笑顔が見える日の出来事
東帝国皇帝カルデルク・ラモーニュは、顔面蒼白で大公女たちを見送った。
見送るしかなかったのだ。
名を聞くことすらできなかった男からの威圧に、自分の娘がどれほどの「無礼」を働いたのかを察せられないほどカルデルクは鈍感ではない。
自身も「無礼」を働いた自覚がある。
大公女が、下級貴族の使うような馬車に乗ってくるとは想定していなかった。
そのため特賓扱いするようにと言いつけていた侍従長も気づかなかったらしい。
招待状を確認するまで列に並ばせていたのだから、相当な「無礼」だ。
そして、侍従に報せを受けた侍従長から状況を訊かされ、慌てて駆けつけたが、時すでに遅し。
(あの男の頬は赤かった。おそらく……)
皇女が平手打ちでもしたのだろう。
大公女に対するものだったのか、男に対してだったのかはわからないし、どちらにせよ問題だ。
大公女のエスコートをしていたのだから、大公の代わりが務まるくらいの実力者なのは間違いない。
なんということをしたのか。
我が娘ながら、怒りに体が震える。
せっかくの「顔合わせ」が台無しになってしまった。
今後しばらく大公女は東帝国には来ないはずだ。
その口実を、こちらから与えている。
諸侯たちにも顔向けができない。
招待状の返事をもらって以来、カルデルクは周囲に大公女来訪を吹聴していた。
今夜、常ならぬほど大勢が集っているのは、ひと目でも大公女を見ようとしてのことだとわかっている。
状況によっては、ダンスの1曲も踊ってもらえるかもしれない。
そんな期待をしていた子息たちも多かっただろう。
(息子の内の誰かが、大公女とダンスできるようにするため、あれほど考え抜いていたのに、それも水の泡だ!)
1曲目は無理だとしても、どうにか頼み込み、1曲だけでも自分の息子の内の誰かと踊ってもらうつもりでいた。
そのために、カルデルクは、いくつもの口実や名分をひねり出していたのだ。
羨望の眼差しを一身に受け、大公女とダンスを踊るのは自分の息子。
その予定は、完全に崩れ去っていた。
次の機会が、いつ訪れるかも定かではない。
現に、前回、大公女が東帝国に来たのは12年も前になる。
大人に成長した大公女は、いよいよ美しさと気品が増していた。
東帝国の皇后に相応しいという以上に、価値のある女性。
皇后として迎えられれば、東帝国はいっそう盤石になる。
それが、ほんの少しの手違いで、なにもかも、ぶち壊し。
こんなに腹が立ったのは、人生で初めてかもしれない。
カルデルクは50歳。
そろそろ譲位も考える歳になっていた。
大公女との婚姻により、ヴィエラキと縁を作れる最後の機会を失ったと思うと、はらわたが煮えくりかえる。
足音も荒く、ミラジュアンヌの私室に乗り込んだ。
「なんということをしてくれたのだ、お前は!!」
父であるカルデルクの剣幕に、ミラジュアンヌが少し怯えたような表情になる。
それでも、悪びれていないのが伝わって来て、ますます腹が立った。
自分がなにをしでかしたのか、まるでわかっていないのだ。
わかりもせず、のんびりとソファでくつろいでいる。
「でも、彼は所詮、平民でしたのよ? それに、あんな小さな国の大公女に、なぜ気を遣う必要があるのでしょう? たかが田舎の……」
ガシャーンッ!!
カルデルクは、怒りに任せ、ソファの前にあったテーブルを蹴り飛ばした。
置かれていたティーカップが床で、粉々に砕け散っている。
自分の娘が、こんなにも無知だとは思わなかったのだ。
「お、お父様……な、なにを、そんなに怒って……」
「あの小さな国、ヴィエラキがなければ、東帝国など、とうに西帝国に侵略されておっただろう! お前は、そんなことも知らんのか! 5百年かけて築いてきた、ファルセラスとの関係を、お前が、ぶち壊しにしたのだぞっ!!」
「……そ、そんな、大袈裟……」
「まだ言うかっ! 大公女は大公の代理で来ておったのだ! お前のしたことは、大公を侮辱したも同然! 諸侯の不安を煽ることにもなる! 東帝国の勢力圏で、ヴィエラキに守られておることを知らぬ者などおらぬからな!」
大声を出し過ぎて、息が切れる。
同じくらい血管も切れそうだった。
ミラジュアンヌは、カルデルクを茫然と見つめている。
言っても無駄だと悟った。
東帝国の中でしか通用しない権力を、ミラジュアンヌは、この世の、どこででも通じると勘違いしている。
実感がないからだ。
「……お前の顔など2度と見たくない」
「お、お父様……っ……?!」
こんな愚かな真似をしでかす娘を皇宮で自由にさせておくことはできない。
今後も、なにをやらかすかわかったものではないのだ。
政治を知らないにも、ほどがあった。
息子はともかく、娘たちに「自由」を与えてきたことを悔やむ。
暗澹たる心境で、カルデルクは近くにいた近衛騎士に命令した。
「ミラジュアンヌは無期限蟄居とする。この部屋から外には出すな」
言い捨てて、体を返す。
縋りついて来ようとしたミラジュアンヌを近衛騎士が制止した。
取り乱したミラジュアンヌが金切り声を上げている。
