表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/29

27話 図書館の静寂、本当の思い出

 あの日アパートで古いアルバムを開いてから頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 色褪せた写真の中の知らないはずの少女。


 大学で出会った水無瀬さん。


 彼女が小学校時代に確かに存在していたという事実。それなのに記憶には彼女の姿が欠片も残っていない。


『あっくん、中学校に行っても元気でね。 図書委員、楽しかったよ。 水無瀬』


 あの寄せ書きの文字が頭の中で何度も繰り返される。


 水無瀬さんに「あっくん」と呼ばれていた?彼女と図書室で楽しい時間を過ごしたというのか?


 思い出そうとしてもそこだけが分厚い壁に覆われているように何も見えない。

 まるで記憶の一部が誰かにごっそり盗まれてしまったみたいだ。


 公衆トイレでのあの忌まわしい記憶。


 あれが頭を記憶を歪めてしまったのか?水無瀬さんという存在を過去から消し去ってしまったのか?


 隣でテレビを見ている鈴佳の横顔を盗み見る。

 無垢なようでいてどこか底知れない。

 彼女は僕の知らない「本当のこと」を知っているのだろうか。

 考えれば考えるほど深い沼に沈んでいく感覚。


 ——駄目だ。


 このままでは何も分からない。

 失われた記憶の手がかりを求めて大学の図書館へ向かうことにした。


 小学校の図書室。あの寄せ書きにあった場所。

 似たような空間なら何か思い出せるかもしれない。

 そんなか細い希望にすがるように。


「鈴佳、ちょっと図書館行ってくるよ」

 くつろぐ彼女に声をかける。


「え? 図書館? なんで?」

 鈴佳はテレビから顔を上げ怪訝そうな顔でこちらを見た。


「ちょっと、レポートの資料を探しに」

 できるだけ平静を装って答える。


「ふーん……。鈴佳も行く!」

 ソファから立ち上がり腕に絡みつこうとしてくる。


(まずいな……)

