9話 はじめての共同作業
——小学生の時、僕は鈴佳に、何をした?
推測するに、僕が鈴佳を置き去りにしてしまったことが——鈴佳の執着や裏切られたという気持ちの源泉になっているように思えた。
ただいくら考えても、その時の断片は見えても、何があったか思い出せていない。
寝起きのぼんやりとした頭は、それらの思考によって少しずつ霧が晴れるように明晰になっていく。
僕はゆっくりとまぶたを開けた。
——目の前では鈴佳が、昨日とは打って変わって幸せそうな、だらしない笑みを浮かべて、こんこんと眠っていた。
六畳一間の、僕の部屋。面積の三分の一を占めるセミダブルのベッド。
そこで僕たちは二人並んで向き合うように寝ていた。まだ少し肌寒い春の冷気を遮るように、実家から持ってきた羽毛布団を上からかけたまま。
二人にはちょっと小さい羽毛布団は、いつもより暖かく感じられた。自分だけではなく、二人の熱量がここに溜め込まれているのを感じる。
「……」
すーすーと鈴佳の寝息が感じられる。僕たちは片手を指を絡め合うように繋いだままだ。
(あの後、どうしたんだっけ)
鈴佳に抱きしめられたまま、約束を、ルールを交わして——本当にあの時から今までずっと、手を繋いだまま鈴佳と共に行動していた。
手が離れてしまわないようにと、両手を繋がれて、そのまま安心した顔で彼女が寝て、僕も色々あった疲れからか間もなく寝てしまったことを覚えている。
(ただ、よくよく考えると)
いやに現実感が無かったものの、こうやって女の子と一緒に寝るのはあの頃以来だった。
それに小学生の頃であれば、今とは状況が違いすぎる。
(変な感じだ……)
目の前にいる鈴佳の顔をじっと眺める。
つぷりとした薄い桃色の唇、肩から覗く後髪の赤いインナーカラー、うっすらと朱に染まっている頬、呼吸に応じて上下する喉と胸。
彼女から吐き出される呼気は、濃密な気体のように感じられた。
長すぎない睫毛がちらちらと揺れる。
そうやって——思考を目の前に集中させるも、一つ抗えない問題があった。
(——トイレに行きたい)
……だいたい、ああやって頷いてしまったものの、人間が常に二人でいるというのは、難しいのではないかという気持ちに今なっていた。
小説や映画の相棒モノだって、トイレの中まで一緒なわけじゃない。双方それぞれの生活がある。
けれど——彼女のひたむきさを見ると、何も言わずに手を離してしまうことは気が引けた。
——ただ鈴佳を起こすことも出来なくて、ここまで僕はずっと横になったまま彼女の顔を見つめていた。
しかし今、決断を迫られていた。
空いてる右手で、彼女を揺する。
思いの外、彼女のふんわりと柔らかい肌の感触に驚くも、それに怯まず起こそうとする。
鈴佳はむにゅむにゅわずかに口を開くと、舌足らずな声で言った。
「……んー? まだ寝ないと駄目だよ……」
何と勘違いしているのやら、よくわからないことを言って、もう一度眠りにつこうとする彼女を少し強めに揺する。
「ちょっと、少し起きて……」
すると彼女の瞳が少し開き、僕の姿を捉えたのが分かった。
「……えっ、あっくん!?」
小さく驚きの声をあげた鈴佳は猫のようにびくりと震えてこちらを見た。
「鈴佳、おはよう」
にぱりと満面の、子供のような笑みで彼女は笑う。
「わー、本当にあっくんだ……。おっはようー!」
感慨深げな感動をされてる最中、起き抜けに申し訳ないと思いつつ口をはさむ。
「で、ちょっと、トイレに行きたくて」
だから手を離すことを許してくれないかと、言外に問う。
「あー、ごめんね……。気づかなくて」
手を繋いだまま彼女は立ち上がる。僕もそれに合わせて立ち上がりつつ、ふらつく彼女を軽く支えた。
そして、鈴佳が手を離してくれるのを待った。
「……」
「……」
——待ったが、鈴佳が手を離す気配は無い。彼女から疑問が呈される。
「あっくん、トイレじゃないの?」
いや、聞きたいのは僕の方だ。
「そうだけど……」
なんだろう。何か食い違っているような。
少し踏み込んで聞いてみる。
「手は……」
「手は離しちゃだめだよ、ルールだもん」
悪戯っぽい笑みで鈴佳は言う。
「なるほど」
なるほど?
取り敢えずトイレに向かってみると、当然手を繋いでいるので、彼女はついてくる。
扉を開ける。
「あっくん、シューってやるやつ置いてないんだね」
消臭剤のことか。みんな置いているものなのだろうか。置いた方が良いのかな。
彼女は今も手を繋いでいる。
なんだろう。鈴佳はトイレとそこで行う行動がピンと来てないのかなと思い、取り敢えずズボンを下ろす素振りをしてみた。
彼女は——下ろすのを止めるのかと思いきや、手を添えて手伝ってくれていた。
なるほど。意図は伝わっていた。
——僕はもう開き直ることを決めた。
「ちょっと……恥ずかしいから、目をつむって貰っていいかな」
少し怯んだ僕は鈴佳に懇願した。
自分の下半身のことなんて、普段気にしていない。人に見られるのは、恥ずかしかった。
鈴佳は、んーと目を瞑ってくれた。
僕はそれを見届けてから、便座に腰掛け、用を足す。
(トイレに設置する雑音発生装置が欲しい)
今まで必要性を感じていなかったものが欲しくなるのは、新鮮だった。
お小水を済ませると、鈴佳は言う。
「あー、あっくん、私も」
もう驚きもしなくなっていたが、その言葉の意味は分かった。
僕は目をつむり、彼女が座りやすいように繋いだ手を下ろす。
ギシと僅かに便座が軋んだ音がしたが、そこから数十秒の空白がうまれた。
「あっくん……耳……塞いで……」
そこは恥じらいがあるのだと少し意外だった。ただ、両耳は塞げないなと右手で右耳を塞いでいると、首筋に鈴佳の手が触れた。
「あっくんー、もうちょっとした」
僕は少ししゃがむ、彼女の手が僕の左耳に触れる。
必然、態勢は彼女に向き合うし、便座に近づくことになる。
結局、音は割と筒抜けで、鼻を軽くアンモニアの匂いがかすめた。
なんだかそれで、この現状が現実で、彼女が人間だということが腑に落ちた気がした。
× × ×
教室の後ろに行こうとする最中、水無瀬さんが挨拶をくれた。
「哲さん、鈴佳さん、おはようございま——」
水無瀬さんの挨拶が尻切れトンボになり、後が続かない。
僕が水無瀬さんの社会性スマイルだと思っているその表情は、心なしか引きっているように感じられた。
確かに——僕もそんな光景を目にしたら引きってしまうかもしれない。
「水無瀬さん、おはよう……」
「おはよー!」
途端、キンコーンとチャイムが鳴り、放心気味の水無瀬さんを他所に僕たちは後ろの方の席に着席した。
こうしてしまえば、手を繋いでいることも分かりにくい。
幸いなことに僕は右利きで、鈴佳は左利きだった。ページをめくるのは大変だが、筆記に関しては少しずつ慣れていった。
時折、鈴佳がつんつんとこちらをつついて、えへーと笑う以外は、至って真面目に講義を受講していた僕らだった。
——ただ講義を受けている間中、ちらちらと水無瀬さんの視線を感じ、これは終わったらどうしようかと気を揉んだまま時間が過ぎていった。




