28話 嵐、あるいは檻
アパートのドアノブに手をかける。
ひやりとした金属の感触。
図書館での水無瀬さんとの会話。彼女の強い瞳。
「本当の思い出」という言葉。
頭の中で反響する。自分の記憶が信じられない。
その事実が重い。
ガチャリ、とドアを開ける。
リビングの入り口に、鈴佳が立っていた。腕を組み、壁に寄りかかって。
表情は硬く、冷ややかだった。けれど、どこか怯えているようにも見える。
部屋の空気が、ピリついている。
「……遅かったね、あっくん」
静かな声。嵐の前の不気味さ。
「ああ……ごめん。ちょっと、手間取って」
平静を装う。動揺を見せたくない。
ポケットのスマホが、異様に重かった。
「ふーん……手間取ったんだ」
鈴佳は壁から身体を離し、一歩、近づく。
「図書館で? レポートの資料探しに?」
黒曜石のような瞳が、僕の心を見透かそうとするように、鋭く光る。
「……ああ、そうだ」
嘘が喉を締め付ける。視線を合わせられない。
瞬間、鈴佳が顔を歪めて叫んだ。
「嘘!」
甲高い声が突き刺さる。
「嘘だ! あっくん、嘘ついてる! あの女に会ってたんでしょ! 図書館で!」
瞳から涙が溢れ出す。怒り、嫉妬、裏切られたという激情の色。
「な、なんで……」
「なんでって!? 分かりきってるじゃない! あっくんの様子がおかしいもん! 」
鈴佳は叫び、近くのクッションを掴むと、力なく僕の足元に投げつけた。
ばさり、と虚しい音。
「鈴佳のこと、もうどうでもよくなったの!? 」
詰問の言葉が心を抉る。違う、そうじゃない。でも、声が出ない。
そして、彼女の声色が変わった。瞳に暗い炎を宿して。
「あの時みたいに、また鈴佳を捨てるの!?」
——その言葉が耳朶を打った瞬間。脳裏に、閃光のようなイメージが走った。
暗い壁? 絶望した顔? 息が詰まる恐怖。全力で逃げだしたい衝動。
一瞬の幻。すぐに霧散する。
心臓が嫌な音を立て、冷や汗が背筋を伝う。
今のは……なんだ?
僕の蒼白になった顔色を見てか、鈴佳は畳み掛ける。
「あっくんはいつもそうだ! 鈴佳がどんな気持ちでいるかなんて、考えもしないで! 私がどれだけあっくんを想ってきたか知らないくせに!」
彼女の言葉が、罪悪感を叩き起こす。
先ほどの奇妙な感覚と相まって、言いようのない不快感と混乱が襲う。
僕は過去に何かから逃げたのかもしれない。彼女を一人にしたのかもしれない。その感覚が、彼女への申し訳なさを掻き立てる。
「ひどい……ひどいよ、あっくん……」
激しい怒りが引くと、彼女はその場に泣き崩れた。
「うわあああ……っ」
子供のように泣きじゃくりながら、僕に縋りつく。細い腕が必死に絡みつく。
「お願い……どこにも行かないで——」
「鈴佳には……あっくんしか、いないんだから——」
彼女の涙と体温が、服越しにじわりと伝わる。
図書館での決意が、この涙に、先ほどのフラッシュバックに、揺さぶられる。
僕が彼女を疑うことが、彼女を傷つけている。
この涙は本当じゃないのか? 僕が間違っているだけじゃないのか?
そう信じたい気持ちと、拭いきれない疑念の間で心が引き裂かれそうだ。
だが——。
あのフラッシュバックは何だったのか? 鈴佳の言う「あの時」とは?
彼女の過剰な反応は、やはり僕の記憶の欠落と深く関わっているはずだ。
彼女は必死に何かを隠そうとしている。僕に「本当のこと」を知られたくないのだ。僕の罪悪感と記憶の混乱を利用して。
「……大丈夫だよ。どこにも行かない」
迷いを振り払うように、けれどできるだけ優しい響きを意識して答えた。
彼女の震える背中を、戸惑いながらそっと撫でる。この温もりを失いたくない気持ちも嘘ではない。
「ほんと……? ほんとに、もうあの女に会わない……?」
涙に濡れた瞳で僕を見上げる。まだ不安の色が揺れている。
「鈴佳だけを見てくれる……?」
彼女は僕の顔を引き寄せた。縋るような力で唇が塞がれる。
「ん……っ……」
息が詰まる。彼女の舌が、縋るように絡みつく。切羽詰まったような熱。
唇が離れても、鈴佳は僕の顔を解放しなかった。
濡れた瞳でじっと見つめ、両手で僕の頬を包み込む。指先に微かに力がこもる。
「あっくんは……鈴佳だけのもの……だよ……」
吐息と共に、耳元で囁かれる言葉。絶対的な所有権の主張。
彼女の指が、僕の首筋を確かめるようにゆっくりと撫でる。印を刻むかのように。
ぞくり、と悪寒が走った。これは甘えではない。僕を閉じ込めようとする意志。
「ね、ちゃんと息、合わせて?」
彼女は僕の胸に額を押し付け、有無を言わせぬ口調で促す。
呼吸を合わせると、彼女は満足げに息を吐き、僕の身体にさらに強く体重を預けてきた。
呼気すら管理下に置こうとするかのように。
その重みと温もりが、心地よさと同時に、檻のように感じられた。
——彼女の手が、するりと僕のシャツの裾から滑り込んだ。
ひやりとした指先が、直接、脇腹の肌を撫でる。びくりと身体が強張る。
「あっくん……」
熱っぽい、掠れた声。彼女の瞳は潤み、欲の色を濃く映していた。
「鈴佳で……いっぱいにしてあげる……他のこと、考えられないように……」
囁きながら、指はさらに大胆に、僕の腹部をゆっくりと撫で上げる。
「ちょ、鈴佳……」
僕の声は掠れる。彼女の熱に呑まれそうだ。
抵抗しようにも、彼女は僕をソファかベッドへといざなうように体重をかけてくる。
その執着に、抗いきれない。
彼女は僕の耳元で、自身のブラウスのボタンを一つ、また一つと外す音を聞かせながら、囁く。
「ほら、あっくんも……鈴佳を感じて……。全部……忘れさせてあげるから……ね?」
甘い誘惑か、思考を奪う呪縛か。
彼女の熱い肌の感触が伝わってくる。意思とは裏腹に、身体が反応しそうで、目を固く閉じた。
彼女はくすりと小さく笑うと、さらに深く身体を密着させてきた。
「あっくん……ん……すき……ずっと、ずっと……離さない……」
その言葉と、肌の熱と、甘い匂い。思考が霞む。流されてしまえば、どれだけ楽か。
——それでも、このままではいけない。
彼女の熱に浮かされながらも、心の奥底では、真実を求める声が消えずに響いていた。
どんなに辛くても、失われた記憶を、真実を、取り戻さなければ。
先ほど頭をよぎった断片の正体を突き止めなければ、僕たちは本当の意味で向き合えない。
鈴佳の吐息と、時折漏れる甘い声だけが響く部屋。
見えない亀裂は、痛みを伴いながらも、もう誰にも止められないほど深く、広がっていた。




