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29話 檻の中の選択

 昨夜の熱が、まだ部屋の空気にまとわりついている気がした。

 重たい瞼をこじ開けると、隣には鈴佳の穏やかな寝顔。僕の腕を枕に、ぴったりと身体を寄せて眠っている。


 その無防備さに一瞬心が和みかけるが、すぐに昨夜の出来事が蘇る。彼女の熱っぽい吐息、僕を支配しようとするような瞳、そして抗いきれなかった自分への嫌悪感。

 この腕の中にある温もりは、やはり檻だと感じた。


 そっとベッドを抜け出し、シャワーを浴びる。


 冷たい水が思考をクリアにしてくれるかと思ったが、鏡に映る自分の顔は寝不足と混乱で酷い有様だった。どうすれば、この状況から抜け出せる?


 タオルで身体を乱暴に拭き、寝室に戻ると、ベッドに腰掛けた鈴佳が、じっと僕を見ていた。いつ起きたのか。

 その瞳は、朝の光を受けて、どこか濡れたように艶めかしく光っている。僕が裸の上半身のまま立ち尽くしているのを、彼女は品定めするように、ゆっくりと視線で舐めるように追った。


「……あっくん」


 甘く、蕩けるような声で呼ばれる。


 彼女はすっと立ち上がると、音もなく僕の目の前に来た。そして、ためらうことなく、その冷たい指先で僕の胸から腹部にかけて、ゆっくりと線を引くように撫でた。


「——っ」


 不意打ちの感触に、びくりと身体が震える。


「きれいな肌……。でも、なんだかまだ、あっくんだけの色って感じ」


 鈴佳は顔を近づけ、僕の鎖骨のあたりに、ふっと熱い息を吹きかける。


「……鈴佳の色、足りないんじゃない?」


 そう囁くと、彼女は僕の首筋に顔を寄せた。

 柔らかい唇が、耳たぶを軽く食む。ぞくりとした感覚が背筋を駆け上がった。


「鈴佳——?」


 僕が戸惑いの声を上げると、彼女はくすくすと喉の奥で笑った。


「しー……。昨日の続き、しよ?」


 そして、彼女の唇は僕の首筋へと移動した。

 優しいキス。だが、すぐにそれは熱を帯び、ちゅ、と強く吸い付く音と共に、鋭い快感にも似た痛みが走った。


「ん——っ!」


 彼女が何をしているか理解した時には、もう遅い。

 鈴佳は執拗に、同じ箇所を吸い続ける。まるで、僕の血を吸い上げるかのように。僕の皮膚に、彼女自身の所有の証を刻み込もうとしている。


 やがて彼女が顔を離すと、そこには紛れもない、赤い鬱血痕がじわりと浮かび上がっていた。

 ジン、とした熱と微かな痛みが、そこにある。


 鈴佳はそれを満足げに指でそっとなぞり、恍惚とした表情で僕を見上げた。


「……ふふ。できた。あっくんの首、鈴佳の『しるし』、ちゃんとつけたよ」


 彼女は自分のつけた痕を、愛おしそうに見つめる。


「これで、あっくんが他の子とお話ししてても、みんな分かるね。この人は、鈴佳のものなんだって」


 その言葉には、無邪気さと、底知れない独占欲が混じり合っていた。

 僕は、首筋に残る熱と痛みに、そして彼女の行動に言葉を失う。

 彼女は僕の反応を楽しんでいるかのように、もう一度、その痕に軽くキスを落とした。


「大丈夫。鈴佳がつけた傷は、鈴佳がちゃんと舐めてあげるから……ね?」


 その瞳は、僕を完全に自分の支配下に置いたと確信しているかのように、自信に満ちていた。

 僕の身体も、心も、彼女の色で染め上げられ、境界線が曖昧になっていくような感覚。


 抗いたいのに、抗う術が見つからない。


 ただ、首筋の熱だけが生々しく、この歪んだ現実を突きつけていた。


 その後の朝は、息が詰まるようだった。


 鈴佳は僕のすぐ隣を離れず、常に身体のどこかが触れている状態を保とうとした。

 朝食の時も、僕が服を着る時も、その視線は僕の一挙手一投足を追っている。僕が首筋の痕を隠そうとすると、それを咎めるようにじっと見つめてきた。


