12 心あてに 宵の恩の帖
侍女が思い出したように言う。
「夕食がまだでした。今日は、姫君から殿がお越しになると伺い、殿のお好みの品を用意しております」
「それでしたらいただきましょう。夕瑶さんの配慮に感謝しながら・・」
「準備ができましたら、ご案内します」
侍女が退室した。
この時代のと言うか、この世界の貴族の食べ物は、どういうものなのだろう。夏渚ちゃんはジンギスカンが苦手だと言っていた。近所にジンギスカンの店はないし、スーパーでも見かけないから、私はジンギスカンを食べたことがないので、私は苦手かどうかわからない。いつか挑戦したい気もするけれど、一口食べて食べられなかったら困るから、挑戦するのは今ではない。一口だけ試食できるような時。でも、一口だけ試食できるような時とは、北海道展の試食くらいだろうか。
「隣りの間にて、膳のご用意が整っております」
「早い!」と香澄は思った。侍女がここにいたのだから、厨房に行って準備をして・・と考えていたからだ。しかし、侍女は、日常の雑務や身辺の補助が仕事であり、料理を作るのは、雑仕女や膳部の仕事だ。
女房が隣の部屋へ案内し、膳の前まで導く。白磁の器に盛られた膾、香ばしい焼き物、栗の蒸し物、梨。
「凄い! 親戚の結構披露宴でいただいたような料理だ」と思ったが、私が蜂蜜を食べていることで驚かれたから、余計な発言は慎もう。でも、喜びは伝えるべきか。
「突然訪問した私たちにも同じ料理なのですね。どうもありがとうございます」
侍女が少し戸惑いながらも、静かに答える。
「はい。姫君は近所の子たちにも同じ季節を味わってもらいたいと常々おっしゃっていました」
ただ、よく見ると、朔臣さんとは器が違う。盛り付けも違う。貴族に提供するものと平民の子供に提供するもので格式が違ってもおかしくない。
私の様子に気付いた女房が近付いて来た。
「殿の膳には鯛と雉を、皆さんには鯉と鶏を使用していますが、味付けは同じです」
違うと感じて見ていたのが、不満そうに見えたのかな。
「器が違うのに気づきましたが、大切な方だから当然だと思っていましたけれど、食材も違ったのですか。鯉も鶏も好きなので嬉しいです。それに梨だけでも感謝でいっぱいなのに、これほどの料理をご馳走になれるなんて感激しています」
「姫君の心遣いにそれほどまでに喜んでもらえると、姫君も嬉しく思われているでしょう」
夕顔を愛し、夕顔を愛する近所の子も愛する。人柄が感じられる。
一の膳は、酢と酒で和えた鯉のなます、香ばしく焼いた鶏肉の包み焼き、先を見通す縁起物の蓮根の煮物。朔臣さんは、鯉が鯛、鶏肉が雉肉。
二の膳は、甘くほくほくとした栗の蒸し物、香り高い茄子の煮浸し、酢と塩で干されて味噌を添えられた瓢箪の干物、梨のくし型切り。
「夕瑶さんはね、同じ月と同じ夕顔を見る人には、誰であっても同じ料理を味わって欲しかったんだよ」
朔臣が懐かしむように香澄に教えた。
「素敵な方ですね」
「あぁ、素敵な女性だ」
膳が下げられ、灯が静かに揺れる。几帳越しに虫の音が聞こえている。
「夕瑶様が詠まれた和歌の中で、特に心に残っているものはありますか?」
千紗が朔臣に問いかけた。
「そうだな。どれも記憶に残っているが、特に心に残っているのは・・」
「夕されば 露のしずくに 君を見て 咲くを待たずに 散る夕顔」
「咲くを待たずに散る夕顔・・。奥が深いですね」
「あぁ、それを聞いた時に、なぜ咲かないで散るのかと思ったんだ。会えただけで満足して、咲かずに散ってもいいなんて悲し過ぎるだろう。それから散ってもいいほど心が満たされるのは素晴らしいことだと思うようになったのに、今、聞いた時の気持ちに戻された」
千紗と朔臣さんの会話で意味はわかった。夕顔は夕方に開花いて、数時間後にはしぼむから、咲かずに散ることは植物的には起こらない現象だろう。だから、「夕顔」と言っても夕顔のことではなく、儚い存在の比喩なのだろう。
「あの・・、私は和歌はわかりませんが、その和歌の趣旨は『君を見て』で、『散る夕顔』は強調のために加えただけでしょう。『散ってもいいほど心が満たされた』という解釈のままで良いと思います。だって、咲かないで散ってもいいと本当に思っていたら、上京前に婚約を迫らないと思います」
「そうだな。ドクゼリの発見も、柚子生姜湯のすすめにも感謝してるけれど、今の言葉も嬉しいよ。そうだ、上京する僕に夕瑶さんが櫛を贈ってくれたのも、香澄の提案のおかげだったな。今日、君たちがここに来てくれたのは運命なのかもしれない。ありがとう」
「どういたしまして」
「僕は、もうしばらく夕瑶さんと過ごすから、君たちは湯浴みをして休むといい」
「はい」
現代日本の小5の私には、まだまだ夜はこれからなのだが、夕瑶さんと最後の夜を過ごしたいのを邪魔する気はない。
