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Cafe Shelly

Cafe Shelly 課長はつらいよ

作者: 日向ひなた

 もう頭がパニック!

 課長、という職についてから三ヶ月が経った。まさか、中間管理職がこんなにも複雑で、厄介なものだとは今まで思いもしなかった。

「詠太くん、ちょっと」

 また部長にお呼ばれだ。この時間もムダとしか思えない。とにかく机の上に溜まった仕事を片付けないといけないし、部下からの報告を受けて適切な指示も出さなきゃいけないのに。そんな暇すら与えてくれない。

 我が社は社員五十名ほどの、地元ではちょっと名前が知れた機械製造会社。私は三十八歳だが、三ヶ月前に総務課長に任命された。今まで、総務の係長としてバリバリ仕事をこなしてきた自信はあった。そして総務課長が定年退職したことで、くり上がりで私が総務課長になったのだが。

「詠太くん、そろそろ新卒採用のことを考えないといけないのだが。予定はどうなっているかな?」

 確かにこの仕事、去年は私が担当をしてスケジュールを立て、学校説明会にも回った。地元の優秀な工業高校の生徒をいかにして集めるか、ここに意識をおいてやったおかげで、昨年は三名の新卒者を採用できた。

 だが、今年はこの仕事を、それこそ繰り上がりで係長になった三十二歳の後輩に任せたのだが。

「すいません、田原に仕事を任せていたんですが。まだ報告がなくて。大至急確認します」

「まったく、頼むよ。詠太くんが課長になってから、仕事の報告が遅れることが多いぞ」

「は、はぁ…」

 これについては私も言い分がある。私が係長だった頃は、課長への報告は積極的に行っていた。だから前任の課長も部長への報告は、滞り無く行っていたんだ。

 けれど、私が課長になっても田原係長以下の人間から、積極的な報告がない。これは人のやる気の問題であり、私が悪いわけではない。

 ともかく、新卒採用の件は早速田原に聞くことにした。

「えっ、あの件って去年通りにやるんじゃないんっすか?」

 驚いた。田原の答えがこれだったとは。だから、去年と同じ手順ですでに手配や準備を始めているとのこと。

「おいおい、私に何の相談もなしに、勝手にやってるってことなのか?」

「いけないんっすか? 去年詠太さんも勝手に動いてた気がするし。だからあの通りでいいと…」

「バカヤロウ! あれはちゃんと課長や部長の承認をもらっていたから、自分で動いてたんだよ。組織というのは、何でも自分の思いで動いていいってもんじゃないんだ!」

 ついカッとなって怒鳴ってしまった。

 そのあと、職場には険悪な雰囲気が漂う。まったく、田原の野郎、仕事をなんだと思っているんだ。けれど、田原は田原で私のことをにらみつけるし。周りの人間も、ふだん温厚な私があんなに怒鳴ったので、私に声もかけなくなった。

 結局、田原の尻拭いで管理職である私だけ残業。残業手当はつかない、タダ働きのようなものだ。

 こんなことなら、課長になんてなるんじゃなかった。昇進だからって喜んでいる場合じゃなかったな。給料はわずかしか上がらないし、責任は重たくなるし、こうやって部下の尻拭いはしなきゃいけないし。

 翌日、また別の問題が発生。なんと、今度は女子社員が通勤途中で事故を起こしてしまった。原因はよそ見。しかも、今流行のスマホアプリを操作していたらしい。

 さいわい本人に怪我はなかったが。ただでさえ、あのスマホアプリによる事故は社会問題になっているのに、どうしてそんなことをしてしまったんだ。

 会社としての姿勢を、警察からもかなり問われてしまった。

「はい、社員にはきちんと言い聞かせます」

 そう言うのが精一杯だった。ホント、そのくらい社会人なんだから自分でちゃんとコントロールしてくれよ。なんか疲れたな…。

「あら、なんだかお疲れね。最近元気がないじゃない」

 家に帰ると、やたらと元気な妻がそう言う。妻が元気な理由、それは…

「今日ね、また契約が一つ決まったの。最近調子いいのよね」

 妻は保険の販売をやっているセールスレディ。この仕事がとても楽しいらしく、実際に成績もかなりいいらしい。なんでも今度、保険会社の成績優秀者の集まりで表彰されるらしい。

 我が家は残念ながら子どもがいない。結婚して十年は経つが、どうやらどちらかに原因があるようだ。不妊治療をしようかとも思ったが、お互いに仕事が忙しくてそれどころじゃなくなり。自然に任せようということで、結局今の状況。

