第一話
銀河系同士の合流──かつて、それを実際に経験した惑星があった。
名を、フリュッツ星という。
銀河系同士がぶつかると、属する惑星たちの軌道は重力と斥力のゴタゴタに巻き込まれる。
フリュッツ星もその例外ではなかった。
フリュッツ星は太陽からどんどん遠ざかり、このままでは氷河期まっしぐら。
彼らは生き延びるために、惑星ごとワープするという手段を選んだ。
でも、それで終わりではない。
フリュッツ星が抜けたあとの軌道には、重力の空白ができてしまった。
そのままだと周囲の星々に悪影響が出る。
だから彼らは考えた。穴埋めに、同じくらいの質量の惑星をコピーして埋めればいいと。
それでランダムに選ばれたのが、地球。
正確には、私たちが今いるこの星──
地球のコピーで、100年以上前に惑星軌道上に“貼りつけ”られた"テセウス"だ。
全部の部品が置き換えられた時、果たしてそれは同じものだと言えるのか、そのような哲学的な問いかけがあった。
人類は100年以上前にその問題に直面し、それを乗り越えた。その証だてを惑星の名に刻もうと考えたらしい。
湿気を帯びたマスクを外し、鏡の前に立つ。
曇った表面に手をかざすと、内側からヒーターが反応し、じわじわと輪郭が浮かび上がった。
私の肌は、太陽に当たることの少ないこの世界で、それでも熱を逃さぬよう進化した褐色の中間色。
髪は黒に近く、しかし光を浴びるとわずかに赤みを帯びて揺れる。
瞳は淡い琥珀色──融けきらない金と灰が混じりあうその虹彩は、私がどの民族にも属さないことを物語っていた。
数日分の飲水と保存食を手に取り、私は仮設準備施設から出た。
冷気で顔が痛む前にマスクで覆った。
視界の端には外気温や、予備酸素の残像数、同行者の体温など、極限環境でのサバイバルを前提とした情報が映っていた。その向こうにはヴィークルにもたれ掛かるようにして待つ同行者の姿があった。
「お待たせしました」
私が抱えたパックに、彼女──シリル──の視線が滑る。マスク越しでも虹彩の動きは読める。
「……そんなに必要なの?」
「ちょっと多いかなとは思ったんですけど」
私は顎の下に手を添え、考える仕草をした。
「寒いと代謝が上がりますし、念の為多めに持ってきました」
「……"念の為"ね」
遭難という言葉は出さない。必要以上に不安にさせないほうが良い。お互いの為にも。
「ええ、"念の為"です」
私は軽い調子を崩さずに笑う。
「余ったらスープでも作りましょう。」
シリルは小さくため息を吐く。
「そう。楽しみにしとく」
シリルは素っ気なく、興味が無さそうに言った。
「では、そろそろ行きましょうか」
私はヴィークルのサイドに指を這わせ、マグネットロックを解除する。
シリルを助手席に乗せ、私は運転席に座り、マスクとフードを外す。
シリルもマスクとフードを外す。そこに現れた顔は、あまりに均整が取れすぎており、最初は錯覚かと思った。
透き通るような白い肌、雪のような銀髪、わずかに青みを帯びた虹彩。
どこからどう見ても美しかった──あまりに、整いすぎていて。
まるで、誰かの理想像を現実に引っ張り出してきたような。
ヴァレリー「昔、渾沌っていう神がいて……目も鼻も口も耳もなかったんです」
シリル「それって、死んでるってことじゃ……?」
ヴァレリー「生きてました。でも、それを“便利にしてあげよう”って王様たちが目や鼻を彫ってあげたら──死んじゃった」
シリルは眉をひそめる。
「つまり……私たちは、自然から逸脱してるってこと?」
「逆ですよ」
私は、真正面からシリルの目を見て言い切った。
「地球人も、フリュッツ人も。どんな設計がされてたって、どんな人工物であっても……自然が生み出したものです」
シリル「じゃあ、私のこの顔も?」
私は少し違和感を覚えつつも応答しようとする。
ヴァレリー「ええ。あなたの顔が“自然じゃない”って誰が言ったんです?」
シリルはそっぽを向き何も答えなかった。耳の先が少し赤くなっていた
水切りという昔の遊び──平たい石が川面を斜めに弾きながら進む──に似た原理。
ヴィークルの下に取り付けられたスキー板が、雪や地面に含まれる鉄分を磁力で"蹴り出す"ことで推進力を得ている。
「ヴィークルじゃなくて、スノーノーツね」
「でも、乗り物ですよね?」
「…そうだけど…」
「ならヴィークル(乗り物)ですよね?」
「もうそれでいいよ」
シリルは頭を抱えている。何か間違ったことを言ってしまっただろうか?
聞こうとした矢先シリルが神妙な面持ちで口を開く。
「あの、お手洗いはあるの?」
「大ですか?小ですか?」
シリルは恥ずかしそうに顔を赤らめながら答えた。
「……言わなきゃだめ?」
「もちろん。命に関わることなので」
「えっ?……そんなに重要?えっと……」
彼女は一度黙り、視線を落とした。
「……小……」
「なら、そのまま出して大丈夫ですよ。ちゃんと濾過されますから」
「え、出して……って?」
「いざという時は飲料水にもなります。不純物は全部弾かれます。匂いもしません」
「飲料って…信じられない……」
「雪や氷よりも清潔です。カルキ臭さもありません」
「カルキ……」
「“汚物を破壊するもの”って意味の、ヴィシュヌのアバターが由来です。……失礼しました、興味ないですよね」
ヴィークルが雪原を滑るように進む。磁力が雪の中の鉄分を蹴り、一定のリズムで車体が揺れる。
外気温は氷点下四十度。地表は数日前の嵐の名残を薄く残していたが、風紋の向こうに規則的な窪みがあるのが見えた。
「……あれって、足跡?」
シリルが、運転席の私に身を寄せながら窓の外を覗き込む。
「ええ、たぶん。けどあれは…」
私はインターフェースを操作し、ルートマップに足跡の座標と過去のデータを照合する。
すると、違和感の正体に気がついた。
「ああ、これは先週私が狩った個体のルートを引き継いでいますね」
「自律判断で故障個体のルートを回収するというアレ?」
「ええ、アレです。シリルさんこっそり勉強しました?」
少しだけシリルの顔がこわばる。
何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。狩りが終わった後で謝ろう、私はそう決意した。