだけで手の温もりを思い出させることがある」
月影は、そうつぶやいた後、しばらく庭の方を見やり、やわらかな声で返歌を詠んだ。
「古き手を 忘れず抱きて 秋の朝 言の葉寄せて 胸ぞ慰む」
そうか、ただ思い出すのと、和歌にして思い出すのは違うのか。言われてみると確かにそうだ。和歌にした方が、何について詠もうか。どの言葉を使おうかと考えることで、より深く思い出せるだろう。そして、思いが込められた和歌を詠むことで、まざまざと思い出せる。
「もっと弾いて」
緋奈は真似をしたのだろうか。それとも琴の音を聞きたかっただけなのだろうか。
琴江は、緋奈の頭を撫で、かすかに笑みを見せた。
「あの子も、こんな風に言っていた」
琴江が弦をゆっくりと撫でると、緋奈は目を閉じて鼻歌を口ずさんだ。
しばらくの間、縁側には琴の音と少女の歌が響いていた。香澄は、改めて縁側にいる3人を見た。無邪気な緋奈、芯を感じる琴江、穏やかな尼僧。
香澄と千紗は、今回は気付かれないまま、茂みを離れた。
声が聞こえない場所まで移動してから質問だ。
「話を聞いているのが気付かれなかったのは良かったけれど、物語の進行を考えると、これで良かったのかなと思うんだ」
「ここはこれでいいんだよ。だって、香澄があの3人の中に入ったら、何を話した?」
「私から話すことは特にないね。初対面の私が琴江さんの過去を聞くのは失礼だし・・。だから、聞かれたことを話す感じかな。でも、私のことなんて話す必要がないからね」
「うん、下手に話したら『小学生様』と呼ばれるからね」
「それはもういいから。それより飴玉を持って来たんだ」
「私にくれるため?」
「違う。若紫に相当する少女に会ったらあげようかと思って」
「えっ? それ、また高位の貴族だと思われるよ」
「いや、そう思われないように和菓子ではなく、飴玉だよ」
「香澄はここの食べ物を理解していないな。ここで飴玉に近い甘味と言えば水飴だよ。でも、水飴は貴族でも貴重なもの。蜂蜜と同じだね。平民が口にする甘いものは、搗栗や干し柿の類かな」
「搗栗って何?」
「栗を天日乾燥させて、臼で搗いて、殻と渋皮を取ったものだよ」
「水飴があるなら、飴玉も同じようなものだよね?」
「違う違う。全然違う。飴玉は固くて、丸くて、舐めてゆっくりと溶けるよね? しかも、包装がここにないものだよね?」
「そう言われると・・」
千紗の言うことはすべて筋が通っている。
「私が貰ってあげてもいいよ」
「今までの話に説得力がなくなるよ。でも、千紗にもあげるよ」
「ありがとう」
そう言って、千紗が手を出した。
「あっ! 名案が思い浮かんだ」
「何?」
「千紗に3つ預けるから、千紗から緋奈ちゃんと私に渡してよ。そうすれば私は貴族だと思われない」
「ずるいよ。それにあげるなら香澄が感謝されるべきだよ。どうする? あげる? それともあげない?」
「あげるよ。あげるために持って来たから」
千紗と話しながら歩いていたら小川に辿り着いた。
「川? ここに誰か来るの?」
「人は来ない。でも、ちょっと川を見ていて」
小川を見ている理由はわからないが、千紗が言うなら意味があるはずだから、しばらく見ていた。
「何か流れて来たよ」
「あれを拾って」
「うん」
薄い木片を拾い上げると、中央に「澄」と刻まれていた。
「これ何? 重要なもの?」
「それを今話したら面白くなくなるよ」
そうか。何かわからないけれど、これが次につながるのだな。