「課長になったからって、いいことないよ、ホントに」

 私は缶ビールを冷蔵庫から出しながらそう言う。食卓には簡単なツマミが用意されている。妻も働いているので、ほとんどが買ってきたお惣菜ではあるが。

「なぁに言ってんの。その前は課長がもうすぐ退職だから、俺の時代がやってくるなんて言ってたくせに」

「はぁ、俺の時代どころか。部長と部下の板挟みで、それどころじゃないよ」

「男ってわがままよね。ホント、自分勝手なんだから。下手に出世なんかするもんじゃないなぁ」

 妻の言い分もよくわかる。こんなに責任が重たくなるのに、それに対しての報酬というのは微々たるもの。褒められるより叱られる方が多くなるし。もう何もかも投げ出したくなる。

「ねぇ、今度の休みは何か予定入ってる?」

 妻がそう言い出した時は、どこか行きたいところがあることが多い。一人で行けばいいのにって思うけど、うちは子どもがいなうえに平日はスレ違いの時間が多いから。こういった二人の時間も大切にしなきゃ。

「特に何もないけど」

「じゃぁ、買い物につきあってよ。そろそろ買っておきたい服もあるし」

「わかった。お付き合いしますよ、お嬢様」

「ふふふ、ありがとう」

 ま、これが夫婦円満の秘訣かな。せめて夫婦関係くらいは円満でいたいからな。

 ストレスをためながらも、休日に向けて仕事を頑張る。新卒者採用問題も、事故の問題もなんとか処理して、ようやく待望の休日を迎えた。

「で、どこに行きたいの?」

「たまには街をぶらぶらしようよ」

 妻はどうやら特定のお店に行きたいってわけじゃなさそうだ。適当にブラブラして、気に入ったものがあれば買う。そんなスタイルを楽しみたいんだろう。おかげで今日はかなり歩くことになりそうだな。

 こうして妻と二人で久々に歩く街。結婚前はこれが初々しくて、すごくドキドキしたものだ。けれど、連れ合って何年にもなるとさすがにドキドキ感はない。

 が、今日は妻が意外な行動に出た。

「ねぇ、手、つなごっか」

「えっ、手?」

 そう言うやいなや、妻は私の手をぎゅっと握ってきた。恥ずかしさもあってか、急に心臓の鼓動が高まってくる。しかし悪い気はしない。

 それにしても、急に手をつなごうなんてどういうことなんだろう?

 しばらく歩きまわり、さすがにのども乾いた。

「どこかでちょっと休んでいこうよ」

「あら、この辺で二時間休憩するところなんてないわよ」

「おいおい、そう言う意味じゃなくて…」

「わかってるわよ。そうね、どこか喫茶店ってないかな」

 今歩いている通りは、街の裏側にある細い小路。パステル色のタイルで敷き詰められた道の両側に、いろいろなお店が並んでいるところ。この通りも、こうやってゆっくりと歩くのは久しぶりだ。

「あ、ここに喫茶店がある。行ってみようよ」

 妻が指差した先に、喫茶店のメニューが書いてある黒板を発見。その黒板の下の方にこんな言葉が書いてある。

「幸せの青い鳥って、どこにいるのかご存じですか?」

「メーテルリンクの青い鳥の話だな。幸せって、実は身近なところにあったんだって、そういうことだったな」

「じゃぁ、詠太の幸せってどこにあるの?」

「そうだな、今ここにあるのかな」

 そう言って俺は妻の手をぎゅっと握った。妻もそれに応えて、私の手をぎゅっと握り返してきた。こういったささいなことが、幸せなんだよな。

カラン・コロン・カラン

 お店の扉を開けると、心地良いカウベルの音。それとともに漂ってくるコーヒーの香り。その中に混じって、甘い香りもする。なんかここ、落ち着くな。

「いらっしゃいませ。お二人ですね。よかったら窓際のお席にどうぞ」

 かわいらしい女性店員に案内されて、私たちは半円型の窓際のテーブル席に通される。そこは四人がけで、すでに二人の女性客がそこに位置していた。

 店内を見回すと、真ん中に三人がけの丸テーブル。ここにはカップルが座っている。カウンターには常連客らしき人が、この店のマスターと話し込んでいる。さらに、その横では大学生だろうか、男性客が黙々と読書をしている。

