#07 お祭りランアップ
そっとした気配に振り返れば十月がもうすぐ終わる。
羽織物を肩かける女の子をよく見かけるようになるのは、高校でも学園でも同じだった。
今年の夏は終わりにむかえばむかうほど、あたしを困らせて遊んでいるように思えた。
ラヴィさまと長月の手紙の往復はずっと続いていて、二人ともあえてどうでもいい内容を心がけているようだった。
でもそれが、まさに平凡な恋人同士のやりとりといった感じで、郵便ポストのあたしまで恥ずかしくなってしまう。
長月は「その時がきたら教える」とだけあたしと弥生に伝えて、それ以上のことは触れて欲しくない様子だった。
そのことをラヴィさまに伝えると、彼女はいつもの真っ直ぐな瞳で「そう」とだけ反応した。
ラヴィさまの熱はずっと高くなり、沸点さえ凌駕しすぐにでも燃え尽きてしまいそうだった。
‥‥長月が無くなったら、本当にラヴィさまは燃え尽きてしまうかも知れない。
あたしは二人を出会わせたことを後悔していて、罪悪感を覚えずにはいられなかった。
しかし、あたしが謝罪なんてしようものなら、ラヴィさまも長月も、弥生でさえも呆れてしまうだろう。
あたしにだって分かっている‥‥この恋のどこにも悪意は存在しない、って。
だから、あたしは自分を殺して世界を渡す郵便ポストの役割を演じることだけに集中する。
“その時“はそれほど待たずにやってくることを、たぶんみんな理解していた。
弥生は放課後になると軽音部の練習に参加するようになっていた。
文化祭のステージは模擬店の中心部に設置されていて、どこからでも観れるためそれなりに注目度は高い。
オドオドしてうつ向きがちの弥生が、あそこに立ってバンド演奏するなんて想像もつかないけど、フォークギターの彼が近くにいれば大丈夫だろうという謎の安心感があった。
軽音部の練習をこっそりとのぞきに行ったら、弥生と彼が二人で練習していて、風になびくカーテンや音楽室の埃っぽさが少女漫画の一コマのようだった。
ちなみに、弥生のマジカルラブリーは80%‥‥うん、正真正銘の恋だよ。
そして、男の子のマジカルラブリーが見えないあたしですら、フォークギターの彼が弥生に夢中になっていることは明らかだった。
あの日、ラヴィさまとセッションをした弥生は、あたしからみても凄まじくて魅力的だった。
今になって思うと、弥生は長月が無くなることにどうしたらいいのか分からず、感情の吐け口を探していたんだと思う。
あれは魂の叫びだったのだ、きっと。
親友の結奈とナルシアについても話しておこう。
彼女たちはお互いの前世の記憶を、少しずつ思い出していっており、パズルを組み立てるようにころりと笑みを浮かべてあたしに教えてくれる。
結奈はもう自分がナルシアだったと確信していて、ナルシアも自分が結奈だったと確信している。
学園宮殿の庭園でナルシアから旅館街に漂う温泉の匂いや、無駄に多い坂道や、小さめの白い漁船の話を聞くと、目の前に結奈がいて、あたしはマリアじゃなくなり、まりあになってしまう錯覚すら起こした。
それは結奈が学園宮殿の暮らしを語る時も同じだった。
いつも隣にいた二人の親友が、過去か未来かの同一人物であると信じていけばいくほど、クロちゃんの忠告が蘇って頭に響く。
──運命は変えてはならんぞ。
運命ってなんなんだろう。
神様が勝手に決めた試練とでも言うのなら、冗談の一つや二つを交えながら後ろ蹴りぶっ放して土をつけてやりたい。
嫌な予感はしているんだ。
「今日は早く落ちきました。まりあさん、散歩に行きませんか?」
浴衣姿のお母さんがあたしの部屋にやって来るなり、そう口にした。
あたしは断る理由もなかったので、「いいよ」と言ってテレビの電源を消した。
薄雲に隠れても冴えた光を放つ月夜だった。
サンダルと草履を引きずる音が交互に響き、雑木林の中にしんと沈んでいく。
「コンビニ?」
あたしはそう言った。お母さんの散歩はだいたい決まって近くのコンビニでちょっとした買い物をすることだった。
「はい、本当は旅行にでも連れていってあげたいのですが‥‥」
お母さんは残念そうに語尾を細くしていく。
