#05 アフロディーテの手紙
結奈とナルシアが思い出した前世の記憶は、断片的でまとまりのない曖昧なものだった。
『もう一人の自分が欲しい』そんな願望を叶えるために二人は自分に暗示をかけたようにも思えた。
しかし、結奈からキゾクの暮らしている光景を聞き、ナルシアから女子高生の暮らしている光景を聞くと、そう簡単には片付けられなかった。
制服のデザインや、十字に流れる運河や、一車両しかやってこない電車や。
そういった細部まで二人は語ってみせるのだ‥‥あたししか知り得ないもう一つの世界の細部を。
結奈とナルシア‥‥どちらもお互いを“前世の自分“と呼び、あきらとアーフェンを運命の人だって断言した。
あたしは二人いて、まりあとマリアは今もこうして生きている。
だけど、結奈とナルシアはお互いを過去の自分だと認識していて、それはつまり‥‥。
──死んでいなくなってしまったということだった。
結奈もナルシアもそのことを、遠い国で飛行機が落ちたような言い仕草でなんとも思っていないようだった。
あたしは素直に言えば、よく分からなかった。
だって、物心つけた時には二人いて、絶対に交わらない二つの世界で生きていた。
‥‥絶対に交わらない。
それが、親友の記憶を通じてつながりをのぞかせることは、簡単には受け入れられなかった。
結奈とナルシアが前世でつながっていることが、いいことなのか悪いことなのか判断がつかない。
誰かに話を聞いて欲しくなって、まりあのあたしは夕暮れの堤防に膝を抱えて座っていた。
隣に居座る大きな灰猫は歓迎もしなければ、どこかに行けとも言わない。
ただ、海のはるか彼方の水平線を見つめて、黙々とこの場所を守っていた。
「ねえ、師範‥‥あたしの親友がね、前世を思い出しだんだ。これって嬉しいこと?」
「にゃん(難しいな)」
師範の細い毛に柔らかい赤みを帯びた光があたって白くとばしていた。
「前世を思い出すって、いい出来事なのか、よくない出来事なのか分からないの」
「にゃん(そうだな)」
「ってかね、あたしって一体なんなんだろう‥‥ちょっと考えたら、二つの世界に同時に二人の自分が存在するなんて、おかしいよね?」
「にゃん(そうか?)」
「おかしくないかな?」
「にゃん(お前らしいと思うがな)」
「二人いることがあたしらしいの?」
「にゃん(そうだな)」
あたしは師範のアゴを撫でて、「本当?」って口にする。
「にゃん(俺は嘘つかない)」
淡々とそう口にして、あたしの全てを受け入れてくれた師範に抱きつきたくなった、そんな瞬間。
不意にあたしの長くなった黒髪が無造作に動き、首に絡みついて襲いかかってきた。
「うげぇ‥‥クロちゃんどうしたの? 苦しいって」
あたしが溺れた声でそう言うと、クロちゃんが頭の中に語りかけてくる。
(‥‥まりあ‥‥いいかい‥‥絶対に‥‥運命は変えて‥‥ならんぞ‥‥)
これまでで一番はっきりと聞こえたクロちゃんの言葉だった。
「運命ってなんなの?」
(‥‥決められた‥‥世界の形‥‥)
「変えたらどうなるの?」
髪の毛は明確な別の意思を持って不規則になびいてみせる。
(‥‥運命を変えた者は世界から忘れ去られ‥‥消える‥‥)
そう言い残して、髪の毛は首から解けて電池が切れたように停止した。
「にゃん(お節介な小娘だな)」
師範は独り言のようにそっと鳴いた。
長月へ
私は朝食が好きです。
朝、食べるという行為が好きなのです。
生かされていると感じるから。
ごめんなさい、
返事をもらうまで長月の存在を
疑っていました。
私は用心深い女なのです。
もう、長月は在ると信じました。
鳥の歌は私も聞いたことありません。
長月はどんな顔をしていますか?
指は長いですか?
爪は綺麗にしていますか?