「こちらがメニューです」

 手渡されたメニューを開くと、コーヒーがずらりと並んでいる。ここは純喫茶か。今時めずらしいな。

 真っ先に目に入ったのは、一番上に書かれているオリジナルブレンドコーヒー「シェリー・ブレンド」。そこにはこんな言葉が書かれてある。

「今、あなたが望んでいるものが味わえます」

 どういう意味だろう? なんか面白そうだな。

「ね、これ飲んでみない?」

 妻も同じ思いのようだ。早速このシェリー・ブレンドを注文。

「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンドツーお願いします」

「かしこまりました」

 さて、どんなコーヒーが出てくるのか、ちょっと楽しみだ。

「ところでさ、詠太は課長になってどんなことがしたいの?」

 珍しく妻の方から仕事について話題を振ってきた。私は腕組みをしてちょっと考える。今までそんなこと、まともに考えたことはなかった気がする。

「そうだなぁ…係長だった頃は、課長を見てもっとこうすればいいのにって思ったことはあったけど。いざ課長をやってみると、思ったようにはいかないってことを実感してて。とにかく目の前の仕事をこなすので精一杯だから。でも、どうしてそんなこと聞いてくるんだ?」

「だってさ、課長になってから詠太、ストレスたまりまくってるじゃない。病気にでもなるんじゃないかって、心配なのよ」

 妻に言われたとおり、確かにストレスはたまっている。さすがにうつ病になるほどではないが、今の仕事から逃げ出したくなる衝動に駆られることはある。

 そもそも私は、課長になって何をしたいんだろう? どんな生活を送りたいのだろう? あらためて考えてみると、何も浮かばないことに気づいた。

「おまたせしました、シェリー・ブレンドです。飲んだらぜひどのような味がしたのか、聞かせてくださいね」

 味の感想を聞くなんて、めずらしいお店だな。私は早速、コーヒーカップを手にしてみる。

 うん、いい香り。インスタントや自動販売機のコーヒーじゃこんな香りは楽しめない。久々の本格的なコーヒーだな。

 香りを楽しんだあとは、いよいよ味を楽しむことにする。早速口に含むと、舌の上いっぱいにコーヒーらしい味が広がっていく。独特の苦味と酸味が…と思った瞬間、その味わいが別のものに変化した。なんだ、これは?

 例えて言うなら、カラカラに乾いたのどを潤す水。そうだ、今まさに自分の心の乾きを、このコーヒーが潤してくれる。今まで欲しくてたまらなかった、命を支えるものをようやく手に入れた。そんな安堵感。それとともに湧き上がってくる達成感。

「えっ、うそっ、なにこれ?」

 妻の言葉でハッと我に返った。私は今、何を見ていたんだろう?

「どうした?」

 自分のことを脇において、妻の方が気になる。

「あのね、すごく不思議な味がするの、このコーヒー。最初飲んだ時は普通のコーヒーだなって思ったんだけど」

 うん、ここまでは私と同じだ。

「でもね、その後にスーッとする清涼感みたいなものを感じたの。コーヒーがコーヒーじゃなくなって。でもコーヒーなの。うぅん、なんて表現したらいいのかなぁ」

 妻は興奮して、わけのわからないことを言い出す。だが、なんとなく妻が言わんとしていることがわかる。私の場合、清涼感ではないが似たような体験をしたからだ。

「ということは、奥様は今、スーッとするような気持ちになりたい、そう思っているんじゃないですか?」

 ウェイトレスさんが脇から妻の言葉に対して、そう質問をした。

「そうなのよ。このところちょっとムシャクシャしてて。だから今日も詠太に買い物につきあってもらったの」

 えっ、家ではそんなこと一言も言ってなかったのに。契約が決まって、調子がいいとばかり思っていたんだけど。

「お前、仕事で何かあったのか?」

「えへっ、ちょっとね」

 妻はいつも明るくおどける。が、その裏側ではストレスを感じていることもあるんだ。意外な一面を知ることができた。

「あなたはどんな味がしたのよ」

 妻のことをもっと深く聴こうかと思った矢先に、逆質問が飛び出した。

「えっ、えっと…」

 あわてて自分が感じた味を思い出した。

「そうだな、例えて言うならば砂漠の中でさまよっていた時に飲む水。カラカラに乾いたのどを潤す、その水の味ってとこかな」

「あなた、砂漠で遭難したことってあるの?」

「いやいや、そんな経験はないけど。でも、そんな感じでこのコーヒーが私ののどを潤してくれる。そんな感じだった。命を支えるものがようやく手に入った、そんな安堵感を感じたんだ。そして達成感も。ようやく欲しかったものが手に入ったんだって」

 感じたものを口にして、あらためて気づいた。課長になってから毎日、目の前の仕事に追われて安堵感や達成感を感じたことはない。それどころか、部長から怒られ、部下の言葉に腹を立て、毎日むしゃくしゃしている。そのことも追加して妻に伝えた。

「うん、あなたの今の状況はよくわかるわ。いつもそんなことしか口にしないからね。だから安堵感や達成感が欲しいんだね」

 妻は私のことをよくわかってくれる。まさに、自分の中の心のオアシス。安堵感を感じる。が、さっきシェリー・ブレンドを飲んだ時の味わいとは少し違う存在だ。

 じゃぁ、私は具体的に何を求めているのだろう?

