10 心あてに 翠露の禍の帖
月光の衣が庭園を覆い、灯篭の淡い炎が縁側の石段の縁を照らしている。和歌で気持ちを伝えあった朔臣と夕瑶が、同じ空気を味わうかのように口を閉じていると、物憂げな蜩の声がしじまを裂いた。香澄は、その声が胸の奥に残りそうな気がした。
夕瑶は香澄と千紗を心配そうな目で見る。
「夜道は心細いから、今宵はこのまま、ここに泊まっていくといいわよ」
現代の日本では、これくらいの時間帯なら子供だけで塾から帰るけれど、ここの治安は違うのだろう。香澄が返事をする前に千紗を見ると、千紗がうなずいた。
「はい。お言葉に甘えさせていただきます」
そう言った後に、普通は帰らなければ家族が心配するのではないかと思ったが、受け入れた直後に撤回するのはおかしい。それにここは本の中で私の家族は心配しないからいいか。
夕瑶は満足げに微笑みながら、香澄の手をそっと取った。
「今夜は、一緒に月を眺めようね。言葉にしなくても、心が通いあうから」
「言葉にせずとも・・」というのは、私が和歌が詠めなくても楽しめるという意味か。
香澄はその手の温もりに、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。ただ、朔臣が上京して離れ離れになると知っている今、泊まるのはさておき、ここにいたらいけないだろう。
「私たちは、お邪魔ですよね。どこかへ行っていましょうか」
夕瑶は、くすっと笑った後に朔臣を見た。
「いや、余計な気は使わないで大丈夫だ。僕たちを結び付けてくれたのは君たちだ。今しばらくここにいてくれ。夕瑶さんも、そう思っているだろう?」
「ええ」
「この庭は夜になると、瘴気が立つこともある。香澄がいてくれれば、夕瑶も安心だ」
瘴気? 邪気は夏渚ちゃんが話していたから知っている。人間の身体には水のように気が流れていて、それが何らかの原因で滞ると悪い気になる。それが邪気だと。瘴気は聞いたことがない。
「瘴気? 邪気とは違うのですか?」
「邪気は人から生まれる。怨念や悪意のような思念の穢れだ。瘴気は湿った場所から立ち上る、病を呼ぶ空気だ。古来より、それを吸うだけで熱に浮かされるという」
夏渚ちゃんが話していた邪気と違う。気功についての研究がされていなくて、神秘的な解釈なのだろう。瘴気は、自然由来で吸うだけで熱に浮かされる? そのようなものは、私がいるだけで安心できるはずがない。まあ、何事もなく過ごせれば・・という朔臣の希望なのだろう。
「悪しき土地の息吹というわけですね」
「そうだ。ここら辺は、かつて沼地だったらしい。今も静かに息をしているのかもしれない」
私がいたら安心どころか、私の身が心配だ。でも、「それなら帰ります」とは言えない。「しおり、しおり」と言って一旦帰っても、登場人物に私の記憶が残ったままふりだしに戻ることは前回学んだ。出直したところで、良い展開になるとは思えない。
朔臣が手元の灯籠を傾け、寄り添う夕瑶の横顔をそっとなぞったのが視界に入った。千紗と私がいるのにと思ったが、もうすぐ離れ離れになるし、千紗と私も月を見ていると思っているのだろう。見なかったことにする。
夕瑶は縁側の縁に腰かけ、袂でそっと色留袖の裾を抑えながら、囁くような声で言った。
「今宵は風が冷たく感じられる。胸の奥が少し重くて」
いつもであれば柔らかな笑みを浮かべる夕瑶が、言葉少なに肩を震わせていた。
「胸の奥が? 何か、心に引っかかることでも?」
「いえ、そういう意味ではなくて・・」
胸の奥とは、心ではなく、体、つまり、胸の奥が少し重いというのは身体の異変ではないだろうか。
「ちょっと手首を失礼します」
「はい」
