ヴィエラキ向きの名
リーシアは頭を抱えたくなっていた。
まさか本当に署名してしまうなんて思ってもいなかったのだ。
たいていの国の王は自らの命を嘆願する。
いつだって兵や民の命よりも重要視されるべきだと勘違いしていた。
屈辱や侮辱にも過敏に反応するし、許容しない。
王とは、そういう者だとリーシアは思っていたのだ。
(困ったわ……この人、本当に署名をしてしまって……破る気もなさそう……)
こんなことなら、早々に「慈悲」を与えておけば良かった、と思う。
彼を城門に吊るすことで兵が引き上げていれば、面倒なことにはならなかった。
もちろん引き上げようとしない兵はいただろうが、殲滅すればすんでいたのだ。
さりとて、あの時点では、主城門破壊ショックから立ち直り切れておらず、父を引き合いに出されて動揺した。
もしかすると叱られていたほうがマシだった、と思うことになるかもしれない。
だとしても、リザレダの元国王は署名をしてしまったのだ。
罪の購わせかたは確定している。
リーシアは、外の者を下僕にするは初めてだったため勝手がわからずにいた。
なにを話せばいいのかも不明。
なので、ひとまず父の言葉を伝えてみることにする。
「ああ、そうだったわ。ティタリヒの王には、お父様が慈悲を与えたそうよ」
彼が顔を上げる。
きゅっと唇を横に引き結び、その表情は険しい。
こんな目で自分を見る下僕なんていらない、と思うが誓約はなされている。
誓約を破る気がなさそうな相手を、いらないと言って放り出すこともできない。
が、無理に会話をするのも苦痛だった。
「モルデカイ、来て」
「お傍に」
スッと、モルデカイが隣に現れる。
その姿に安堵感を覚えた。
「彼……名はカリスティアン……」
言いかけて言葉を止める。
リーシアの下僕は、リザレダの王ではない。
リザレダという国もなくなっているはずだ。
父がどう処理したかは不明でも、なにかしら処理したのはわかっている。
「長い名はヴィエラキ向きではないわ。そうね。カリスでいいのじゃない?」
ヴィエラキの民に5文字以上の名を持つ者はいない。
規制してはいないのだが、3か4文字の名が好まれている。
20万の中で5文字の名の者は、2,3人しかいないのだ。
(でも、この人、名付きだったわね。変えられるのかしら)
リーシアは名をつけたことも変えたこともなかったのでわからない。
しかし、長い名を呼ぶのも面倒な気がする。
跪いている元リザレダの王の頭上に見えている名を指先でさわってみた。
最後の文字「ダ」の後ろに、縦長の棒が点滅を始める。
カーソルだ。
(なんだ……普通に変えられるじゃない。名付きだけれど、モブ出身なのだわ)
きっと祖先がモブだったのだろう。
初代ヴィエラキ大公の時代、すでに「名付き」だった者は、名を変更することができないと聞いたことがある。
ヴィエラキの民は、その時代に全員がモブだった。
初代が最初の民に名をつけたのだそうだ。
しかし、最初の民以降、子の名は親がつけることになっている。
中には、いくつかの候補から選んでほしいと頼んで来たり、直々に名付けをしてほしいと言って来たり、名変えを希望したりする者もいた。
その要望を叶えるのは大公の役目のひとつだったが、ヴィエラキの民にモブ出身しかいないからこそ応えられている。
(名を変えたからって性格が変わるわけではないし、戻せないわけでもないし)
指でカーソルを動かし、不要な部分を削除した。
頭上には「カリス」の文字だけが残っている。
名の変更では心身に影響はないため、あえて変える必要はない。
けれど、見えている名と呼んでいる名が違うのは気持ち悪いと思ったのだ。
「カリス、いいわね、それで」
「俺はあなたの下僕だ。好きに呼べばいい」
なんて可愛くない下僕だろう。
不満と嫌悪の滲んだ口調で吐いて捨てるように言われ、彼女は眉をひそめた。
嫌なら署名などしなければ良かったのに、と思う。
それでも、提案したのはリーシアなので、やはり「いらない」とは言えない。
どこか山奥にでも捨てて来ようか、とは思ったけれども。
グジッ!