あたしは家族旅行に行きたいと思ったことなんてないし、寂しいと感じたこともない。
中学に上がるまでは、家におじいちゃんが居て、ずっとあたしの面倒を見てくれていた。
おじいちゃんはテレビが大好きで、あたしもその影響をしっかりと受けて育った。
「旅行なんていいよ、見たい番組が多すぎてそんな余裕ないよ」
「本当にテレビが好きですね」
あたしは緩い傾斜に逆らうようにお母さんの手を握る。
「うん、最近は千鳥の相席食堂が面白くてね。あと、アメトーークも宮迫がいなくなったから素直に楽しめるようになった」
「え、宮迫さんっていなくなったのですか?」
「そうだよ、雨上がり決死隊は解散したよ」
「まあ、気の毒ですね」
「ホトちゃんは気の毒だけど、宮迫は自業自得だよ」
「まりあさんはいろんなことを知っていますね」
お母さんは娘を誇るように平然と口にした。
あたしからすると、お母さんもお父さんも外の出来事に興味がなくて、魚の鮮度と天候のことしか気にして生きていないような人だった。
二人とも高校を卒業する前から旅館で働いており、遊びも勉強も知らないまま大人になってしまったのだと、そんな育て方をしたおじいちゃんが教えてくれた。ちなみに、お父さんは婿養子で昔から寡黙だったらしい。
「また、私とお父さんのことを探っていますね」
お母さんが腕を少しだけ振って言った。
「すごいな、なんでバレちゃうんだろう」
あたしにマジカルラブリーが見えるのと同じように、お母さんは勘がいい。
「まりあさんは顔にでやすいだけです」
電柱街灯が増えてきて、町らしい明るい道に変わっていく。
遠くから若い観光客のはしゃいだ声が聞こえる。
「あたしって継がなくていいのかな?」
考えなかったわけじゃないが、最近の慌ただしさのせいか、ふと口からこぼしてしまった。
お母さんはまるで用意していたように間も置かず答える。
「好きにしてください、もうそんな時代じゃありませんから」
「でも、うちってこの辺でも一番古い旅館なんでしょ? やめちゃっていいのかな」
小旅館吉野家は江戸時代の末期から存続する歴史のある旅館だった。
お忍びで政治家なんかも宿泊しにきたりして、いつも予約でいっぱいだった。
「いいんですよ、だってまりあさんが女将をしている姿なんか全く想像できないんですもの」
「それひどくない?」
お母さんがくすくすと上品に笑ってみせた。
あたしは「もう」と言って、一歩前を歩く。
周りの景観に合っていないファミリーマートのよそ者の光が目の前に現れた。
あたしは帰りは何を話そうって、もう考え始めている。
お母さんが少し先を行くあたしの腕を引っ張って口にした。
「危ないことはしないでくださいね」
あたしは「うん」としか答えられなかった。
マリアのあたしは月光を頼りに本を読もうと開けたが、珍しく脳ちゃんが部屋にいてふと閃いてこう口にする。
「脳ちゃん、夜の散歩しない?」
音もなく宙に浮かんでいた脳ちゃんが「ほえ」と気の抜けた声をあげる。
「急にどうしたの?」
脳ちゃんが近づいてきて、目の前をゆらゆらと漂う。
「今日はね、ママと散歩したい気分なの」
「別にいいけど‥‥夜更かしはダメだからね」
「はいはい」
こういうやりとりをすると、本当に脳ちゃんはあたしのママだったんだって気付いてしまう。
パジャマのままスリッパを履いて、息を止めて学園寮塔から抜け出した。
外出禁止なんて規則はないけども、学園宮殿が寝静まるこの時間に外を出歩くなんて普通はしない。
普通はしないということは、キゾクにとってはルールというよりも法律なのだった。
「脳ちゃん、ドキドキするね」
寮塔の玄関を越えて、整備された河川を辿りながらあたしは興奮していた。
「わたしは一人でよく散歩してるからね、慣れたもんよ」
空気を震わせて脳みその彼女は当たり前のように口にした。
「ずっと近くにいたんだよね。なんで、姿を見せてくれなかったの?」
姿を見せてくれていたら、脳ちゃんが一人で過ごす時間はきっと減ったはずだ。