夕瑶の手首に人差し指・中指・薬指の3本をそっと添え、意識を集中する。「一緒に月を眺めましょう」と触れられた時には手の温もりを感じたのに、手首は冷たくて、少し汗ばんでいる。脈は速くて浅いような気がする。ただの風邪ではないかもしれない。
改めて夕瑶を見ると、目がどこかぼんやりとしている。心がざわっとするよ。
朔臣が香澄の表情に気付いて慌てる。
「どうした? 何か具合が悪いのか?」
「何か少し変です。手が冷たくて、脈が速くて、目がぼんやりとして・・」
朔臣は眉を寄せ、夕瑶の肩に手を添えた。
「そんな・・。さっきまでは普通だったのに」
「少し、横になった方がいいと思います」
「そうだな」
朔臣は、奥に控えていた高位の使用人である女房を手際よく呼び、部屋を整えさせて休ませるように告げた。休ませるのは結構だが、このまま女房が戻って来なかったら困る。
「女房」とは、房(部屋)を与えられるほどの地位に由来するらしい。その他に仕える女性は、衣服や髪などの身の回りの世話をする侍女、雑務をする雑仕女、儀式をする女婦などがいる。
「ちょっと待って下さい。休ませた後に聞きたいことがありますので戻って来て下さい」
「はい。かしこまりました」
夕瑶を連れて女房が下がった。
「女房に何を聞きたいんだ?」
「具合が悪くなった心当たりを聞かないと対応ができません」
「そうか。瘴気だ。祈禱師を呼ばないと」
祈祷師? 瘴気を信じている世界の人だ。その発想は不思議ではないか。祈祷師を呼ぶなとは言わないけれど、医師も呼んでもらわないと。
しばらくすると、女房が戻って来た。
「今、横になられています」
「様子が急に変わりましたが、何か、心当たりはありませんか?」
「朝はお元気で、朝食も、昼食もいつもどおりでした」
女房は少し戸惑いながら語った。
「具合の悪い人と会ったとか、どこかへ行ったとかありませんか?」
「いつものように昼過ぎに夕顔を見に行ったくらいです」
昼過ぎに夕顔? 咲く前も見たいと思ったのだろうか。松葉牡丹は、夕顔と逆に昼咲きの花で、夜になると花を閉じ、1日のうちに花の変化を楽しめる。ちなみに、花言葉は、晴れた日に咲いて曇りや夜では閉じることから「無邪気」、暑さや乾燥に強いことから「忍耐」などがある。
「すみません。しつこいようですが、何かに触れたとかありませんか?」
「そう言えば、水盤のそばで、何かを拾っておられました。それが何かは、私には・・」
「水盤のそばですね。確認しましょう。それから医師を呼んで下さい」
「はい」
「瘴気の可能性もある。祈祷師もだ!」
祈祷師。呼ばずに済まそうと思っていたけれど、朔臣さんが女房に頼んだ。
「かしこまりました」
水盤? 千紗と私が掃除を頼まれたところだろうか。
「水盤というのは、手水鉢や蹲踞のことですか?」
「いいえ。庭の奥にある飾りの水盤です。水盤までの案内をしましょう」
「いや、水盤の場所はわかっている。祈祷師と医師を急いでくれ」
「はい」
1分1秒を争う今、朔臣さんが知っているなら、女房には医師を呼ぶ方を急いで欲しい。
祈祷師と医師か。私は医師と祈祷師と言いなおしたいところだが、医師を呼んでくれるならば、緊急時の今、こだわるところではないだろう。
灯篭を掲げた朔臣に連れられて、香澄と千紗が水盤へ向かう。
「水盤というのは、花を浮かべる装飾用の器なんだよ。手水鉢と蹲踞は手を清めるための実用的なもので違うんだ」
「そうでしたか。それなら私たちは掃除の時にうっかりを触れた可能性はありませんね」
「そうだね。水盤へ行っても何も触れないでくれよ」
「はい」