星を見るのが嫌いならば、
私が代わりに星の美しさを伝えましょう。
でも、手紙には書けません。
星のことで埋めてしまうのは
もったいないと思ってしまいました。
ラヴィ
まりあのあたしは早朝の教室で、安田の顔を見て猛烈な安堵に胸の落ち着きを取り戻した。
こんなあたしでも日々繰り返す営みが変化していくとざわつきを感じずにはいられないのだ。
「おはよー、安田」
激しい貧乏ゆすりに机椅子をふるわせ、眉間の脂肪をもっちりと険しくさせた安田は不機嫌に言い返す。
「まりあぁ、今日はいつもより早いなぁ」
いつも通りのデブでブスな安田にたまらなくなって、日常を思い出す。
「そんなに揺れて、アブトロニックでも始めた?」
あたしは椅子を反転させて、安田にそう言った。
「アブトロニックもアブトロジムもアブソリュートもアブトロスポットもやってねーよ!」
安田が早口で言い返してくる。
「お前はアブトロ村の住人か」
「なんだその雑なツッコミは」
「ってか、安田アブトロに詳しくない? もしかしてやってんの、アブトロ」
「下條アトムみたいな名前で呼ぶな。まあ、アブトロの安いの買ったことあるよ」
「へえ、アブトロってどんな感じなの?」
安田が「こんな感じ」と口にして。
「ブロロロロロォォォ」
と、太った顔を歪ませてブルブルと振った。
「アハハッ、やめてよ、震度5強ぐらいあるよ、その顔面の揺れ」
顔芸もなんなくこなす安田はやっぱり笑える。
「ブロロロロロォォォ」
「その運動量で痩せないって、安田アブトロ、どんだけ食ってんだ!」
ブルブルをやめた安田が「はぁ、はぁ」と息を乱してこう言った。
「‥‥クラクラする、酸素足りなくてオチ浮かばないわぁ」
「なんか、炙りトロが食べたくなった」
「アブトロなだけにな」
「うーん、このオチは微妙だったね」
「そうだなぁ‥‥」
ルーティンが終わると、安田は何気ない動作で窓の外へ目をやる。
あたしは安田の恋を知っている。
駐輪場から校舎までの1分にも満たない道で、教室の窓から井上先輩の姿が視界に入るのはほんの一瞬だった。
安田はその一瞬のためだけに、あたしよりも早く登校して、一人の教室で時間を潰している。
このほんの一瞬だけ、彼女は女になる。
お笑いも、デブでブスな外見も忘れて、彼女は女の顔をして井上先輩に熱を帯びた眼差しを向ける。
‥‥誰にも気付かれないように。
まるで、この恋が犯してはならない禁忌のように安田は決して口にしない。
目の前にいるあたしは間を埋めるために爪を眺めて気付いていないふりをする。
空気をよむことが得意な安田は気付かないふりをする、あたしに気付いている。
気付いているけど、あたしも安田もこの恋を口には出さない。
「あのよぉ、文化祭で漫才やることになったんだぁ」
窓から視線を戻した安田がそう口にした。
「マジか! 誰とすんの?」
あたしが身を乗り出して言った。
「三組の坂下とだよぉ‥‥なんか、誘われてよぉ」
「坂下って、小島よしおのモノマネしかできない“オッパピー“でしょ?」
「そうそう、あのオッパピーから漫才しようって誘われたんだぁ」
「あいつ勢いだけだからなあ‥‥オッパピーが笑えるのは小島よしおだけだよね」
「しかもあのオッパピーよぉ、台本は私に書けって無茶ぶりしてきてよぉ」
「オッパピーしかできないくせに、ネタも作れってかなりめちゃめちゃね」
「でもよぉ、こんな機会ないしやってみようと思うんだぁ」
「オッパピーでもセンスはあるみたいだし、頑張りなよ」
「ん? オッパピーにセンスはないだろぉ」
「あるよ、この学校で一番面白い奴を相方に選んだんだもん」
安田はぎょっとしたリアクションを誤魔化すようにボソリと呟いた。
「‥‥オッパピー」
ラヴィへ
食事はしません。
弥生は食べるのが大好きなので、
俺には食べさせてくれません。
いや、俺は食べなくても平気です。
どんな顔か‥‥う〜ん、難しい。
俺には体がありません。
弥生の体を借りているだけです。
弥生は間抜けな顔しています。