「シオンは親馬鹿でマリアにだけは逆らえなかったからね‥‥記憶を隠してしまって、何も知らないままここで幸せに暮らして欲しかったのよ‥‥わたしもマリアには甘いからなあ。ずっと一緒にいたら、口が滑っちゃうし」
幽かなせせらぎに脳ちゃんの声はよく似合っていた。
「脳ちゃんが一緒だったら、もっと楽しい学園生活送れたのになあ」
いじけて小石を蹴ると、チャポンと川に落ちる‥‥「いたっ」スリッパでやることじゃなかった。
「何してんのよ‥‥これでよかったのよ。あなたはキゾクのマリアよ、それでいいじゃない」
やっぱり脳ちゃんはこのことについて、語るつもりはないようだった。
「脳ちゃんってさ、シオンのこと好きなの?」
あたしは気になっていた、脳ちゃんが“シオン“って口にする度、収まっている容器からわずかな熱気を放出することを。
「‥‥‥」
「ほら、熱くなった」
脳ちゃんは顔を隠すように、前を飛んでいく。
「知らないっ」
「待ってよー」
あたしは脳ちゃんを追いかけて、あっという間に追いついてみせる。
島の端から見える海原は、その言葉が持つ意味の通り、“果て“が見えていた。
果ては闇ではなくて虹彩で、しかし見つめるとその先はないことを直感させた。
「ほんっと、マリアって夜目が効くんだから」
あたしは崖に腰を下ろして、夜の海に足を投げる。
「そういえば夜でもあんまし気にならないかも」
「そりゃあそうよ」
「あ、誤魔化そうとしてる! シオンのこと好きなんでしょ?」
脳ちゃんが隣の地面に着地して、「はぁーあ」ってわざとらしいため息をつく。
「‥‥好きよ」
脳ちゃんがこっそりと言った。
「どこが?」
あたしは顔がにやけてしまう。
「みんなに優しいところ。他人に好かれるところ。諦めないところ。陽気なくせに頑固なところ。弱虫のくせに泣かないところ。わたしにだけ特別‥‥優しいところ」
「脳ちゃんのマジカルラブリーは‥‥なんと90%! 恋してるねえ」
あたしがすかさず判定すると、脳ちゃんが飛び上がって言い返す。
「それなんなのよ! バイタルの乱れもないし、脳波も通常だし。いつそんな特技覚えたの?」
「いつって‥‥物心ついた時から?」
「マリアは危なっかしいんだから」
「あたしってそう見えるの?」
「すぐどこかに行っちゃうし、誰とでも仲良しになっちゃうし、夜更かしする癖に早起きだし‥‥昔から、ずっと危ういわよ」
「さっき、あっちの世界のお母さんにも『危ないことするな』って言われちゃった」
「わたしはマリアが二人いるなんて信じてないからね」
「どうして?」
「マリアは‥‥マリアは‥‥わたしとシオンの娘は一人だけよ」
あたしは気になったことをそのまま口にする。
「ってことは、脳ちゃんとシオンはできてんの?」
「で、で、で‥‥」
「デデデの大王?」
「できてないわよ! 見たらわかるでしょ、わたしは脳みそよ‥‥人間と恋なんてできるわけないでしょ」
「じゃあ、あたしはどうやって生まれたんだろう」
「拾ったのよ‥‥あ、もう! これ以上は教えないからね!」
あたしは物心ついた時にはこの世界ではキゾクのマリアで、学園宮殿で暮らしていた。
学園宮殿のキゾクに両親はいなくて、学園宮殿のシステムの中で生活を送るのが当たり前だった。
あっちの世界では子供は男と女から産まれるものだけど、こっちでは子供は元々いるものだった。
だから、拾ったというのもおかしな話だ。それが本当ならあたしには3人目がいることになってしまう。
「まあ、どうでもいいや‥‥脳ちゃんはシオンに会いたくないの?」
つながっていない3人目に思いを巡らせても、気疲れするだけだ。
「‥‥分からない、これはシオンが望んでいることだから」
脳ちゃんの容器がわずかな冷気を吐き出した。
「脳ちゃんの気持ちは?」
「そりゃ会いたいわよ、当然でしょ」
虹彩の果てを見つめると、何故かシオンはあの向こう側にいるような気がした。
そしたら、この島が砂の城のように波にさらわれて、そのまま海に溶け込むように感じた。
珍しく、というか初めて朝の駐輪場でデブでブスな安田と鉢合わせた。
「安田じゃん、どっしたのボーッとしてさ」
あたしは自転車のスタンドを立てて言った。
「‥‥まりあかぁ」