朔臣が水盤へ慌てて向かわないことから、朔臣は原因が瘴気であると疑っていないのだろう。だが、瘴気であると思ってはいても、祈祷師が来るまでの間に何もせずにはいられず、原因が水盤の近くの何かという香澄の考えに付き合ってくれているようだ。
ただ、水盤について説明してくれたり、注意をしてくれたりするところに、朔臣の優しさを感じた。
水盤に到着すると、千紗が小さな灯明を取り出した。どこに持っていたんだと香澄は思ったが、千紗だからという理由で片付けられそうなので触れない。
水盤の周囲には青梅を思わせる冷たい香りが漂い、2つの光が交錯する水盤には滞留物が揺れている。夕顔の白い花びらや枯れ葉といったところか。原因はこれではない。
「この緑の塊は何だろう?」
千紗が灯明を近付けると、濃い緑色の茎葉の塊が見えた。葉先は細長く、鋭い鋸歯持ち、根元には小さな白い花の跡が見える。
「これはドクゼリ(毒芹)だよ。原因はこれかもしれない」
「ドクゼリ?」
私は夏渚ちゃんから、毒がある植物として聞いたことがあるから知っていた。ドラマや漫画だと、トリカブトや毒キノコが定番であるが、もっと身近なアジサイやスイセンにも毒がある。アジサイはシソと間違えられ、スイセンはニラと間違えられるそうだ。
毒は、知らない人には無害だということはない。少なくとも、自分の生活圏や活動圏の毒は知らなければいけないのだ。でも、朔臣さんは知らないようだ。貴族は、和歌に詠まないような植物を知らないか。
「ドクゼリに含まれるシクトキシンは中枢神経を刺激します。その結果、頻脈、嘔吐、眩暈、痙攣などを引き起こすそうです。水に落ちたことで、その毒の成分が溶け出したのでしょう」
瘴気とか祈祷師とか言っている朔臣さんには、意味がわからなかったとしても、専門用語でもっともらしく伝える方が良いだろう。夏渚ちゃんからは、呼吸困難や意識障害もあると聞いたけれど、不安を煽りたくないから言わないでおいた。
「どうすればいいんだ?」
「解毒薬がなければ、排毒させるしか。屋敷へ急いで戻りましょう」
「ああ」
来た時のようなゆったりさはなく、屋敷へと踵を返した。
屋敷へ到着すると、朔臣が女房を呼んだ。
「この子たちが原因を突き止めました。ドクゼリの毒の可能性があるそうです」
「毒ですか? どうすれば・・」
「とにかく、水分をたくさん飲ませて排毒させて下さい。ただ、身体が冷えるのと、味が単調なのが気になりますから、お湯に柚子と生姜、あれば蜂蜜も加えて飲ませて下さい」
「はい。急いで準備します」
女房は控えめに頷き、縁側を後にした。
柑橘類のビタミンCは、抗酸化や免疫力向上に良い。また、生姜は、血行を促進して体を内側から温める。蜂蜜は、甘い口当たりで飲みやすくするだけでなく、喉の痛みを緩和できる。急いでいる今は余計な説明は不要だ。それに、神経毒性の植物中毒の場合、どれも気休め程度にしかならない。
「蜂蜜は都でもなかなか入手できない貴重なものだよ」
ここにあるかなと思って、蜂蜜と言ったが貴重なものか。私が知っていたらおかしいかな。
「うちもスプーンに何杯も使いませんよ。飲み物に少しだけです」
「飲み物に少し・・」
少しでもおかしかったか。うちは親戚から毎年お中元で蜂蜜、蜂蜜レモン、プロポリスキャンディーのセットが届くし、一升瓶で購入して小分けで使用しているから、蜂蜜を切らしたことはない。
夕瑶の現状はわからないし、朔臣は無言のまま。こういう時の待ち時間は長く感じられる。
何分くらい経過したか。室内から鈴の音と共に、低く詠唱が繰り返され始めた。
「祓え給え、清め給え・・・」
祈祷師の祈祷のようだ。医師は到着したのだろうか。まだなのだろうか。現代の日本でも受験勉強を頑張った後に、最後は神頼みでお参りして合格守りを買う人が多いから、神頼みは否定しないが、原因がドクゼリだとわかっている今は医師だ。