 考え事をして黙り込んでいると、ウエイトレスの店員さんがこんな言葉をかけてくれた。

「何か思うところがあるようですね。その答えを、またシェリー・ブレンドに聞いてみるといいですよ」

 シェリー・ブレンドに聞いてみる、か。今欲しい物の味がするんだったな。じゃぁ、こいつにかけてみるか。

 再度、ゆっくりとコーヒーカップに指をかける。そして、さっきよりも少し冷めたコーヒーを口に運ぶ。香りは先ほどよりも薄くなった感じがする。けれど味は…

「えっ、なんだ、これ?」

 まず、さっきと違う味に驚いた。その味を確かめるために、もう一度コーヒーを口に運ぶ。

 私の口に襲ってきたもの、それは一気に広がる強いコーヒーの味。いや、ただのコーヒー味じゃない。力強い、そして爆発するような、そんな感じ。さらに高揚感すら覚える。

「どんな味がしたの?」

 妻が私に尋ねてくる。私はしばらく黙って、さきほど感じたものを心のなかで言葉にしてみた。

「なんだろう、力強さ、爆発的な高まり、そして高揚感。とにかく自分がもっと満足できる何かを体験して、そこからみなぎる自信を持つこと。そんな感じかな」

 あらためて言葉にしてみて、自分が課長という立場で何を欲しているのかが明確になってきた。逆を言えば、課長になってからそんな力強さや高揚感を一切味わっていなかったことに気付かされた。

「では、そういうのを得るために、何をしないといけないと思いますか?」

 ウェイトレスさんからそんな質問が飛び出してきた。そこでまた考える。すると、すかさず妻がこんなアドバイスを。

「その答えも、シェリー・ブレンドに聞いてみたら?」

 私はカップに残ったシェリー・ブレンドを一気に口にする。その答えが出てくればしめたものだ。さて、今度は何を教えてくれるのか?

 このとき、味というよりもあるものが頭に浮かんできた。それは、自分が机に向かって必死になっている姿。まるで受験生のように勉強している、そんな姿が思い浮かんだ。

「べん…きょう?」

 口のほうが自然に動いた。勉強をしろ、ということなのか?

「いま、勉強って言ったね。なるほど、管理職としての勉強をしなさいってことなのかな」

 自分が言った言葉を、妻が繰り返す。今度は妻の言葉で自分のやるべきことに気づいた。

 考えてみれば、管理職としての勉強なんてやらなかった。ただ持ち上がりで課長という役職についただけ。今までと同じ気持で仕事をしていた。

 けれど、管理職には管理職としての役割り、そして勉強が必要だ。

「でも…」

「でも?」

 つい、「でも」という言葉が口から飛び出してしまった。その言葉の後から、何を言おうかを考えてしまう。そしてこんなことを言ってしまった。

「でも、具体的にどんな勉強をすればいいんだろう? うちの会社、きちんとした研修制度はないからなぁ」

「あら、簡単なことじゃない」

「簡単なこと?」

「だって、あなた総務の課長さんでしょ」

 総務の課長、だから簡単ってどういうことだ? 私がきょとんとしていると、妻はにやっと笑ってこんな言葉を私にくれた。

「研修制度がなければ、あなたがつくればいいのよ」

 私が研修制度をつくる!? これにはびっくり。けれど、よく考えたら、うちの会社の総務関係は、全て自分が手をかけている。わずか五十名ほどの会社で、総務課は五名。うち三人は女性で事務作業に追われている。私と係長の田原が実務部隊だ。

 何かを決めるときには、まずは課長と係長で計画を立て、部長に決済をもらうという形をとるようになっている。が、私が課長になってから新しい企画などはまだ生まれていない。以前の課長の時には、私とよくいろんなことを話して企画を立てていたものだ。

「よし、いっちょやってやるか!」

 少し元気が出てきた気がする。だが、そんなことをやっている余裕が有るだろうか。それどころか、係長になった田原にはちょっと不安が残る。けれど、やらなければ何も変わらない。とにかく前に進むだけだ。