安田はハンドルを握ったまま動かない。
「体調悪いの?」
あたしは安田の自転車を代わりに支える。
「あのよぉ‥‥坂下がよぉ‥‥」
彼女にあまりないモゴモゴとしてはっきりしない様子だった。
「コンビの相方がどうしたのよ?」
「いやよぉ‥‥あいつさぁ、やっぱりやめたいって言ってきてよぉ、そのままコンビは解散したぜぇ」
あたしは安田の両肩を掴んで、声を荒げる。
「そんなの関係ねえーってぶん殴って無理やりやらせなよ!」
安田は「朝からうるせえなぁ」と腫れぼったい目を伏せて続ける。
「私は人見知りなんだよぉ、まりあみたいに強引にはなれない」
「安田、ずっとノートにネタ書いて頑張ってたじゃん! こんなのひどいよ」
「なんでまりあが怒るんだよぉ」
「あたしが坂下にキレるよ!」
安田があたしの手を払いのけて、不機嫌に鼻を鳴らす。
「いいってば‥‥坂下さ、台本渡しても覚えてこないし、練習も全然してくれないしよぉ。最初から、あいつと漫才やるなんて無理だったんだ」
「あたし、安田の漫才見たかったんだよ」
安田がカバンからスマホを取り出して、おもむろに操作してあたしに手渡した。
「これ、ネタなんだけどよぉ‥‥ツッコミのところ読んでみてくれよぉ。この台本を成仏させてやって欲しいぜぇ」
あたしは「うん」って頷いて、スマホに表示されたテキストを読み上げる。
「最近、地震多いじゃないですか」ってあたし。
「私ね、緊急地震速報の音が苦手なんですよ」って安田。
「それ分かるわあ、チャラン〜チャラン♪ってチャイム音、あたしも苦手ですわ」
「それでね、あのチャイム音、違うのに変えた方が心臓にはいいと思うんです」
「まあ、確かにそうかも知れんな」
「『緊急地震速報です。強い揺れに注意してください』って言ってみて」
「分かった、その後に心臓に優しいチャイム音をしてくれるわけやな」
「そうそう」
「‥‥緊急地震速報です。強い揺れに注意してください‥‥」
安田が両腕両足を広げて、早朝にも関わらず大きな声を張る。
「オッパピー、オッパピー、オッパピー」
「小島よしおじゃねーか!」
安田が脱力して、はぁはぁと息を整える。
あたしには安田の気持ちが痛いほど分かる。
「‥‥そうだよね、坂下ってオッパピーしかできないもんね」
「だぜぇ‥‥いろんな状況に合わせて、ただオッパピーをするってだけのネタだ」
「まあ、坂下のこと知ってる人は笑えるかもね。キャラが入ってるし」
「漫才‥‥難しかったなぁ」
あたしと安田がネタの成仏に黄昏ていると、不意に空気そのまんまのような小さな声がする。
「安田さん、漫才の練習してるの?」
あたしと安田が同時に目をやると、そこには肌の色素が薄い井上先輩がいた。
あたしは教室の窓からしか見たことがなく、近くで確認すると井上先輩は線の細い小柄な男の子だった。
「あ‥‥いやぁ‥‥ま、そうっす」
安田が挙動不審にそう答えた。
安田と井上先輩が並ぶと、太っている彼女は余計大きく見えてしまう。
「頑張ってね、楽しみにしてるから」
井上先輩はそう言って、校舎の方へと歩いて行った。
先輩を見送っていると、安田が消え入りそうな声でボソボソと語りだす。
「中学校が一緒だったんだ‥‥私よぉ、保健室登校しててさぁ。井上先輩も体弱くて、いつも保健室にいてよぉ。それで、話すぐらいの仲になったんだ‥‥私がこの高校選んだのも、先輩がいるからだぜぇ、キモいだろ?」
「大丈夫だよ、安田はもうこれ以上ないぐらいキモいから」
「まりあのそういうところ尊敬するよ‥‥先輩、文化祭実行委員やっててよぉ、こんな私が漫才するって知ったら本気で嬉しそうに『応援する』って言ってくれたんだぜぇ」
「‥‥そっか」
あたしは余計なことは口に出さず、ただ安田の言葉を待った。
安田は腰に手を当てて、捻り潰した声でこう口にする。
「あのよぉ‥‥まりあ、私と漫才してくれないか?」
「うん、いいよ」
「‥‥サンキューな」
「そこは、パンサーの尾形みたいに『サンキューー!』でしょ?」
「冗談も言えねえよぉ‥‥本当にありがとう」
「よろしくな、相方」
「‥‥おう」
お祭りの助走はすでに始まっている。