表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/29

26話 欠けたピース

 大学からの帰り道。

 夕陽がアスファルトに落とす影は、いつの間にか二つが当たり前になっていた。


 アパートのドアを開け、中に入る。

 鈴佳も、まるで自分の部屋のように、すぐ後ろについてくる。


 物理的な繋がりを示すルールは消えた。

 それでも、「呼吸を合わせる」という不可視の同調が、僕たちをまだ見えない檻に閉じ込めているような気がした。


「ねぇあっくん、この箱、いつまで置いとくの? 邪魔じゃない?」


 部屋の隅、実家から送られてきた段ボール。

 主に、僕の過去が眠る箱。

 重い腰を上げられずにいた僕の代わりに、鈴佳が興味津々といった顔で封を開け始めた。


「おい、勝手に……」


「いいじゃん別にー。あっくんの可愛い写真とか入ってないかなー?」


 悪戯っぽく笑う鈴佳。


 まあ、どうせ大したものはない。古い教科書、ノート、漫画、そして——


「あ、これ!」


 鈴佳が声を弾ませた。

 彼女が取り出したのは、少し黄ばんだ分厚いアルバム。

 表紙には卒業した小学校の名前が刻まれている。


「懐かしい! 見ようよ、あっくん!」


 目を輝かせる鈴佳に引っ張られるように、僕たちはソファに並んで腰掛けた。

 色褪せたページが、ゆっくりとめくられていく。

 一枚一枚の写真が、忘れていたはずの記憶の扉を叩く。


 泥だらけの運動会。

 緊張した顔の学芸会。

 遠足のバスの中……。


 隣で鈴佳が、当時の記憶を楽しそうに、とめどなく言葉を続ける。


「この時あっくんが転んでさー!」

「このお弁当、鈴佳が作ったんだよ!」


「ああ……そうだったかな」


 曖昧に頷きながら写真に見入る。


 どうも小学校高学年の記憶が靄がかかったように断片的だ。

 鈴佳の話を聞いても、自分の記憶と照合できないもどかしさがあった。


「見て! ベストショット!」


 鈴佳が指差したのは、桜の木の下のツーショット。

 少し照れた顔の僕と、満面の笑みの鈴佳。


「やっぱり、あっくんの隣は鈴佳でしょ! ずーっと一緒だったんだから!」


 鈴佳は満足そうに言う。

 そうだ、鈴佳はずっと隣にいた。記憶の中では、それが全てだった。


 ——次のページを開くまでは。


 クラスの集合写真。

 最前列、僕の隣には鈴佳。

 だが、数人隣に…見慣れた顔立ちの少女がいる。


 黒髪の長髪。伏し目がちな、けれど芯の強そうな瞳。


(あれ……? この子——)


 見覚えがある。大学で会っている、あの……。


「……水無瀬さん?」


 呟きが漏れた。


 大学で初めて会ったはずの彼女が、なぜ小学校の集合写真に?


「……え? 小学校、一緒だったのか?」


 信じられない思いで写真を見つめる。

 そうだ、よく見れば、他の写真にも時折写り込んでいる気がする。


 なのに、なぜ?


 なぜ僕は、彼女が同じ学校に、同じクラスにいたことすら、今まで全く思い出せなかったんだ…?


「……ふーん。いたような、いなかったような? 昔のことなんて忘れちゃった」


 鈴佳は、興味なさそうに、そっけなく答えた。

 衝撃を受けながら、次のページをめくる。


 図書室で撮られた写真。カウンターに座る自分。

 隣には……水無瀬さんだ。

 静かに本を読んでいる。


「——うそだろ」


 全く、記憶がない。

 写真の中の水無瀬さんは、本に目を落としているようで、その横顔は……どこか、何かを秘めているようにも見える。


「昔のことなんてどうでもいいじゃん! それより、こっちの写真見てよ、あっくん! このあっくん、すっごく可愛い!」


 鈴佳は、僕の言葉にかぶせるように、強引に話題を変えた。

 別のページにある、まだあどけない僕の写真を指差して、無邪気に笑う。

 その屈託のない笑顔に、何も言えなくなる。


 だが、心の中の混乱は収まらない。

 林間学校の写真。

 カレー作り。エプロン姿の自分。顔に煤をつけた鈴佳。

 そして、やはり同じ班に、少し困ったように笑う水無瀬さんがいる。


 写真の中の自分は、彼女の方を向いて何か話している。

 鈴佳は少し不機嫌そうに、そっぽを向いていた。


「…………」


 言葉を失う。

 こんな場面があったのか?

 記憶では、鈴佳と二人でふざけていたような気がしていたのに。


 写真が突きつけてくるのは、知らない過去の断片。

 そして、記憶の致命的な欠落。

 自分の記憶が、まるで虫食いだらけの本のように感じられた。


 大切なページが、ごっそりと抜け落ちている。

 アルバムの最後のページ。卒業記念の寄せ書き。

 クラスメイトたちのメッセージ。

 その隅に、見覚えのあるような、ないような、丁寧な文字。


『あっくん、中学校に行っても元気でね。 図書委員、楽しかったよ。 水無瀬』


「——っ!!」


 全身の血が逆流するような衝撃。

 やはり本人だ。


 そして、()()()()? 僕のことを? 彼女が?

『図書委員楽しかったよ』……? 僕は、彼女と同じ図書委員で……?


 頭が、割れるように痛む。

 自分の記憶との、あまりの断絶。

 僕は、何を忘れている?

 いや、どれだけのことを、忘れてしまったんだ?


 あの事件だ。公衆トイレでの、あの恐ろしい記憶。

 あれが、頭を、記憶を、壊してしまったのかもしれない。

 あの日を境に、何か大事なものを、水無瀬さんに関する何かを、全て失ってしまったというのか?


「あっくん、もうアルバムいいでしょ? お腹空いちゃった!」


 鈴佳が、俺の肩にこてんと頭を乗せて、甘えた声を出した。

 そして、アルバムを閉じる。


「……ああ、そうだな。何か作るか」


 かろうじてそう答えた。


 内心の激しい動揺を悟られないように、必死で平静を装う。

 自分の記憶が信じられない。

 こんなにも不確かで、曖昧で、穴だらけだったなんて。

 その事実に、ただ愕然とするしかなかった。


 水無瀬さんの言葉が、重く響く。


『本当のこと』


 それは、失ってしまった記憶の中に、深く、深く、埋もれているのかもしれない。

 その失われた過去を、何としてでも掘り起こさなければならない。


 強い決意とも、恐怖ともつかない感情が、胸を締め付けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