指は男よりも長く、爪はいつも綺麗です。
ピアノを弾く時だけ、
切れ味のいい刀のような顔をします。
それはカッコイイと思います。
星を久しぶりに見ました。
だから、手紙に書く必要はありません。
在ると信じてくれて、嬉しいです。
長月
祝祭の気配がすると、学園宮殿の石壁は忙しない息を吐き出した。
虹蛍高校の文化祭と、学園宮殿の祝祭は11月の同じ日に開催される。
耳を澄ませれば、キゾクたちが興奮したように模擬店の打ち合わせや、舞台で何を発表するか、そんな話が聞いてとれる。
とんでもなく高い天井の廊下、まだ食堂に向かう正午だった。
マリアのあたしは、なんでこんな状況になったのか。
──あたしはコルタナに“壁ドン“されていた。
「すまない、しばらくこうしていて欲しい」
表情のないコルタナにしては珍しい、焦った口調だった。
「別にいいけど、どっしたの?」
身長の高低差があって、あたしはコルタナの顔を見上げると、ラクダのように長いまつ毛がそこにあった。
「変な男に付きまとわれて困ってる」
「え、うそ? キゾクにそんな礼儀知らずがいるなんて許せないわ」
「いや、僕も悪いんだ。軽はずみなことをしてしまった、反省している」
「一体なにを──」
あたしがそう言いかけた時、音楽室でお馴染みのバッハの髪型をしたまさに貴族な風貌な男がドタドタと走ってやってきた。
男は“キゾク“ではなく少女漫画に出てくるような意地悪な“貴族“だった。
「ジュッ‥‥テーーーム! 麗しのコルタナ嬢、なにゆえお逃げになるか!?」
シェイクスピアの喜劇の口調で通称バッハ君は、身振り手振りを交えて響き渡る声で言った。
「み、見て分からないか? 僕は‥‥口説いている最中で、彼女に夢中だ。君には興味もない」
コルタナは焦ると瞬きの回数が多くなるようだ。
あたしはしばらく静観を決め込む、おもしろそうだから。
「コルタナ嬢! お気づきになりませんか、そのうす胸に隠しているのは女の子ですぞ!」
「男か女かは僕が決める、大人にも決めさせない」
「女のくせになにをおっしゃるか!」
「僕は無機質で、この体は仮ものだ。それは、君も同じだろう」
「無機質なんてとんでもない! コルタナ嬢はお母さんのように女性らしいではありませんか!」
バッハ君は女の地雷を踏みまくる、キゾクには珍しいタイプの男の子で変な奴だった。
女の地雷を知らないコルタナとでは、絶妙に会話の歯車が噛み合っていて、なんだかおかしくて笑ってしまう。
「くっ‥‥すまない、マリア‥‥あとはまかせた!」
コルタナが壁から手を離して、勢いよく走り去っていった。
「ジュッ‥‥テーーーム!」
駆け出すバッハ君を仕方がなく呼び止める。
「ちょっと待った! どうしてコルタナを追いかけるの?」
バッハ君はふむふむと立ち止まり、腰をクネクネ振ってキモい動きをする。
「アクシデントに登録して5年余り‥‥ようやく、条件の合った女性に巡り会えたのです!」
アクシデントは“お互いの条件“が合って、初めて偶然に出会うことができるはずだった。
つまり、コルタナもバッハ君のような男の子を条件にしていたことになる。
「あれ、でもなんでコルタナは逃げてんだろ」
「それは、私が聞きたいですぞ! ジュッ‥‥テーーーム!」
「今度、あたしからコルタナに聞いてみるよ。とりあえず逃げる女の子を追いかけるのはやめなさい」
バッハ君が偉そうな振る舞いでこう口にする。
「約束ですぞ!」
「それで、えっとあなたの名前教えてよ」
「私の名前は、アルバトロ・デラロサール・バレンティン・フィリラデル・カモンベール──」
「なげえよ!」
コルタナとは一度ゆっくりと話をしてみたいと思っていたので、これはいい機会だと思った。
そして、目の前のクネクネと動くキゾクらしからぬ貴族風な男の子が、安田とコンビを組んだら楽しい漫才ができるだろうな、って考えていた。
長月へ
不躾な質問をしてしまったと
後悔しています。
長月の事情をもっと考慮すべきでした。
私は正気じゃないようです。