祈祷が聞こえなくなって短い間を置いてから、女房が縁側へ来た。
「部屋へご案内します」
私たちは今日初対面だから、縁側にいようかと思ったら、朔臣さんが「何をしている? 急ぐぞ」という感じで手招きをしたので、千紗と私も部屋へ向かう。2人と話して、原因を特定して、排毒を指示したら、もう部外者ではないか。
案内された部屋の奥には、夕瑶さん、侍女、男性2人がいた。夕瑶さんは目を閉じたままだ。
男性のうち、薄絹の狩衣姿で膝をついているのが医師。携帯用の小さな木製の薬櫃を腰につけている。医師は、薬櫃を開くと、粉薬をすくう風折胸形と、生薬を粉末状にするための乳鉢と乳棒からなる薬研を収納した。薬櫃の中にある小櫃には、青丹色の粉薬がちらりと見えた。あれは毒を中和する調合薬だろうか。
医師は朔臣に静かな声で告げた。
「毒性は強かったですが、胃の中は既に空になっています。温湯を用いれば残留毒は大幅に薄まります。先ほど渡された柚子生姜湯は適切でした」
「こちらの2人がドクゼリを見つけ、柚子生姜湯を指示してくれました」
医師はにわかに微笑んだ。
「原因を特定してくれたおかげで処置が早くできました。それに柚子生姜湯を飲ませてくれたおかげで心身共に和らいでいます。助かりました」
「医師さまが先に到着し、状態を説明しまして、お薬を処方していただきました。その後、祈祷師さまが到着し、医師さまが『祈祷は毒には効かないが、心の安定になる』とのことで祈祷をしていただきました」
女房が経過を説明してくれた。褐色の法衣に身を包み、手に錫杖と鈴を携え、修験者めいている人が祈祷師。医師は、祈祷師と朔臣の立場を救ってくれていた。
「部屋の外で少しいいですか?」
「はい」
片付けを終えた医師が部屋の外で話したいことが? 夕瑶さんは、いつ目覚めるかわからないし、目覚めても寝たふりで聞かれるかもしれない。夕瑶さんに聞かれたら困ることに違いない。こういうのは聞きたくない。それでも、私は部外者ではなくなったから聞かないと・・。
朔臣さん、女房、千紗と私の4人が部屋の外へ出た。
「残留毒は温湯で薄まっていますが、毒の量によっては、これからが正念場です。今宵がヤマかもしれません。朝の時分に再び参ります。何かあれば御声を。お大事に・・」
「はい。お世話様でした」
医師が退出してすぐに、支度を整えた祈祷師が退室して来た。
「これにて一連の祓詞は終え、瘴気は祓われました。どうぞお心静かに、明朝をお待ち下さい」
「はい。お世話様でした」
瘴気祓いで呼ばれた祈祷師は、あくまでも瘴気を祓うのが仕事だ。原因はドクゼリだと判明しても、原因が1つとは限らない。瘴気は目に見えず、もしかすると瘴気もあったかもしれない。だから、祈祷師を批判する必要はない。医師が「(祈祷は)心の安定になる」と言ったように、誰かの心の救いになっていれば、それで良いだろう。
医師が「今夜がヤマかも」と言った後の祈祷師の「瘴気は祓われました」をどう解釈するかは人それぞれだ。私は医師の方を信じたくないけれど、消去法で医師の方に傾いている。朔臣さんは、医師と祈祷師に一礼したが、祈祷師に対する礼の方が深々としていた。
祈祷師が歩くたびに響いていた鈴の音が聞こえなくなり、その余韻も庭木の影へと溶け込んだ。廊下には虫の声、松明の揺らめく炎、それと静かな緊張が残された。
「限りとて」と同じく、序破急で終わらせる予定でしたが、起承転結にします。
「朔臣」の敬称の有無が統一されていないのは、朔臣が第三者視点、朔臣さんが香澄視点だからで、言葉の揺らぎではありません。なお、間違えている場所もある可能性は否定しません。




