いびつ
ある意味この部分が一番年齢制限が必要かもしれない。
「まっとう」に考えて判断することをお願いします。
初めて人を殺した時の記憶は、憶えていない。
体の中身がどこか別の場所に行ったように、何もないという感覚を抱えながら、まるで体が放り投げられたぬいぐるみのように勝手に動いては、相手の懐に飛び込んでいた。
「……オレが最初に人を殺したのは、今のお前と同じ、高校三年の時だ」
人助けに喧嘩をして、暴力で人を抑えつけた。
本当なら、言葉でいうことを聞かせるべきなのだろう。それが正論だ。それは暴論だ。
「力の意味を正しく知るやつほど、暴力を行うことは少なくなる」
逆に言えば、力と言う概念の意味を誤って認識している人間は、多分力に頼ってしまうのだろう。力と言うのは概念と物理的現象が極度に近しい存在だ――と思う。
過ぎた力は、その気がなくても人の手には余り、力が無ければ物理世界において何もできはしない。
それだけ概念と現象が近しい存在は、増長させるべきではないのだ。茶碗に水を入れた場合、茶碗を揺すると水は揺れ、いずれは零れて茶碗までをも台無しにする。
「暴走した力を振るうやつを抑えるには、余程当人のことを知っていない限り言葉はあまりに無力だ。だからオレは、暴力に頼った。因果を逆転させ、相手のやっていることをそのまま返した」
そのスタイルは、今でも多くの影響を残している。人殺しの武器を持つ人間に対しては、容赦なく人殺しの武器を使う。逆にただの喧嘩程度なら、相手が何人だろうと大抵は拳で済ませる。
目には目を――と言うやつだ。だが、それがなんだと言うのか。
「力を振るえば、力の意味を知らない奴は、何も考えずにより大きな力を振るおうとする」
ただの暴力では勝てない和樹に対して人殺しの武器が使われたのは、必然と言うべきなのか。倫理的には間違っていても、因果としては間違っていない。人の戦争の歴史が、そのまま証明している。
「初めは木の棒。次に木刀。鉄バット、釘バット……しまいには、本職の暴力団も雇われてたな」
いかに器が大きな和樹といえども、無制限に力を制御し続けられるわけではない。
水が零れる――取り返しのつかないこととなるのは、それも必然だった。
「何十の敵が殺意を向けてきたその時、『あぁ、流石に無理だなぁ』って思ったらさ。敵のナイフを掴んで、そのまま殺してた」
その時に、気付いた。自分が特に、何の感慨も抱いていないことに。
その時の瞳は、きっとさっきと同じ、透明だったんだろう。
「人を殺せば、怨まれる。殺そうとするやつが、殺そうとされることを嫌がるのはお門違いだ。……そういう意味じゃあ、オレは十分、周囲に殺意を抱くことを許されていた」
許されてしまう、環境に立ってしまった――。
力を使い続けていた和樹は、いつの間にかぶつかった他の器から零れた水でびちゃびちゃだったのだ。
あはは――と、力なく笑った和樹の表情は寂しそうで、透き通っている。
それが、自分が選んだ結果だと言うことを、受け入れているのだろう。
「一人を殺すのも、千人殺すのも……桁は違うが、本質は一緒だ。……一緒だと、思っちまえる」
――許されない。ただその一言に収まる気がした。
自分が歩く軌跡にはもれなく赤い靴跡が付き、自分の進む先進む先で恨み言を言う人間がいる。それを受け入れることは出来ないとしても、それを否定することも出来ない。
――どうして人を殺せるのか。そう訊いたな、と色付いた瞳で杏華を見やる。温もりの欠けたその瞳からは、けれど優しさが垣間見えた。
杏華は和樹の語った昔話に止められた息を呑み下し、こくりと頷いた。
「……簡単なことだ。オレが、まっとうな人間じゃないからだ」
――まっとうな人間じゃないから、何かがずれた。
――なにかがずれてしまったから、殺意を抱くことを許されるような環境に立ってしまった。
――殺意の泉に抱かれた和樹は、人の死を理不尽とは感じられなくなってしまった。
人間なんて、そんなものだ。まっとうな人間だったとしても、何かがずれたら、何かの拍子で、簡単に人を殺せてしまう。
「……っ」
無言で、揺らぐ月を湛える杏華の瞳を見つめて、和樹は悲しそうに笑う。
「まっとうな人間じゃないから、人に殺意を向けられた。その殺意を、そのまま相手に突き刺した。……そして、人を殺したことを、受け入れた」
受け入れちまったら、後はもう、何人でも殺せるもんさ――と、嗤う。くしゃりと、杏華の頭に手を置いて、髪を乱しながら笑う。
その弱々しい笑顔に、杏華の表情が一層の陰りを見せる。
「…………」
「何でもねえ。ただちょっとした不遇があっただけだ。運命なんて、ありもしねえもんに憤りがあるわけでもねえよ」
そんな杏華を励ますために――あるいは自分に言い聞かせる為に――和樹はしっかりと笑う。
雲に隠れた月に、風が吹き抜けるように――杏華の心に何かが通った。
くしゃりと乱れる黒髪に一層の力が込められた気がして、杏華は僅かに顔を上げる。そこに無言の和樹が、笑顔で頭を撫でていたのが辛うじて見えた。
「…………」
どこでまちがっちまったんだろーな?
割り切れていないそんな呟きが、腕を伝って聞こえてきた気がした。
……きっと空耳なのだろう。そうでなければ、いつまでも受け入れきれない殺しを、受け入れていると錯覚している和樹は、哀し過ぎる。
「……くすぐったいわ」
月の光が沈み、柔らかい夜明けのような温もりを湛えた杏華が、頭の腕を両手でつかむ。
和樹は「わりぃ」と謝ると、少し悲しそうな表情を見せて――けれど、何もかもを受け入れたような笑顔で杏華のことを愛おしげに撫で、腕を下ろした。