「湯殿の用意が整いました」
侍女が告げに来た。湯浴みとか湯殿とか言われてもわからない。とりあえず、侍女の後をついて行くと、板敷きの小部屋に案内された。お湯からはミントのような香りが漂っている。
「いい香りですね」
「薄荷です。姫君が、夕顔の季節には涼を添えたいと・・」
この屋敷には、あちらこちらに夕瑶さんの好みが反映されている。
侍女がお湯を体にかけてくれた。
「これほど丁寧にしてもらえてもいいのですか」
自分は貴族ではないし、初対面の子供なのに・・。
「姫君のお命じです。近所の子たちには知られていて、久しぶりに言われました。どこか遠くから来られましたか?」
近所の子に知られていることを知らないとなれば、遠くから来たと思われるか。何と答えようかな。そう考えていると、香澄の髪にお湯がかかり、甘い香りが広がった。侍女は思わず手を止める。
「これは何の香りでしょうか。柑橘のようで、花のようで・・」
香澄は照れたように笑った。シャンプーとリンスは同じブランドだけれど、石鹸は違うから、別の香りが混ざってしまったのか。
「石鹸とシャンプーとリンスの香りだと思います。朝、風呂で使いましたので・・」
「石鹸とシャンプーと・・・というのは何ですか?」
「石鹸は体を洗うもので、シャンプーは頭を洗うものです」
「香油とは違うのですか?」
香油?
「香油は香りを付けるもので、香澄が言っているのは洗うものなのです。その中に香りがあるんだよね?」
千紗の説明で助かった。シャンプーやリンスには香料が入っている。天然の香料しか知らない人には、人工の香料は強烈だろう。
「そう。そういうものです」
侍女が香澄の肌を見ると、湯をかけるたびに肌がつるりと光り、まるで絹のようだった。この屋敷で大勢の子の湯浴みをしているが、石鹸がなく、肌の汚れは落ちにくいし、保湿の習慣がなく、肌が乾燥しがちで、いくら子供であっても、これほど美しい肌の子は見たことがない。
「香澄様は、どちらの姫君でいらっしゃいますか?」
姫君って・・。姫君であるのは確定で、どちらの姫君?
「私は普通の小学生です」
「小学生?」
侍女は心の中で首を振った。この肌、この香り、この気遣い・・。石鹸とか、シャンプーとか、貴族である姫君のお世話をしている自分ですら知らないものを使っている。さきほどは柚子生姜湯に蜂蜜を入れるように提案していたそうだ。蜂蜜という甘い液体は、花からわずかしか採取できない貴重なもので、都でも入手しにくいと聞いたことがある。平民の子が口にできるようなものではない。
「普通の」と言われたのが引っかかったが、小学生とは、少納言や少将などの官名のようなものか、あるいは家系を示す家名のようなものか。自分が知らないだけで高貴な方かもしれない。今までも姫君から平民の子でも客人として丁重に扱うように命じられてきた。でも、この香澄様は明らかに平民の子と違う。小学生について尋ねるのは無礼になりそうだから質問せず、今まで以上に丁重に対応しようと思った。
一緒にいる千紗様も平民ではない。どこの平民が白絹の着物を普段着にすると言うのか。和歌への造詣が深いことから考えても、ただの従者には見えない。高貴な方に仕える近侍か、姫君に準ずる方なのだろう。
侍女が手を動かしながら香澄と千紗の身分について考えている時に、香澄は別のことを考えていた。
湯船に浸からないまま、何度もお湯をかけ流されて、湯浴みが終わりそうだ。蜂蜜で驚かれ、発言に気を付けていたら、石鹸の香りで驚かれるなんて・・。「湯船に浸からないのですか?」という質問は、絶対にしてはいけないと思った。きっと水が貴重だったり、沸かすのが大変だったりするのだろう。
「うちは毎日湯船に浸かりますよ」などと言えば、「姫君」どころではない。何と呼ばれるのやら。もちろん、自慢したい人であれば、ここぞとばかりに言うのだろう。自慢話で喜んでいるのは本人だけで、周囲は凄いなどと思わず、不快に感じて馬鹿にするものだ。私は絶対に自慢話はしたくない。
あれ? 私は「朝、風呂で使いました」と言ってしまった。ここで、朝から風呂に入る子供などいないだろう。失敗した。
「小学生様、湯の湿りをお拭きいたします」
小学生様? ふざけて言っているようには見えない。千紗を見ると笑いをこらえているような顔だ。義務教育がない世界で、小学生の説明をすると、ややこしくなる。もう姫君でも、小学生様でもいいか。でも、これは譲れない。
「大丈夫です。自分で拭けます」
「いいえ、姫君には私どもが拭わせていただくのが習いにございます」
そうか。私を高貴な身分だと思っているから、私が自分で拭いたら、この女性の立場がないのか。「拭かせて」ではなく、「拭わせて」という言葉遣いも敬意が込められている。
「では、お願いします」
