26話 欠けたピース
大学からの帰り道。
夕陽がアスファルトに落とす影は、いつの間にか二つが当たり前になっていた。
アパートのドアを開け、中に入る。
鈴佳も、まるで自分の部屋のように、すぐ後ろについてくる。
物理的な繋がりを示すルールは消えた。
それでも、「呼吸を合わせる」という不可視の同調が、僕たちをまだ見えない檻に閉じ込めているような気がした。
「ねぇあっくん、この箱、いつまで置いとくの? 邪魔じゃない?」
部屋の隅、実家から送られてきた段ボール。
主に、僕の過去が眠る箱。
重い腰を上げられずにいた僕の代わりに、鈴佳が興味津々といった顔で封を開け始めた。
「おい、勝手に……」
「いいじゃん別にー。あっくんの可愛い写真とか入ってないかなー?」
悪戯っぽく笑う鈴佳。
まあ、どうせ大したものはない。古い教科書、ノート、漫画、そして——
「あ、これ!」
鈴佳が声を弾ませた。
彼女が取り出したのは、少し黄ばんだ分厚いアルバム。
表紙には卒業した小学校の名前が刻まれている。
「懐かしい! 見ようよ、あっくん!」
目を輝かせる鈴佳に引っ張られるように、僕たちはソファに並んで腰掛けた。
色褪せたページが、ゆっくりとめくられていく。
一枚一枚の写真が、忘れていたはずの記憶の扉を叩く。
泥だらけの運動会。
緊張した顔の学芸会。
遠足のバスの中……。
隣で鈴佳が、当時の記憶を楽しそうに、とめどなく言葉を続ける。
「この時あっくんが転んでさー!」
「このお弁当、鈴佳が作ったんだよ!」
「ああ……そうだったかな」
曖昧に頷きながら写真に見入る。
どうも小学校高学年の記憶が靄がかかったように断片的だ。
鈴佳の話を聞いても、自分の記憶と照合できないもどかしさがあった。
「見て! ベストショット!」
鈴佳が指差したのは、桜の木の下のツーショット。
少し照れた顔の僕と、満面の笑みの鈴佳。
「やっぱり、あっくんの隣は鈴佳でしょ! ずーっと一緒だったんだから!」
鈴佳は満足そうに言う。
そうだ、鈴佳はずっと隣にいた。記憶の中では、それが全てだった。
——次のページを開くまでは。
クラスの集合写真。
最前列、僕の隣には鈴佳。
だが、数人隣に…見慣れた顔立ちの少女がいる。
黒髪の長髪。伏し目がちな、けれど芯の強そうな瞳。
(あれ……? この子——)
見覚えがある。大学で会っている、あの……。
「……水無瀬さん?」
呟きが漏れた。
大学で初めて会ったはずの彼女が、なぜ小学校の集合写真に?
「……え? 小学校、一緒だったのか?」
信じられない思いで写真を見つめる。
そうだ、よく見れば、他の写真にも時折写り込んでいる気がする。
なのに、なぜ?
なぜ僕は、彼女が同じ学校に、同じクラスにいたことすら、今まで全く思い出せなかったんだ…?
「……ふーん。いたような、いなかったような? 昔のことなんて忘れちゃった」
鈴佳は、興味なさそうに、そっけなく答えた。
衝撃を受けながら、次のページをめくる。
図書室で撮られた写真。カウンターに座る自分。
隣には……水無瀬さんだ。
静かに本を読んでいる。
「——うそだろ」
全く、記憶がない。
写真の中の水無瀬さんは、本に目を落としているようで、その横顔は……どこか、何かを秘めているようにも見える。
「昔のことなんてどうでもいいじゃん! それより、こっちの写真見てよ、あっくん! このあっくん、すっごく可愛い!」
鈴佳は、僕の言葉にかぶせるように、強引に話題を変えた。
別のページにある、まだあどけない僕の写真を指差して、無邪気に笑う。
その屈託のない笑顔に、何も言えなくなる。
だが、心の中の混乱は収まらない。
林間学校の写真。
カレー作り。エプロン姿の自分。顔に煤をつけた鈴佳。
そして、やはり同じ班に、少し困ったように笑う水無瀬さんがいる。
写真の中の自分は、彼女の方を向いて何か話している。
鈴佳は少し不機嫌そうに、そっぽを向いていた。
「…………」
言葉を失う。
こんな場面があったのか?
記憶では、鈴佳と二人でふざけていたような気がしていたのに。
写真が突きつけてくるのは、知らない過去の断片。
そして、記憶の致命的な欠落。
自分の記憶が、まるで虫食いだらけの本のように感じられた。
大切なページが、ごっそりと抜け落ちている。
アルバムの最後のページ。卒業記念の寄せ書き。
クラスメイトたちのメッセージ。
その隅に、見覚えのあるような、ないような、丁寧な文字。
『あっくん、中学校に行っても元気でね。 図書委員、楽しかったよ。 水無瀬』
「——っ!!」
全身の血が逆流するような衝撃。
やはり本人だ。
そして、あっくん? 僕のことを? 彼女が?
『図書委員楽しかったよ』……? 僕は、彼女と同じ図書委員で……?
頭が、割れるように痛む。
自分の記憶との、あまりの断絶。
僕は、何を忘れている?
いや、どれだけのことを、忘れてしまったんだ?
あの事件だ。公衆トイレでの、あの恐ろしい記憶。
あれが、頭を、記憶を、壊してしまったのかもしれない。
あの日を境に、何か大事なものを、水無瀬さんに関する何かを、全て失ってしまったというのか?
「あっくん、もうアルバムいいでしょ? お腹空いちゃった!」
鈴佳が、俺の肩にこてんと頭を乗せて、甘えた声を出した。
そして、アルバムを閉じる。
「……ああ、そうだな。何か作るか」
かろうじてそう答えた。
内心の激しい動揺を悟られないように、必死で平静を装う。
自分の記憶が信じられない。
こんなにも不確かで、曖昧で、穴だらけだったなんて。
その事実に、ただ愕然とするしかなかった。
水無瀬さんの言葉が、重く響く。
『本当のこと』
それは、失ってしまった記憶の中に、深く、深く、埋もれているのかもしれない。
その失われた過去を、何としてでも掘り起こさなければならない。
強い決意とも、恐怖ともつかない感情が、胸を締め付けていた。