「あの、今のお話を聞いてちょっとご紹介したい方がいるんですけど」

 ウエイトレスさんからそんな言葉が飛び出した。

「どんな方なんですか?」

「説明するよりも、会ったほうが早いと思いますので。羽賀さん、ちょっと」

 そう言うと、カウンターに座ってマスターと話し込んでいた男性が振り向いた。

「マイさん、なに?」

「ご紹介したい人がいるんです」

「はぁい、ちょっと待ってて」

 そう言うと、その男性はこちらに向かってきた。長身でメガネを掛けて、笑顔がとても素敵な方だ。

「こちら、コーチングをやっている羽賀さんです。企業の研修とかも手がけている方です」

「初めまして、羽賀純一といいます。よろしくお願いします」

 名刺を渡してくれたときのその姿勢、ただ者ではないと感じた。それだけビシっとしたものが伝わってくる。私もあわててバッグに入れてあった手帳から、名刺を探して羽賀さんに差し出す。

「なるほど、総務の課長さんでしたか。いろいろとご苦労もあるでしょう」

「はい、そこで今このコーヒーを飲んで、新しく研修制度を作れないかとひらめきまして。そうしたらこちらのウエイトレスさんが羽賀さんを紹介していただいたんです」

「なるほど、そういうことだったんですね。マイさん、ありがとう。私で良ければ、色々とお手伝いさせていただきますよ」

 それは心強い。そう思ったが、相談するにも費用の問題がある。さすがに無料で相談ってわけにはいかないだろう。相手はプロなのだから。

 だが、正直にこのことを羽賀さんにお話すると、意外な返事が返ってきた。

「ご心配なく。研修計画を立てるのであれば無料でお引き受けしますよ。その一端に、私の研修を入れていただければ結構ですから」

 このときの羽賀さんの笑顔は忘れられない。安心感と信頼感がにじみ出ている。

「ではお言葉に甘えて。よろしくお願いします」

 翌日、早速羽賀さんを会社に招いて打ち合わせを始めた。まずは今の我が社の現状を説明。その上で問題となっているところを伝えた。

「なるほど、今はそういう状況なのですね。ではボクから一つご提案です」

 きたきた、どんないい方法が待っているのか。そこを期待して耳を傾ける。

「今お聞きした状況、これが本当にそうなのか。そして目指す姿がほんとうにそこにあるのか。これを何人かで話し合いませんか?」

「えっ!?」

 この答えにはちょっと驚いた。すぐに妙案が飛び出してくるとばかり思っていたから。まずは話し合いって、どういうことなんだ? その意図を尋ねたら、こんな答えが返ってきた。

「今ご説明いただいたのは、総務課長としての視点だなって感じたんです。じゃぁ、他の社員さんはどうなのか? 製造部門、経理部門、生産技術部門などなど、いろいろな部署があるけれど、みんなが目指している姿が一致しているのかなって感じたんです」

「みんなが一致…そう言われると自信がないです」

「だからこそ、話し合いの場を持ちませんか、というご提案です。各部署の課長さんクラスが集まるような場ってありませんか?」

「月に一度管理職会議ってのはありますけど」

「では、その管理職会議で三十分ほど時間を確保できないですか? 私が話し合いを進行してまとめてみます」

「は、はぁ」

 この管理職会議を取り仕切るのも総務の担当。なので私の一存でなんとかなるものではある。が、羽賀さんいわく、突然そんなことをやると反発もあるだろうから、あらかじめ根回しは必要とのこと。なので、各課長にはこういうことなので三十分ほど時間をいただきたいという旨をあらかじめ連絡しておいた。

 おかげで、特に反発もなく会議当日を迎えた。

 いつものように各部署からの連絡事項が終わったあと、羽賀さんの登場。軽く自己紹介をしてから、早速話し合いに…と思ったら、羽賀さんはちょっと驚く行動を始めた。

「みなさんは、この会社をどう思っているのか? まずはいいところを三人組で話し合って、お手元に準備した付箋に書き出して下さい。時間は三分間です。どのグループがたくさん出せるか競争です。では、用意、スタート!」

 管理職会議には課長と名のつく人間が九名参加する。だからちょうど三組できるわけだ。わずか三分なので、急いでいろいろなアイデアを出して付箋に書き出す。私達のグループでは十三個ほど出すことができた。

「では次に、自分の会社でイマイチだなと思う点。これを先ほどと同じように出してみましょう。ではスタート!」

 これ、最初は口にするのをためらったが。一つ出ると次から次に出てくる。どちらかといえば不満に近い。そのせいか、十八個ほど出てきた。みんなそれなりに抱えているものがあるんだな。

「それでは、みなさんはこの会社をどのようにしていきたいのか。今まで出されたものを参考に、これも三分間で出し合って下さい。用意、スタート!」

 今回は今までと違って、最初になかなか言葉が出てこなかった。だが、私は今まで出されたものをにらんで一つのことが思い浮かんでいた。というか、本来今回の目的であることだ。

