25話 思考の霞、甘い窒息
水無瀬さんの残した言葉は、春の陽光の下でさえ、ひやりとした影のように僕たちの間に横たわっていた。
彼女の去っていった方向を、僕は無意識に目で追っていた。
確固たる意志を宿した、あの瞳。
その姿が視界から消えても、彼女の声だけが耳の奥でこだまするようだった。
本当のこと。
その響きが、頭の中で反響する。
僕が忘れている何か。水無瀬さんが知っている何か。
それは、僕と鈴佳の関係の根幹を揺るがすものなのだろうか。
——いや、考えたくない。
今は、この腕の中にある温もりだけが真実だ。
そう思いたかった。僕の思考は、都合の良い安寧へと逃避しようとする。
隣で、鈴佳が僕の腕にさらに強くしがみついてくる。
僕の動揺を感じ取ったのかもしれない。
あるいは、水無瀬さんという「外部」の存在に対する、純粋な防衛本能か。
彼女の指先が、僕の服を強く掴む。
「……あっくん」
か細い、けれど強い意志を感じさせる声。
見ると、鈴佳は僕の顔をじっと見上げていた。
その大きな瞳には、先程までの挑戦的な光は消え、代わりに不安と、そして僕への強い執着が揺らめいていた。
熟れた果実のような甘い匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。
「鈴佳のこと、ちゃんと見ててね?」
それは懇願のようであり、命令のようでもあった。
僕が他のもの——水無瀬さんや、過去の断片——に気を取られることを、彼女は何よりも恐れている。
その時——僕が頷くよりも早く、彼女の小さな手が僕の顎を掴んだ。
有無を言わさぬ力強さで顔を固定される。
——そして、彼女の唇が、熱を帯びて僕のそれに触れた。奪うように、柔らかく、しかし有無を言わせぬ圧力で重ねられる。
「ん……っ!」
驚きと、反射的な抵抗の呻き。だがそれは、すぐに彼女の舌によって塞がれた。
強引にこじ開けられた歯列の間から、ねっとりと湿ったそれが侵入してくる。
熱い。柔らかい。僕の口内を蹂躙するように、舌が自在に動き回る。
上顎をくすぐり、歯列をなぞり、僕の舌に吸い付くように絡みついてくる。
びくり、と背筋が震えた。抗いたいのに、身体が言うことを聞かない。
それはあの頃の記憶を呼び覚ますようでいて、しかし明らかに、もっと貪欲で、僕を支配しようとする明確な意志を持っていた。
「……ん、ちゅ……じゅる……」
水音がやけに大きく響く。僕の呼気を根こそぎ奪い去ろうとするかのように、深く、執拗に舌が吸い付いてくる。
熱い唾液が混ざり合い、どちらのものともつかない粘り気のあるそれが喉の奥へと流れ込んでいく感覚。
境界線が溶けて、思考が甘く痺れて霞んでいく。
どれくらいそうしていただろうか。
酸素を求める身体が限界を訴え、僕が苦しさに身じろぎすると、ようやく彼女は名残惜しそうに、しかしどこか勝ち誇ったように唇を離した。
互いの唇の間には、きらりと光る透明な糸が引いている。彼女の唇は濡れて、熟れた果実のように赤みを増していた。
はっ、はっ、と肩で息をする僕を、鈴佳は目を細めて、とろりとした甘い笑みを浮かべて見下ろしていた。
まるで恍惚としているかのように、僅かに頬が上気している。彼女はゆっくりと自身の濡れた下唇を舌先で舐めた。
「……ふふ、ね。今のあっくんの呼吸、ぜんぶ鈴佳がもらった」
まるで戦利品を誇示するように、彼女は言う。
その瞳は、子供のような無邪気さと、底知れない独占欲がないまぜになって、爛々と輝いていた。
そして彼女は、何も言わずに僕の胸に顔をうずめ、強く抱きしめてきた。
僕の思考を、存在ごと、自分のものだと主張するように。
僕はされるがまま、彼女の髪の匂いを吸い込む。甘い匂いが思考を鈍らせる。
水無瀬さんは「待っている」と言った。
僕が「気づくまで」
何を?
思考が巡る。
けれど、腕の中で安堵したように目を閉じる鈴佳を見ると、その思考も霧散していく。
今は、これでいい。
そう言い聞かせるように、僕は彼女の柔らかな身体を抱きしめ返した。
この閉じた世界は、心地よい微睡みを与えてくれる。
だが、水無瀬さんの言葉は、心の奥に刺さったままだった。
『私は、諦めません』
その声が、これからの波乱を予感させていた。
僕たちの、歪で甘美な均衡が、いつまでも続くはずがないことを。