 時折、不安げに「……本当に、どこにも行かないよね?」と確認してくる。その度に、僕は曖昧に頷くしかなかった。



 ——水無瀬さんに会わなければ。



 首筋の「しるし」が、その思いを強くする。


 このままでは、僕は本当に鈴佳だけの檻の中に閉じ込められてしまう。

 失われた記憶。()()。それを知るためには、リスクを冒すしかない。


 水無瀬さんが持つという『過去の欠片』に触れなければ。


 大学へ向かう途中、僕は意を決した。


「……今日の午後、必修の補講が入ったかもしれない。事務に確認してくる」


 苦し紛れの嘘。だが、これで少しは一人になれるかもしれない。

 途端、隣を歩いていた鈴佳の顔からサッと血の気が引いた。


「補講? 嘘! そんなの、絶対嘘!」


 彼女の声はヒステリックに裏返る。


「一人で行く気!? だめ! 絶対だめ! 鈴佳も行く!」


 道端であることも忘れ、彼女は僕の腕にパニックのようにしがみついてきた。


「一人にしないで! 怖い! あっくんがいないと、私……私、どうなっちゃうか分からない!」


 その必死さは、演技とは思えなかった。全身で僕に体重を預け、震えている。僕が離れることへの、本能的な恐怖。それが彼女を支配している。


「大丈夫だって。ただ確認するだけだから。もし何もなければ、ずっと一緒に……」


 宥める言葉は、彼女の耳には届かない。


「嫌だ嫌だ嫌だ! あっくんが行くなら鈴佳も行くの!! 絶対離れないんだから!!」


 人目も憚らず、彼女は僕の腕に顔を埋めて泣きじゃくり始めた。


 ——万策尽きた。


 彼女のこの状態を振り切って一人で行動するのは不可能に近い。

 諦めにも似た感情が、心を重く覆い始めた、その時だった。


 昼休み。食堂の喧騒の中。

 運良く、鈴佳が少し離れた席の友人に呼び止められ、僕の隣から離れた、ほんの数十秒。奇跡のような時間。


 ポケットの中でスマホが短く震えた。


 ——水無瀬さんからだ。


 全身の血が逆流するような感覚。息を殺してメッセージを開く。

 表示された文面に、心臓が掴まれたように痛んだ。


『図書館裏の公園。今すぐ。一人で来て。どうしても、あなたに見せたい『過去の欠片』がある。……あの図書室の記憶に繋がるもの。待ってる。これが、最初で最後になるかもしれないから』


 「最初で最後」。図書室の記憶。


 水無瀬さんの覚悟。僕を救い出そうとする意志。

 行くしかない。行かなければ、僕は永遠にこの檻の中だ。

 友人との話を終え、「ごめんね、あっくん!」と駆け寄ってくる鈴佳の笑顔が、今は恐ろしく見えた。


 時間がない。今、決めなければ。


 戻ってきた鈴佳に、僕は努めて穏やかな声で告げた。

 声が震えないように、細心の注意を払って。


「……ちょっと、気分が悪いから、外の空気吸ってくる」


「え? 大丈夫? 鈴佳も一緒に行こっか?」


 心配そうに眉を寄せる鈴佳。その手を、僕は、今度こそはっきりと制した。


「いや、一人で大丈夫だ。すぐ戻るから。……ここで、待ってて」


 有無を言わせぬ、自分でも驚くほど強い口調が出ていた。


 鈴佳が一瞬、怯んだように目を見開く。その隙に、僕は席を立った。


 背中に突き刺さる、鈴佳の信じられないといった表情と、すぐに追いかけてくるかもしれないという恐怖。

 それでも、足は止まらなかった。早足で食堂を出る。


 期待と、恐怖と、そして微かな希望。

 様々な感情が渦巻く中、僕は図書館裏の公園へと、ひたすらに足を速めた。

 檻の扉に手をかけたような、そんな感覚があった。自らの手で。

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