「はい、もっと社員教育がしっかりとなされている」

 私の言葉を皮切りに、次々と言葉が出てきた。今回は数が少なく、合計八個。

「それでは最後に出されたものを一つにしましょう」

 そう言って羽賀さんは、三つのグループの付箋を集めて貼り出した。同じような答えは一つにまとめる。

「今度は、似たようなものでグループ分けしましょう。ではみなさん、こちらへ」

 私たちは羽賀さんが貼り出した付箋の前に立ち、みんなでグループ分けが始まった。

「なるほど、こうやって見ると大きく四つに分かれるな」

 出された意見を分類すると、教育のこと、安全のこと、会社のしくみやシステムのこと、そしてコミュニケーションに関すること、この四つに分類された。

「では最後です。これらを見て、この会社をどのような方向に向かわせたいのかを一言で現してみましょう。とにかくひらめいたことを口にして下さい」

 みんな貼り出した付箋の前で「うーん」とうなって、なかなか言葉が出てこない。このとき、製造課長が一言こんな言葉をつぶやいた。

「前進していく会社…」

 すると羽賀さんがすかさずその言葉を拾い上げる。

「前進していく会社、ですね」

 そしてホワイトボードにその言葉を書く。なんだ、そんなのでいいんだ。じゃぁこれはどうだ。

「学び、成長していく会社」

「はい、学び、成長していく会社ですね」

「えっと、みんなで一丸となって取り組む会社」

「チャレンジしていく会社」

「人を育て大切にする会社」

 次々と言葉が出始めた。羽賀さんはそのたびにホワイトボードに書き記していく。全部で七つの意見が出たところで、今度はこんな指示がでた。

「では、これらの言葉を組み合わせて、一つの文にしてみましょう」

 羽賀さんの言葉で、みんなで作文が始まった。全部の言葉を使わなくてもよい、ひらめいたものを並べてそれなりの文になれば、とのこと。こういうの、苦手なんだよなぁ。

「はい、『学び、成長し、常に前に進んでいく企業』というのはどうですか?」

 営業課長がそう提案。羽賀さんがホワイトボードにその言葉を書く。すると別の人が意見を加えた。

「それに、みんなで一丸となって、ってのを加えたいなぁ。『学び、成長し、みんなで一丸となって常に前に進んでいく企業』。これはどうかな?」

「ちょっと長くなるから、『学びと成長でみんなで前に進んでいく企業』はどうだ?」

 だんだん意見がまとまってきた。そして私があることをひらめいた。

「最後の企業って言葉はいらない気がする。『学びと成長でみんなでチャレンジ』はどうかな?」

「おっ、いいねぇ。なんかスッキリして覚えやすいな」

「うん、それならスローガンになっていい感じがする」

 そうして、結局私が最後に言った言葉が採用されることに。

「はい、お疲れ様でした。みなさんの知恵とアイデア、そしてまさに一丸となってチャレンジした結果、私達管理職で決めたこの会社の方向性を表す言葉が決まった。

 羽賀さんの進行のお陰で、私達管理職にやる気が湧いてきた。今回、こうやって管理職ミーティングを行ったことで、みんなが抱えている悩みや不安、そして向かいたい方向がある程度一致していることがわかり、勇気が湧いてきた。

 そうなんだ、私たちは一人じゃないんだ。みんなで協力しあってやっていくことができるんだ。

 私は課長として新参者ではあるが、今回総務課長としてみんなをまとめる役割りとなることで、自分なりの使命感が湧いてきた。早速この結果をもとに、部長へ社員教育プロジェクトの提案をやってみよう。

 そのことを、ミーティングの最後に伝えたところ

「それ、前から必要だと思っていたんだよ。詠太くん、ぜひやってくれ」

という声を聞くことができた。よし、早速行動開始だ。

 私は時間を作って、田原係長と一緒に早速教育システムを考えることにした。だが、何の手がかりもないのに作ることは難しい。そこで、羽賀さんに相談することにした。

「そうですね。だったらこんな資料があるのですが」

 羽賀さんが出してきたのは、企業で推進するする一般的な教育ブログラムの体系図。階層別に取り組むべきことと、メニューがわかりやすく描かれている。

「なるほど、これはわかりやすい。ここから我が社に必要だと思われるものを抜き出せば、研修コースができますね」

 そこにはリーダーシップやコミュニケーションスキル、接遇などが表記されている。管理職や役員クラスになると、労務管理なども必要とされる。これに我が社は現場作業としての技術的なスキルも必要となる。