「ありがたきお言葉にございます」
いや、少しもありがたい言葉ではないから。
光沢のある布が触れた。拭かれるのではなく、押さえて水分を取る感じだ。吸水性ではパイル織りのタオルに軍配が上がるけれど、これはこれで柔らかくて何かすごい感触だ。
「この布は絹ですか? さらりとして心地いいです」
「通常は麻布ですが、小学生様には絹布の方が相応しいかと思いまして」
「ありがとうございます」
絹の使い方を間違えていますと言いたいのを我慢して流した。
そして、侍女は白麻の衣を広げた。灯の光を受けて、麻布がほのかに透け、清らかな気配をまとっていた。これを着させてもらうのは悪いと思いつつ、着て来た服で布団に入るわけにはいかないから、着させてもらうか・・。
香澄は衣に腕を通しながら呟いた。
「すごく軽いです」
「白麻は、夏の夜の肌に似合います」
天然素材はいいな。口に出せないけれど・・。保温性という面ではポリエステルや、ポリエステルを起毛加工したフリースだが、静電気が起きやすいから、最近は、ユーカリから作られたテンセル、ブナから作られたモダールも人気らしい。
なお、絹がシルクなのは知っている人が多いが、絹がコットンなのは知っている人が減り、麻がリネンなのはもっと知っている人が少ないようだ。
「御座所へご案内いたします」
「はい」
御座所は、流れからして寝室の意味だろう。千紗に聞かなくてもわかる。
御座所では、布で仕立てた間仕切りの几帳の奥に、厚めの敷物である褥があった。
「朝餉の刻に、またお迎えに参りますゆえ、どうぞごゆるりとお休み下さいませ」
「はい。おやすみなさい」
朝餉というのは、永谷園のインスタントみそ汁の「あさげ」ではなく、朝食だ。それくらいは知っている。
侍女が一礼して去った。ようやく普通に会話できる。もちろん、声の大きさには気をつけるが。
「小学生様、今宵はお疲れでしょうから早く休みましょう」
「千紗は真似しなくていいから。それより、ここで寝ていると夕食の時間を過ぎそうだから、一度戻った方がいいかな?」
「寝れば時間は止まるから、朝食後にここを出てからでいいと思うよ」
「そうか。『寝た』から『起きた』までは、ページが進まないから時間が進まないのか」
「そういうことだね」
本の中ならではだ。
「それなら早く寝た方がいいか。あれ? 一度戻ると朝になっている可能性はある?」
「寝るのを飛ばしたいならやめた方がいい。どの時点かは私にはわからないけれど、前の時間に戻る可能性が高いから」
「そうか。そう言えば、常葉さんの時に変なところで繰り返していた記憶がある」
「うんうん」
「前の時間に戻ると言っても、ドクゼリに触れる前までは戻れないよね」
「そうだね。ここに到着した時点で、既に触れていたからね」
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
寝殿造は、化粧屋根裏という構造で天井板は存在しない。木の梁がそのまま見え、木目が浮かび上がっている。これほど早い時間に眠れないと思っていた香澄であったが、木の匂いのせいか、いつのまにか眠りに落ちていた。
香澄は、まだ暗いうちに目覚めた。就寝が早過ぎたせいだ。もう少し明るい時間で、なおかつ、ホテルであれば、館内や周辺を探検するが、貴族の屋敷で暗いうちに探検はできない。
「香澄、起きたの?」
「早く寝過ぎたからね」
千紗を起こしてしまった。
「トイレなら付き合うよ」
「そう言えば、ここに来てから一度も行ってなかった。でも、場所がわからないよね?」
「わかるよ」
わかるのか!
千紗は起き上がると、水盤で出した時の小さな灯明を取り出した。そして、香澄は水盤で思ったことを再び思い、今度は口に出した。
「その灯りは、どこに持っていたの?」
「どこにも持っていなかったよ。ほら、服に仕舞う場所はないよね」
「持っていないのに出せるんだ」
「そう、持っていなくても出せるの。千紗だから」
やはり「千紗だから」という理由で片付けられた。
千紗の灯明を頼りに廊下を歩くと、虫の声と木の軋みが響く。ふと、通りかかったへやの障子の奥から男性の声が漏れた。
「上京などしたくない」
香澄と千紗は足を止めた。そこは夕瑶が亡くなって横たえられている部屋。声の主は朔臣だ。香澄と千紗は目を合わせ、何も聞かなかったことにしようと歩き出した。その瞬間、障子が静かに開いた。
「私たち、トイレへ行くところで、何も聞いていません」という嘘は通じないだろうな。何も聞いていないなら聞いていないという言葉は出て来ない。
あれ? それ以前に「トイレ」は通じないか。厠なら通じるかな。物忌みとか穢れに配慮して、隠語的な別の表現があるのかもしれない。
次回こそ終わりますと書くと伏線になりそうなので書きません。