リーシアは「カリス」を気に留めていなかったが、モルデカイは違ったらしい。
新参下僕の頭を右足で踏みつけている。
さっきの音は「カリス」の頭が、石壁の床に叩きつけられて出たものだ。
あの高い鼻が折れているかもしれない。
床に血が広がっている。
「きみは、自分がシア様の下僕だとわかっていないようだ」
モルデカイの片眼鏡が、月に照らされ光っていた。
口元には笑みが浮かんでいても、目は笑っていない。
これは、あの時の笑みだ、と思う。
モルデカイは怒ってはいないのだ。
(私が宿題をサボッた時と同じだわ。カリスを叱っているのね)
リーシアが最も恐れるのは父の「小言」だった。
モルデカイに叱られることは怖くない。
ただし、気持ちが、しゅんとなる。
なんでもしてくれるモルデカイに突き放された気分になって、落ち込むのだ。
「嫌なら今すぐ辞してかまわないのだよ」
「あ、そうね。それがいいわ。望まないのなら無理をする必要は……」
ちょっと面倒だが名を元に戻し、彼と城外の兵を殲滅して終わりにできる。
リーシアにとっては、そのほうが面倒がない。
が、しかし、その期待は期待のままで終わる。
「いえ……立場もわきまえず……申し訳ございませんでした」
モルデカイの靴の下から砂を噛む声が聞こえた。
文字通り砂を噛みながら話しているのだ。
なにしろカリスの頭は、少しばかり石壁にめりこんでいる。
石壁の床に割れ目が入っているが、この程度であればモルデカイは直せるに違いない。
(まあ、モルデカイったら。手加減をしてあげたのね。加減ができるなんてさすがだわ。殺さないようにする程度の加減って難しいことだもの)
モルデカイは、たいていのことならリーシアの望みを叶えてくれた。
主城門も元通りにはできないというだけで、修復するのは可能なはずだ。
リーシアは、自分よりもずっと「なんでもできる」と思っていた。
おまけに自分を甘やかしてくれる。
父のことは大好きだし、尊敬もしているが、一方的に甘やかしてはくれない。
そこがモルデカイとは違うところだった。
「シア様の下僕になれたことを、きみはどう思っているのかね?」
「……こ、光栄なことだと……思っています……」
カリスが話すたびに、じゃりじゃりという音が聞こえてくる。
モルデカイが、まだカリスの頭を踏みつけているからだ。
「では、きみはシア様のために、なにができる?」
「……ご命令くだされば……どのようなことでも……」
「命令がなければ、なにもできないわけか」
その言葉に、リーシアは少し狼狽える。
モルデカイもヘラもロキも、リーシアの命令なしで動いてくれるのだ。
だいたいは「こうしたい」と言えばすんでいる。
命令と言えるほどの命令なんてしたことがない。
最後にはモルデカイに向かって「どうしたらいい?」と訊くのが常だ。
(民は、私の下僕ではないけれど、思い思いに動いているじゃない。困ったことがあれば、民ではなくて、私のほうが動いているわ。命令がなければ動けないって、どういうこと? もしかして、さっきの話を本気にしているの?)
自分の言ったことにはすべて従わなければならないと、リーシアは言った。
本気ではない。
提案を蹴らせたかっただけだ。
父への「口実」を作りたかっただけとも言える。
小耳に挟んでいた、よその国での奴隷に対する仕打ちを語ったに過ぎない。
そういうふうに言えば嫌がるだろうと思ったのだ。
「使えない下僕だ。下僕というのも、おこがましい」
リーシアは、必死でモルデカイに視線を送る。
いちいち命令をしなければならないなんて絶対に嫌だった。
食事や着替えに至るまで命令が必要なのかと思うだけで眩暈がする。
どういう役割を与えればいいのかも思いつかない。
元々、ヘラは片付屋だし、ロキは掃除屋だ。
リーシアの不得手とする職業なので、2人に任せている。
が、カリスの職業は、そういうものとは大きく種類が異なっていた。
国王、いや、今となっては、元国王に変更されているだろうが、そんなものが、なんの役に立つのか見当もつかない。
モルデカイが、リーシアをチラっと見て、小さくうなずく。
「今のきみにできることは、シア様を困らせないこと。欲を言えば楽しませることくらいだ。わかったかい?」
「承知……しました……」
パッとモルデカイがカリスの頭から足をおろした。
大きな呼吸音とともにカリスが顔を上げる。
瞼は切れ、鼻がへこんでいた。
あちこちから血が流れ落ちている。
とはいえ、首の骨は折れていなさそうだし、命に別条はない。
そのことに、リーシアは感心する。
「モルデカイ、あなたは素晴らしいわね。加減というものがわかっていて」
「恐れ入ります」
カリスの鼻血が見苦しかったからかもしれない。
無意識に手をサラリと振った。
