24話 春の陽、三角の影
春の陽光は、気怠い午後の講義室にも平等に降り注ぐ。けれど、僕の意識は窓の外の眩しさよりも、隣に座る鈴佳の存在に、その微かな息遣いに、囚われていた。
吸う、吐く。その単純な生命の営みが、僕たちの間に見えない糸を張り巡らせているような、奇妙な感覚。心地よさと、紙一重の息苦しさ。
講義が終わると、鈴佳は待っていたかのように僕の手を取り、教室を出る。
その繋がりは、以前のような物理的な強制力はないけれど、もっと深く、精神的なレベルで僕を縛っているのかもしれない。
僕も、それを振り払おうとは思わなかった。むしろ、この温もりに安堵している自分さえいる。
中庭のベンチに並んで腰掛ける。
鈴佳は買ってきたパンを小さな口で頬張りながら、僕の肩にこてんと頭を預けてくる。甘えるような仕草。僕はただ、その重みを感じていた。
——その、二人だけの均衡を破るように、影が差した。
「哲さん、鈴佳さん」
凛とした、けれどどこか硬質な響きを含む声。見上げると、水無瀬さんが立っていた。春の日差しを背に受け、彼女の表情は少し読み取りにくい。
「こんにちは、水無瀬さん」
僕は努めて平静に挨拶を返した。隣の鈴佳は、パンを食べる手を止め、無言で水無瀬さんを見上げている。その瞳には、あからさまな警戒の色が浮かんでいた。
「少し、よろしいでしょうか」
水無瀬さんは僕に問いかける。鈴佳の存在を意に介さないように、あるいは、あえて無視するように。
「はい……」
断る理由も見つからず、曖昧に頷く。水無瀬さんは僕たちの正面に回り込み、静かに視線を僕に合わせた。
「……最近、哲さん、なんだか雰囲気が……変わられましたね」
探るような、それでいて確信を求めるような口調。僕はどきりとした。
「っ——」
言い淀む僕の腕に、鈴佳がきゅっとしがみついてきた。まるで「私のものだ」と主張するように。水無瀬さんの視線が、一瞬だけ、その繋がれた腕に移る。
「なんだか……とても、鈴佳さんと一体になられている、というか……。二人だけの世界、という感じがします」
水無瀬さんの言葉は、的確に僕たちの現状を射抜いていた。僕自身、その甘美な閉塞感に浸り始めていたのかもしれない。それを外部から指摘され、狼狽える。
「そんなことは……」
思わず否定しようとした僕の言葉を遮るように、鈴佳が口を開いた。
「あっくんと鈴佳は、ずーっと一緒だもんね?」
無邪気さを装った、しかし明確な棘を含んだ言葉。それは水無瀬さんに向けられた牽制だった。
水無瀬さんの表情が、僅かに歪む。春の柔らかな光の下で、三人の間に張り詰めた空気が生まれる。それは甘い生活とは程遠い、ひりつくような緊張感。
「……そう、ですか。でも、哲さん。それで、本当にいいのですか?」
水無瀬さんの声には、混乱と、そして微かな苛立ちが混じっていた。彼女は何を言いたいのだろう。
何を知っていて、何を僕に期待しているのだろう。
「……」
僕は答えられなかった。
水無瀬さんは、僕の返事を待たず、ふっと息を吐いた。それは諦めにも似ていたが、彼女の瞳の奥には、諦めとは違う、強い光が宿っていた。
「……分かりました。今は、何を申し上げても、届かないのかもしれませんね」
彼女は鈴佳を一瞥し、そしてもう一度、僕を真っ直ぐに見つめた。
「でも、私は——待っていますから」
その言葉には、奇妙なほどの確信が込められていた。何を、待つというのか。
「哲さんが……本当のことを、思い出して、気づくまで。……私は、諦めません」
本当のこと。その言葉が、僕の胸に重く響く。僕が忘れている何か。水無瀬さんが知っている何か。
彼女はそれだけ言うと、静かに踵を返し、喧騒の中へと歩き去っていった。その背中には、確固たる意志のようなものが感じられた。
後に残されたのは、僕と、僕に寄り添う鈴佳。
水無瀬さんの言葉が残した緊張感は、彼女が去ってもなお、僕たちの間に微かに漂っていた。
鈴佳は僕の腕の中で、どこか挑戦的な、それでいて縋るような複雑な光を目に宿して僕を見上げていた。その瞳の奥に何があるのか、僕にはまだ分からない。
ただ、穏やかに見えた春の中庭が、これから吹き荒れる嵐の前の、束の間の静けさのように感じられた。




