14話 『 』
僕は水無瀬さんの声を聴いた。
——あくまでも、聴くだけ。
ギリギリまで音量を絞ったスマホを耳に当てて、まるで手の平から雫がこぼれ落ちない様に、そっと聴く。
左手は——鈴佳と繋がったまま。
唯一のルールは、守り——続ける。
掌に汗をかかない様に——鈴佳に気付かれてしまわないように、息を潜めて水無瀬さんの声をスマホ越しに聴く。
手の平からは、普段は気づかない鈴佳の鼓動が、血の流れが感じられた。指先がじんわりと熱を帯びる。
そして鈴佳の吐息が——静かな空間の中で際立った気がした。
——意識がそちらに吸い取られている最中、不安そうな水無瀬さんの声が聞こえた。
あわてて注意をそちらに向ける。
「聞こえて——るんですよね? そうですね……二回、受話口を撫でてください」
僕はスマホの下にあるマイク部、ざっと雑音が入るように二回撫でた。
すると、ぱっと明るく、嬉しそうな声で水無瀬さんが言う。
「はい、合格——です。ふふ、でもまるでこんなの、DVにあっている夫婦の緊急通報じゃあ、ないですか——」
それがおかしいという風に、小さく、上品に水無瀬さんは笑った。
……僕には、笑えないけれど。
「そして、私は側から見れば、相手もいないのに話している——可笑しな女、ですけど」
……反応に困ることを言わないでほしい。申し訳なくなる。
「でも哲さんは——望んでそこにいる。はいは一回、いいえは二回」
迷わず一回だけ撫ぜた。
自分にも——彼女にも、嘘はつけなかった。
二度目を待っているかのように、数十秒空いた後、ため息をつきながら水無瀬さんは言う。
「……はあ——分かっては——いましたけど、だいぶ哲さんは難儀な状況に、自らを置いているようですね」
難儀という言葉を、ひさしぶりに他人との会話で聞いた気がする。
……自分が喋らなくていいとなると、余念が多くなるのが僕の傾向らしい。
「哲さんは私からの連絡を——望んでいる? はいは一回、いいえは二回」
一回だけ、撫ぜた。まるで自分がコックリさんになったかのような対話。
また数十秒空いてから、彼女は言う。
「二回だったら、私も迷うこと、無かったのに——」
受話器に近いのか、少しくぐもる彼女の声。
感情は読めない。テキストベースの会話よりも、ずっと情報量は多いはずなのに。
「……鈴佳さんのことは——好きですか? はいは一回、いいえは二回」
少し言い淀んだ彼女は、最後まで言い切った。
その言葉に、僕は——僕は、答えられなかった。
惹かれている、義務感がある、それは確かだろう。
しかし、それは好きと言うことなのか?
僕が鈴佳を好きで、そのために鈴佳の益となることを、自分の不利益を省みずしたいと思っているのか?
考えは纏まらない。
一分ほど経って、水無瀬さんは言った。
「……私のことは——好きですか? はいは一回、いいえは二回」
……何か質問の意味合いが少し違うような。
答えられないし、答えなかった。
水無瀬さんは続ける。
「どうしようもなく、論理的では無いですけれど——私は貴方に好意を持っています」
——鏡合わせのように、僕もそう思っていた。
「こんなに面倒なやりとりを強要されて、私のことを好きでもない——でも嫌いでもない相手に、好意を持っています」
嬉しいような、悲しいような。
「ただ私は、貴方と——哲さんと、もっと話してみたい。いろいろ——会話をしてみたいんです」
その言葉を聞いて、胸が熱くなった。
「こんな状況下で、まともな付き合いが望めない環境において、それでも私は貴方との関係を断ち切れない。もちろん、これも私のわがままですが、そこに力を割いて欲しいです。私も出来ることは——します」
僕は一瞬躊躇った後、意思を示すようにガリと一度だけ、強く受話口を引っ掻いた——。
彼女の、少し嬉しそうで、けれど気を引き締めているかのような凛とした声が受話器越しに聞こえた。
「分かりました——私も善処します。哲さんも、仰ったからにはお願いします」
「ではまた明日。おやすみなさい」
僕が一回撫ぜると、彼女は通話を切ったけど、彼女が言ったことが僕にはよくわからなかった。
善処とは、何を指しているのだろう。
——後に僕は知る事となる。
まだ僕は——水無瀬さんのことなんて、全く知らなかったという事に。