一瞬で怪我が癒える。
折れた鼻も、元の通り綺麗に整っていた。
(主城門も、こんなふうに簡単に直せればいいのに)
人を生き還らせたり癒したりするほうが、よほど簡単だ。
リーシアの力は、無機物相手には大き過ぎて、細かい作業には向かない。
そこで、はたと思い出す。
思い出して、気落ちした。
「結局、私は、なにもしなかったことになるわ」
「そのようなことはございません。城内に踏み込んだ千人に、主城門を壊した罪を償わせております」
「それもそうね。これが加減というものかしら」
「どうでしょう。ですが、ギゼル様には、ご納得いただけるのではないかと」
リーシアの気持ちが、ぱぁっと明るくなる。
父に小言を言われずにすむのなら、それだけで収穫だ。
気分が良くなって、指先を、ちょんっと弾く。
モルデカイには見えているだろうが、カリスには見えない画面表示。
さっきカリスを癒す時に出していた。
職業を変えてから、両手をパンッと叩く。
瞬間、壁外に白い光が走った。
自分が殺した者を蘇生するリザレクターの能力を使ったのだ。
さらに職業をバードプロフェッサーに変更。
指で輪を描き、城外の向こうに放つ。
城外にいた兵達が、ばたばたと倒れた。
「指揮官不在で暴れられたら、また殺さなくちゃならないし、面倒だから眠らせておいたわ。まぁ、2,3日は寝ているでしょうね」
「お疲れさまにございました、シア様。ここからは我々で対処いたします」
「わかったわ」
よろよろっと、カリスが立ち上がる。
近づいて来る姿に、ぎょっとなった。
だが、カリスはリーシアの隣で塀に手をつき、外を眺めている。
「俺の……兵を……生き還らせて……」
「あれは、あなたの眷属だもの。あなたは私の下僕だから、死なせておくわけにはいかないじゃない」
じっと外を見つめているカリスを、リーシアは不思議に思った。
正直に言って「モブ兵」なんて死ぬためにいるようなものだ。
どれだけ死んでも意味のある死にはならない。
何千だとか何万だとか、数値化されたものでしかなかった。
モブ兵十万の死よりヴィエラキの民1人の命のほうが遥かに重い。
それどころか、モブ兵など民の飼育している家畜以下だと認識している。
「ただし、彼らがきみの眷属だという意識があるか、今後、見極めさせてもらう」
家畜以下の存在であっても、自分の下僕の眷属となれば話は別だ。
ヘラやロキにも眷属はいるし、それぞれの主の役に立っている。
モブ兵がどんな役に立つのかはわからないとしても、カリスの眷属である以上、殺しっ放しにはできない。
カリス自身が、リーシアの「持ち物」なのだから。
(城内に入った兵はしかたないわね。主城門を壊した罪もあるから、私が殺した兵だけ蘇生させるのは不公平になるし、全員ってことになるとライフメーカーを使うことになるけれど、それじゃ赤ん坊からやり直しになるし、だからって、魔導士で1人ずつ蘇生させるのは大変だし……頑張ってくれたヘラやロキにも悪いもの)
城内に踏み込んできた千人は諦めてもらうことにした。
モルデカイの言うように、城外の兵も全員がカリスの眷属とは限らないのだ。
眷属でない者は生かしておく理由がない。
「すべての者が生き残るとは限らないわよ? ヴィエラキに侵攻してきた時点で、死は確定していたのだから」
「……わかっています。大公女殿下」
「嫌ね。あなた、私の下僕でしょう? 気持ち悪い呼び方をしないでちょうだい」
「ヴィエラキでは、シア様を大公女などと呼ぶ者はいない。民たちはリーシア様とお呼びし、下僕たちはシア様とお呼びする」
モルデカイが説明してくれて助かった。
そんなことまで「命令」が必要なのかと、うんざりしかけている。
外の者を自分の下僕にしたことなんてなかった。
する予定もなかったので、面倒なことばかりだと感じる。
「ちなみに、下僕同士は呼び捨てでかまわない。言葉遣いも対等としている」
モルデカイはヘラやロキより上位の立場だが、2人がモルデカイに対し、丁寧な話しかたをしているのは見たことがなかった。
モルデカイの指示には従っているが、従属しているというふうではない。
その指示が的確だから従っているのだろう。
「ヘラ、ロキ」
「あいよー」
「こちらに」
呼んだのはモルデカイだが、2人が跪いている相手は、リーシアだ。
リーシアは2人に軽く肩をすくめてみせる。
2人が、すぐに立ち上がった。
リーシアの隣にいるカリスに視線を向けている。
その視線に気づいたのか、カリスも城外から2人のほうへと体を向けた。
「よう、新参下僕。カリスってのか。まぁ、よろしく」
「カリス。城内の片付けは私の仕事。あなたはよけいなことをしないように」
ロキもヘラも、カリスには「できることがない」と判断している。
リーシアも、内心では同感だった。