そんな愚かに過ぎる娘を肩越しに見て、カルデルクは言った。
「お前は、自らの行動を反省しておれ! 私は……ヴィエラキに、どう謝罪の申し入れをするか、考えなくてはならん!」
謝罪なんて受け入れてもらえるだろうか。
歴代ヴィエラキ大公は、いつの時代でも「笑顔で殺す」と言われている。
*****
同時刻
ギゼルは、自分の前に平伏している大勢の「元リザレダ」の民を見ている。
見ながら、やはり「なかなか良い国」だと思っていた。
「きみたちは、どうしても、この領主を生かしておきたいと考えているのだね?」
全員が大きくうなずいている。
中には目に涙を浮かべ、両手を胸の前で握りしめている者もいた。
大人もいれば子供もいる。
男も女も。
「きみは、どう思っているのかな?」
ギゼルは、隣で地面に両膝をついている男を見下ろした。
自分と同じくらいの歳に見える。
後ろで束ねられた薄茶色の髪に、同じ色の瞳。
上げた顔は凛々しく、いかにも騎士の職業能力持ちといったふうだ。
頭上には名が表示されている。
イルディナート・ポルティニ。
イルディナートが視線を民のほうへと向けた。
その視線を、すぐにギゼルへと戻す。
「私は民の命を救ってくださるのであれば、なんの不満もございません」
「そうかい? 貴族ではなくなるが、いいのかね?」
「爵位にこだわりなどございませんし、命の有無にもこだわりません」
「きみがこだわるのは、民の命だけ。そういうことでいいかな?」
「かまいません」
もう1度、ギゼルは民を見渡す。
ポルティニ領の領民すべてが集まっているようだ。
モブも大勢いるが、中には名付きもいた。
「では、こうしよう。きみは爵位を捨て、平民となる。だが、まぁ、民の願いには応えてあげたまえ」
「……どういう、ことでしょうか?」
「ちょいと法は変わるが、この民たちの世話は、きみがする、ということさ」
「私の命など……」
「いやいや、民の望みなのだから、きみは平民になってでも生きてもらわなければならないよ? それとも、彼らを見捨てるつもりかい?」
「そのようなことは、けして、ございません!」
「なら、いいじゃないか。領主的な役割を担って生きていけば」
ざわざわっと周囲に、ざわめきが広がる。
民たちから「領主様」との声が上がっていた。
「きみは、民に愛されている」
イルディナートの瞳から涙があふれる。
息子2人からも、各地で同様のことが起きていると報せが入っていた。
民の嘆願を、ギゼルたちは概ね受け入れている。
民を放置し、我先にと逃げ出した貴族たちから順に殺していた。
逃げられなかった貴族であっても、民にそっぽを向かれた者たちも同様だ。
その惨状を見ても領地から逃げず、民を守ろうとした貴族。
民に嘆願されるほど慕われている領主。
そして、民を生かすためなら爵位を捨てると申し出た者だけを生かしている。
ファルセラスは、基本的に侵略はしない。
ヴィエラキ以外を統治することも考えてはいなかった。
だが、今回は少し違う。
ティタリヒとリザレダが「なかなか良い国」だったからだ。
西帝国皇帝ヴィジェーロ・ネルロイラトルに蹂躙されるのはしのびない。
そう思い、少しだけ手を貸すことにした。
ゆくゆくは独立した国にする予定だが、そのためにも、一時的にではあれ、ファルセラスの影響下に置く必要があったのだ。
簡単には手出しができないように。
「それはそうと、きみは少し名が長いな。もう貴族でもなくなることだし、新しい名を使ってもいいのじゃないかね?」
「それは、その……どのように……?」
「単に短くするだけさ。きみに不満がなければ、イルディでは、どうだい?」
「かしこまりました。以降、そのように名乗りたいと存じます」
ギゼルは、ササッと後ろ部分を削除し、頭上の名を「イルディ」に変える。
ほかの名付きについては、ピサロに任せることにした。
さほど多くはないが、名を変えてもいいと思う者もいれば、そうでない者もいる。
強制する気はなかったので、1人ずつの意思確認が必要だ。
ならば、新法をまとめているピサロが適任だろう。
けして、面倒だったからではない。
「ところで、きみに子息、令嬢はいるかな?」
「息子が1人おります……」
声が小さくなったことで、ピンとくる。
見た目に「イルディ」は騎士であり、その息子となれば予想がついた。
「城攻めに加わったのだね」
「……はい。仰る通りでございます。ですが……フィデル……息子は陛下とともに命を投げ打つことを躊躇いはしないでしょう」
「それは良かった」
え?というふうに、イルディが目を見開いている。
城攻めに加わったことを断罪されると思っていたに違いない。
「きみの息子は忠臣なのだろう?」
「ええ……はい……さようにございます」
「それなら生きていられるさ。きっとね」
リザレダの元国王は、今やリーシアの下僕だ。
その下僕の「眷属」として認められるには「忠誠心」が必要だった。
忠臣であればこそ、生き残っている可能性は高い。
ギゼルは、リーシアを思い、口元に笑みを浮かべる。
(東が静かなのは、カリスの働きが大きかったからかな)