 羽賀さんの専門領域以外ももちろん書かれており、そこについては羽賀さんの知り合いの講師もいるし、さまざまな講師が登録されている研修会社を紹介もしてくれるそうだ。

 さすがに全てはボリュームが多すぎるので、特に必要とされる四つの階層別研修コースと、三つの選択型研修コースをつくりだした。特に私達管理職に必要とされるものが多いことにも気づいた。

「詠太さん、管理職って大変っすね」

 田原の言葉だ。確かに管理職は学ばなければいけないことも多い。が、それだけやりがいのある職種だということにもなる。

「ではこれを部長に提案してみます。またあらためて結果をお知らせしますね」

「はい、お待ちしています」

 こうして羽賀さんとの打ち合わせも終わり、今から資料の作成だ。これについては田原に一任し、私は根回しに入った。

 根回し、といっても悪い意味ではない。まずは管理職ミーティングに出席した課長たちに、こんな感じの研修を企画するからと話をする。このときに意見を聞いてさらに改善をする。そして、部長、さらには社長へと稟議を回すときには強力を頼むと要請する。

 そしてもう一人、キーマンとなる人物へ根回しに走る。それが専務だ。

 専務は社長の息子で、次期社長は間違いない。まだ四十代後半で、若くて頭の切れる人。今までの旧体質をなんとか変えようと、いろいろと画策はしているものの、周りは振り回されているという感覚を持っている。

 私も最初はそう思っていたが、よくよく話を聴くと、今までの私達の考え方のほうが異常で、専務の考えの方が正常であることに気づいた。が、諸手を挙げてその考え方に賛成とは言えなかった。

 しかし今回の研修制度改革は、以前から専務が気にしていたところでもある。ここで専務を味方につければ、私達管理職の想いも通じやすくなるだろう。

「失礼します。お時間を作っていただきありがとうございます」

「そんなにかしこまらなくてもいいよ。で、話って?」

「実は今、管理職で話し合って、新しく研修制度をつくることを企画しました」

 私は専務からお褒めの言葉をいただけると思っていた。が、その表情はとても渋い。

「必要なのはわかっているんだよ。でもなぁ、社長は大の研修嫌いでね」

 それは初耳だ。専務いわく、昔研修会社というところに半分騙された形で、お金だけとられて効果のない研修を行ったことがあるらしい。それ以来、仕事は自分で学べ、ということを感じて、外部講師を招いた研修はやっていないとか。

「あの社長をどうやって落とすかなぁ…」

 さすがに自分の父親を説得するのは至難の技のようだ。まさか、ここで行き詰まるとは。

 このとき、ふとあるアイデアが湧いてきた。

「専務、ちょっとどこかでお時間取れませんか? せひ連れていきたいお店があるのですが」

「お店? まさか私をお姉ちゃんのいるお店に連れて行って、買収しようなんて魂胆じゃないだろうな?」

 笑いながら専務は答える。こういう冗談が通じるところは、まだ私達世代の感覚だな。だから話しやすい。

「もっといいところですよ。実は喫茶店なんですけどね。そこに魔法のコーヒーというのがありまして。ぜひそれを飲んでもらいたいと思って」

「魔法のコーヒー? それこそ、変な薬でも入っているんじゃないだろうな?」

「いえ、そんなことはないですよ。そこのコーヒーは飲んだ人が望んでいる味がするんです。私はそのおかげで、今回の研修制度の企画を思いつきました」

「うぅん、どういうことかよくわからないけど。でもおもしろそうだな。よし、早速行ってみよう」

 思い立ったが吉日、専務はすぐに行動を起こすタイプだ。だから周りも振り回されることがよくあるのだが。けれど、今回はありがたい。幸い、私も時間がとれるので早速カフェ・シェリーへと足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開くと、コーヒーと甘いクッキーの香りが漂ってくる。

「へぇ、こぢんまりとしていい感じの喫茶店じゃないか」

「はい、今時めずらしい純喫茶ですよ。あ、シェリー・ブレンドを二つお願いします」

「かしこまりました」

 私と専務は、今回はお店の真ん中にある丸テーブルの席に位置する。

「ところで、ここで私に何を感じさせようというのかな?」

 さすがは専務、単に興味本位でこの店に来たわけではないことは見抜かれている。

「はい、専務が会社の未来をどのように思っているのか。そしてどのような行動をとるべきなのか。それを知りたいと思いまして」

「なるほど、それは自分でも知りたいな」

 早速コーヒーが運ばれてきた。

「どのような味がしたか、ぜひ教えて下さいね」

 ウェイトレスさんがにこやかに微笑む。とてもかわいらしい女性なので、そうやって言われると答えなきゃって気持ちになるな。

「じゃぁ、早速…」

 私は専務がどう答えるのか、それを待った。専務はコーヒーを飲んで、目をつぶる。すると、表情がにこやかになってくる。

「なるほど、こいつはおもしろい」

「専務、どんな味がしたんですか?」

「最初はコーヒーだと思っていたけれど、飲んでちょっとしたら口の中で何かが湧き上がってくるんだよ。そう、喜び。うん、会社を喜びで満たしたい。働くみんなが喜んでもらう。これが私の理想だ。だからこそ、もっとスキルアップをしないと」

