20.僕と犬3
犬が死んだ。
家に帰ったら走ってこなかったと思ったら、静かに眠っていた。
死因は病死。胃が悪かったらしい。
いつものと変わらず大食いだったくせに、涎垂らしてキュウリに喰らいついていたくせに、ありえない。
暗黒のコンクリート、街灯の光も無い。
歩く足音も聞こえず、ただ無意識の帰り道。
家の扉が見える。
触ると紙切れみたいに扉は軽い。
明らかに違う家だって感覚ではわかっているのに、どこかあの足音を期待してしまう。
でも玄関にはもう、犬はいない。
あれだけ憎々しかった泥まみれの床も、涎の池も、割れたガラスも無い。
ただ静かになってしまった。
もともとアイツはエサ以外では吠えないが、あまりにも静かすぎる。
通帳の数字は大きくなるばかりだ。
驚くくらいお金が貯まっている。
これを使えないのは、まだどこかでアイツが現れると信じてしまっているから。
そんなのありえるわけないのに。
やっぱり数字は嫌いだ。事実を無情に突いてくる。
いつか別れが来ることはわかっていた。
だけどそんなことを考えてしまったら、アイツの元気な声が聞こえなくなってしまって、それが怖くて仕方なかった。
そのせいでアイツは死んだのかもしれない。
もっと大事にしてやれたらよかった。
本当は金が無くなるくらいなんてどうだってよかったんだ。
ただアイツがいる日々が楽しかったんだ。
涎に濡れた床は、涙ばかりになった。
夢に出てこない。どんなに願っても現れることはない。
目を閉じるたびに、真っ暗闇になるたびに、お前が来なかった玄関が映る。
何かの呪いなのか。
僕は一体、どうすればいいんだろう。どうしてたらよかったんだろう。
灰色の雲、星も隠れる夜。
硬すぎる地面を歩いて、池へ歩く。
あのときと変わらない無音。無風。自分の鼓動と息の音が悔しい。
あの位置は空いたまま。
僕はそこに立って、池を眺めた。
「……」
やはりこの世界は残酷だ。
少しだけ目を逸らして遊んでいただけで、こんなにも苦しまされるだなんて。
抗いようのないことがあるのはわかっていたのに、どうしても心は締め付けられる。
もっと自分自身も残酷になれれば、こんな思いはしなかったんだろう。
だけどアイツを拾うこともなかったか。
「……いや、勝手についてきただろアイツは」
勝手について来て、金使わせて、勝手に死んで。どんだけ自由なんだよ。
能天気すぎるだろ。アホかよ。
だからどうしようもなく、可愛かったんだろう。
「クソ……」
泣きたくもないのに、涙は勝手に流れる。
池に小さい波紋ができて、揺らいでいる。
「クソ……クソ……」
どうすることもできるはずなかった。
いくら考えても、思ってもその答えしか出ない。
アイツにもう一度会いたいと、どれだけ願っても、現れることなんてない。
「……それでも一回だけでいいから、一瞬だけでいいから、出てきてくれよ」
涙を舐めてほしいとは言わないし、励ましてほしいなんて言わない。
ただなんだっていいから、こっちを向いて、向いてくれなくても、一目だけ出てきてくれよ。
それだけでいいから。
「……」
どこにも行き場なんてない気持ち。
泣くほどに心は萎んでいくだけだった。
もう帰ろう。
寒くなってくると、キュウリなんてなかなか見かけない。本当にやっかいだな。
公園を歩きながら、キュウリをかじる僕。
池が見えてきた。
今日は晴れている。月は隠されることなく、その光が池の水を照らしていた。
懐かしいものだ。もう一口齧ろうとした口を止めて、歩く。
「……」
相変わらず静かな空間。物音は何一つない。
時が止まっているように思えて、秒針は少しだけゆっくり進んでいる。
「……」
久々に来たけど、池もあんまり変わらないな。
僕が流した涙の分だけ、水量は増えているはずなのに。
なんなら少し減ってるし。
「……」
アイツか死んでからだいぶ月日が経った。
あれだけ悲しかった気持ちは嘘みたいになくなってしまったよ。
残酷なものだ。ずっとああやって生きるのかと思ってたのに、今じゃまったくない。
「……」
時間が傷を癒す。
その事実がちょっと許せないのもある。
だけどそう思ってるんだから、悪いことじゃないだろ。
てかそんなこと知っても、アイツはただ寝て、腹が減ったらエサを媚びるだけだろう。
「……ああ、懐かしいな」
アイツが死んだ日なんて、思い返せばアイツと過ごした日々の中の一つでしかなかった。
楽しかった日のほうが多かった。
こんなのも数字だろう。
でも事実なんだ。
「……今、思い出すのはお前を忙しく世話した日々だ。そのたびに僕は元気になれるから許してよ」
綺麗な星空にその言葉を伝えた。
これでよかったんだろう。
悲しめたのだから。それだけで。
僕は残ったキュウリを口に運んで行った。
もう帰るか。
「―ワン!」
「あ?」
キュウリが無い。
その代わりに左から咀嚼音が。
嘘だろ。
「ワンワン!」
「いや、感動返せよ」
なんで生き返ってるんだよ。
今までのはなんだったんだよ。
確かにもう一度会いたいって言ったけど。
なんで来ちゃうんだよ。
「ワン」
「おい!」
しかもコイツ、池にションベンをかけてやがる。
僕の涙はどこに行ったんだよ。
ふざけすぎだろ。
「ワンワン!」
「……はぁ」
そういえば、こんな馬鹿馬鹿しいやつだったな。
本気になるだけアホらしい。
「まったく……」
「ワン!」
僕がうな垂れていると、その頬を犬はペロペロと舐めてきた。
そのつぶらな瞳は、今までとはどこか違ったものだった。
しばらくの間、ずっと犬は僕の顔を舐めていた。
「ワンワン」
どんなに辛くてもお前が馬鹿にしてくれる。
だからもう悲しまないし、憎まない。
僕はもう、迷走しない。
これは感動モノではない。ギャグでした。
騙された?
とはいいつつも、僕も泣きながら書いてたけど。