心が躍り、鼓動が速くなり、
もし長月が突然あらわれたとしたら
言葉を失うでしょう。
皮膚の下には炎が走り、
耳には高鳴りしか聞こえないでしょう。
まもなく恋をしてしまいました。
こんな恋を望んでいたはずなのに
私は救いを求めてしまっている。
どうか、今すぐ私の元に来てください。
心の願いを叶えてください。
言葉にしないと死んでしまいそうで
不安になり残してしまいました。
お気になさらないでください。
ラヴィ
ラヴィへ
死なないでください。
俺は近いうちに無くなります。
これは、しょうがないことです。
そんな気はしていました。
弥生の中に俺がいる隙間はもうありません。
だから、俺は焦っていました。
弥生のためにできることを探していました。
まりあと会えたことは、本当に幸運でした。
弥生は最近、楽しそうです。
俺が無くなっても、もう平気だと思います。
無くなったら、ラヴィの元に行きたいです。
俺のことを在るって言ってくれました。
俺に恋をしていると言ってくれました。
ラヴィがどんな女の子なのか気になります。
無くなる前に最高の思い出をくれました。
俺もたぶん、恋をしてるんだと思います。
長月
放課後、あたしと弥生は無人駅のベンチに座っていた。
木製のベンチはコンクリートの地面とくっついており、おかげで背中を預けることができた。
後ろは海だった。
前は庭の広い民家の生垣があって、左右は森で、高いところに高校が見えた。
この無人駅を利用する人は少ない。
町のほうに大きな駅があって、そこから自転車かシャトルバスで通学する生徒が殆どだった。
一車両しかない電車が無人駅に停車し、すぐに発車した。
電車は海の上を走って行く。
二人ともそうしたほうがいいような気がして、ただ電車を見送って弥生は乗らなかった。
次の電車までは三十分以上ある。
「私って間抜けな顔してるかな」
弥生が感情を隠すように言った。
「うん、してるよ」
あたしも感情を表に出さないように言った。
「ひどいなあ‥‥ねえ、まりあさん。たぶん、長月そろそろいなくなる」
「知ってたの?」
「ううん、知らなかった。長月はひねくれてるから、教えてくれなかった」
「そっか‥‥難しいね」
「‥‥うん」
弥生が「いなくなる」とはっきり口にしたのを聞いて、長月がいなくなることを弥生はどうしようもできないんだって分かった。
「これって、死ぬってことなのかな?」
弥生が言った。
「人間の平均寿命って80年ぐらいなんだって」
あたしは言った。
「それぐらい知っているよ」って弥生。
「犬は18年、猫は15年‥‥野良猫だと8年ぐらいかな」
「うん」
「ネズミは3年、ウサギは6年、ライオンは13年」
「え、ライオンってそんなにはやく死んじゃうんだ」
「カラスは24年、フクロウは32年、鳩は27年」
「カラスも鳩も長生きなだあ、そりゃよく見かけるよね」
あたしは微笑み「でしょ?」って口にして、まだ続ける。
「熊は32年、サイは51年、ゾウは69年」
「さすがゾウって感じする」
「クジラは68年」
「クジラって長生きすると100年以上も生きるんだって聞いたことあるよ」
「人に飼われている錦鯉は70年」
「私の家にいる鯉もおじいちゃんが死んでもずっと生きてるなあ」
「ゾウガメは150年‥‥カゲロウって虫の成虫はね、1日も生きられないんだって」
「‥‥長月が『ありがとう』って伝えて欲しいって」
「この恋がうまくいくといいな」
あたしは姿のない彼の代わりに夕星に祈りを捧げる。
隣の弥生が「そうだね」って肯定してくれる。
ラヴィさまだったら‥‥あの情熱的で過激なキゾクの女の子だったら、この町から長月を連れ去って自分の手に繋ぎとめてしまいそうだな、って思う。
この遠く離れた距離も、形のない体も、限られた時間も‥‥。
彼女の炎に焼かれて、全てめちゃくちゃに壊して欲しい。
同時にこんな風にも思ってしまう。
もし、あたしに運命を変えることができるなら、きっとためらいなく動きだしてしまう、って。