「スキルアップって、具体的にどういうことなんですか?」

 なんと、ウェイトレスさんがそう聞いてきた。これには驚いた。

「やはり、仕事をやる上では個々の能力アップが必要不可欠だ。技術力、コミュニケーション力、問題解決力。こういったところに磨きをかけて、光る集団にしていく。そうか、磨きをかける、なんだ」

 専務は自分の発した言葉で何かに気づいたようだ。

「詠太くん、わかった、わかったよ」

「専務、何がわかったんですか?」

「今、ウチの会社に足りないところだよ。そうか、磨きをかけるか。ウチの会社にはいいところがたくさんある。けれど、それを活かしきれていない。今までそこに対して、もっとよりよくするための磨きが足りなかったんだ」

「じゃぁ、磨くために何をすればいいんですか?」

 またまたウェイトレスさんの言葉。この子、只者じゃないな。

「やはり、きちんとした学びも必要だ。そして訓練。それ以前に、まず自分たちの強みが何か、磨き上げるポイントを探らないと」

 ここでひらめいた。

「だったら、この研修が役に立ちます」

 私はバッグから研修計画書の下書きを取り出した。そこには計画している研修が一覧で表示されている。

「まず、経営幹部や上級役職者による経営計画作成講座。これは強みや弱みを分析して、そこから計画を立てるという内容です」

「うん、まさにそれだ。他にはないのか?」

「えっと、みんなで話し合いを行って物事を決めていくスキルのファシリテーション研修。これは必須だと思います。これによって、どうすれば磨きを深めるのか、その方法を自分たちで答えを出してもらうことができます」

「なるほど、他には?」

 専務が社員研修に対して乗り気になってきた。ここが押しどころだ。私は今思っていることをどんどん口にしてみた。

「なるほど、そういう構想か。よし、その企画書を早く上げてくれ。役員会で議題に取り上げる。なんとしてでも、社長の首を縦に振らせるから。あとは私にまかせろ」

 力強い専務の言葉。私の思いが通じたことと、この先は任せてもらえるという安心感で、私はようやく肩の荷が下りた気がした。

 そこで何気なくシェリー・ブレンドを口に含む。すると、私の中ではとても明るく輝くものが見えてきた。あぁなるほど、私が望んでいたのはこれか。明るく輝く、見通しのある未来。

 この未来を手にするために、課長という仕事があるんだ。決定するのは上層部だけれど、そこに未来を提示することはできる。そうか、つくるのは私達、決めるのは上層部。私達管理職が作り出さなければ、会社は動かない。

 課長という管理職、今まではただの板挟みの役職だと思っていたけれど、そこにやりがいを感じることができた。

 会社に戻って、早速田原係長の企画書の進行具合をチェック。完全に任せるのではなく、一緒になって考えていく。これも課長の醍醐味だな。

「よし、完成だ」

 研修計画書がようやく完成した。これは私の、いや私達管理職の希望が詰まっている。根回しも終わった。これから部長へ提出し、それを役員会にあげてもらう。

「部長、お話があります」

 緊張のときがやってきた。ここではねられてしまえば、全てが水の泡。ちょっと胃が痛む。これが課長職の辛いところだな。けれど、これを乗り切れば…

「なるほど、研修計画か。これを役員会に上げてほしいということか」

「はい。我が社の未来の為にも、よろしくお願いいたします」

「わかった。やってみようじゃないか。詠太くん、よくやってくれた。ありがとう」

 なんと、部長からお褒めの言葉を頂いた。これには感激。課長になって初めて褒められた気がする。

 さぁて、これから忙しくなるぞ。けれど、前とは違う充実感で満たされている。自分でやろうと思っている仕事なのだから。

「はい、がんばります」

 大きく返事をして、私は早速行動を開始することにした。

 課長という立場は本当につらいことが多い。上と下の板挟み。けれど、そこには必ず報いに値する報酬が待っている。その報酬は金銭ではない。喜びと満足感。これはお金には代えがたい報酬だ。

 さぁ、気合を入れるか!


<課長はつらいよ 完>

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