 今日はどうしても一人で行きたかった。


「いや——すぐ終わるし一人で集中したいんだ」

 彼女の腕をそっと押し返した。


「なんで? 鈴佳がいたら集中できないってこと?」

 途端に鈴佳の声が尖る。瞳に不満と疑念の色が浮かぶ。


「そういうわけじゃなくて……。とにかくすぐ帰ってくるから」

 できるだけ優しく言い聞かせるように言う。


「……ほんとにすぐ?」

「すぐだ」

「……誰にも会わない?」

「ああ、レポートだけ調べてくる」


 鈴佳はしばらく顔をじっと見つめていたがやがて不承不承といった感じで頷いた。


「……わかった。でも、寄り道しないでまっすぐ帰ってきてね?」

「分かった——」


 彼女の額に軽くキスをして少しの罪悪感とそれ以上の決意を胸にアパートを出た。

 ドアが閉まる直前鈴佳が不安そうな顔でこちらを見ていたのが妙に心に引っかかった。


 向かったのは中央図書館。この大学に複数ある図書館の内、一番大きいものだ。


 大学の図書館は静寂に満ちていた。

 高くそびえる書架。整然と並ぶ本の背表紙。

 微かな紙の匂いと学生たちの息遣い。


 書架の間をゆっくりと歩く。

 目を閉じ意識を集中させる。

 思い出せ。思い出せ。


 小学校の図書室。カウンター。隣にいたはずの少女の顔を。


 ノイズ混じりの映像が頭の中を駆け巡る。

 掴もうとすると霧のように消えてしまう。


「はぁ……」


 諦めの溜息が漏れた、その時。

 ふと視線を感じた。


 顔を上げると少し離れた場所に彼女が立っていた。


 水無瀬さんだった。

 心臓がどくりと大きく跳ねる。

 まさかこんな所で会うなんて。


 彼女もこちらに気づき少しだけ驚いたように目を見開いた。

 そして静かにこちらへ歩いてくる。


「あら——哲さん。どうかなさいましたか? 図書館にいらっしゃるなんて珍しいですね」


 驚きを隠しつつも彼女は穏やかな口調で尋ねてきた。


「あ、いや……ちょっと、調べ物を……」


 しどろもどろになる。

 偶然の出会いに少し動揺していた。


「——そういえば、水無瀬さんに聞きたいことがあって」


 意を決し震える手でスマホを取り出した。

 先日撮っておいたアルバムの写真を見せる。

 図書室で隣に写る幼い彼女の姿。


「これ……水無瀬さんですよね? この前アルバムを見て小学校にいたって初めて知って……」


 早口で説明する。


「でも、僕、全然覚えてないんです。水無瀬さんがクラスにいたこともましてや図書委員を一緒にやったなんてことも——全部記憶から抜け落ちていて」


 混乱したまま彼女の顔を見つめる。

 一体どうなっているんだと答えを求めるように。


 水無瀬さんは写真と顔を交互に見比べそして一瞬息を呑んだように見えた。


 それからふわりと彼女の表情が和らいだ。

 驚きで大きく見開かれた瞳が次の瞬間潤んで揺らめき白い頬がほんのりと上気したように見えた。


「……! 哲さん、小学校のことを……思い出されたのですね?」


 その声は微かに震えていて隠しきれない喜びが滲んでいた。


「少し驚きましたけれど。でも……嬉しいです、本当に」


 彼女はそう言って小さく俯き感情を噛みしめるように微笑んだ。

 その仕草はいつもの彼女にはない感情の表出に見えた。


「でも……覚えては、いらっしゃらなかったのですね。あの頃のこと」


 すぐにその微笑みに寂しさの色が混じる。

 彼女のその複雑な表情から目が離せなかった。


「この寄せ書きも……『あっくん』って、僕のことですか? 図書室で、僕たち……?」


 畳み掛けるように尋ねると水無瀬さんは悪戯っぽくそれでいて少し切なそうに微笑んだ。


「ふふ、そんなこともありましたね」


「図書室、覚えていますか? あの窓際の席。あの時、私が貸した本、どうされました? それとも急な雨で二人で雨宿りしたこと、とか?」


 彼女が口にした具体的なキーワード。

 貸した本? 雨宿り?


 頭の中で何かが引っかかる。ノイズが一層強くなる。だがやはり思い出せない。

 ポケットの中のスマホの存在を思い出しふと罪悪感がよぎる。鈴佳に知られたら——。


「でも、どうして僕は……?」


 苦しそうな様子を見てか水無瀬さんの声に影が差した。


「哲さんがあの頃のことを思い出せないのは仕方のないことかもしれません」


 彼女の声は低くなる。


「本当に、色々なことが——辛いことが、ありましたから」


 その言葉には明確な重みがあった。

 この記憶喪失がただの物忘れではないことを示唆している。


「色々って——辛いことって、教えてくれませんか」


 詰め寄る。彼女の瞳に強い共感の色が浮かぶ。


「……辛いですよね、自分の記憶が信じられないというのは。でも……だからこそ」


 彼女はふいに表情を引き締め強い光を目に宿してこちらを見つめた。

 その瞳は覚悟を問うているようだった。


「どんなに忘れられていても、()()の思い出は、誰にも奪わせませんから」


 静かだが確かな決意が込められた声。


()()に」


 その言葉は鈴佳の存在を明確に意識したものだと分かった。

 過去が何者かによって歪められ奪われたのだと彼女は告発しているのだ。

 強い衝撃に言葉を失った。


 その時ポケットの中のスマホがけたたましい着信音で鳴り響いた。

 画面には「鈴佳」の二文字。

 現実に引き戻される。


「すぐ帰る」と約束した手前無視し続けるわけにはいかない。


 焦りを見て取ったのか水無瀬さんは表情を曇らせたがその瞳の奥の決意の色は消えていなかった。


「時間……ですね」

「あまり彼女を心配させない方がよろしいですよ」


 その言葉には現状に対する複雑な感情が滲んでいる気がした。


「……はい」


 それだけ答えるのが精一杯だった。

 水無瀬さんは最後に目を強く見つめると静かに頭を下げ書架の奥へと歩き去っていった。

 その背中には先ほどの言葉通りの揺るぎない意志のようなものが感じられた。


 図書館の自動ドアを抜け外の喧騒に戻る。

 明確な答えはやはり得られなかった。


 だが水無瀬さんの強い決意の込められた言葉は確かに心に響いていた。

 鈴佳への疑念ももはや無視できないものになっていた。


 鳴り続けるスマホの振動をポケットの中で強く握りしめる。見上げた空は赤と紫が混じり合ったような複雑な色をしていた。


 図書館で見た水無瀬さんの潤んだ瞳。

 アパートで待つ鈴佳の不安げな顔。

 そして記憶の霧の中にいる知らない自分自身。


 全てが不確かでこれからどうなるのか何も分からない。


 ただ、もう引き返すことはできない。

 それだけは、確かだった。

 足は、無意識にアパートへと向かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