「無茶はするな」
夕刻。杏華は竹刀入れを持って、目的地である外れ通りの近くにやってきていた。
とはいえ、流石に通りの中で待ち伏せするわけではない。相手に気取られないようにするためだ。杏華は獲物を待ち構えるハンターのような目で、物陰から通りの様子を眺めている。
幸い、通りはそう大きなわけではなく、一本道だ。それに、杏華の視力は両目とも一・〇を越えている。端から端まで、十分に見回せた。
――大丈夫。
心の中で、そう自分に語る。
あの男たちを見付けられるかもしれない。復讐を、為せるかもしれない。
だが、杏華の心にあるのは何も復讐心だけではない。
考えてみれば、簡単なことだ。一度は襲われかけた。不意を突かれたとはいえ、何もできなかった。そんな相手に、恐怖を覚えるなと言う方が酷と言うものだ。
――杏華は女なのだから。
「……大丈夫よ」
不意さえ突かれなければ。あるいは逆に、不意を突けば。問題なく相手を制圧、そして制裁を与えられるはずだ。呼吸を落ち着けて、不安と恐怖を掻き消すために、大丈夫だと思える要因を必死でかき集める。
大丈夫だ。武器もある。不意を突かれる訳でもない。注意もしている。意気もある。……だからきっと、大丈夫だ。
「大丈夫……」
自分に暗示を掛けながら、復讐と言う初めての行為の為にしっかりと目の前を確かめた。
夕闇に紛れ始めたばかりのこの時間帯では、まだ外れ通りには人の姿は少ない。夜を迎えるまでが、この通りの睡眠時間なのだろう。
大丈夫、大丈夫……と、自分に言い聞かせている内に、段々と時間が経っていく。
通りは黒く染まり、そして色付き始めた。
普通の通りではまず見られないような煌びやかな装飾。過剰とも言える光の彩り。そして、人。
「……ぁあ」
一般人と見まごうばかりの、普通のスーツ姿の人や、行き摺りのような格好の……けれど得体のしれない雰囲気を纏う人たち。紫や赤と言った、存在感を主張するスーツを纏った人々や、如何にも裏社会ですと言わんばかりの強面たちが街を闊歩する。
スーツ姿の男性や、艶めかしいドレス姿の女性が客を引く姿がそこかしこに在った。下着姿のような透き通った服をした女子が客寄せをしているようなところまである。
まるで異世界に迷い込んだようだ。そして、異世界にしては一般人の杏華から見れば、あまりに夢がない世界だった。
「こんな、……場所、だったの、ね」
こんな場所が、自分の住む町にあったのだ。
息を呑んで、その風景に視線を持って行かれる。自身を隠すことすら忘れていた。それほどまでに、目の前に広がる世界がありえないものに見え、ここが夢のようだと思ってしまった。
それでも、杏華はいつまでも固まるような女ではなかった。三十分前とはまるで異なる世界を眺めて、率直な感想を漏らす。
「……人が、多い」
広いとは言えないストリートに、押し込めたように多くの人が集まっている。人がいなければ難なく向こう側の出口まで見通せる外れ通りが、今は人の波で薄らと先が見える程度。
これでは、人を見付けるのも一苦労だ。運頼み、と言ってもいいかもしれない。そして、運よく見つけたとしても再び見失う可能性すらある。
「……よし――!」
さっと気合を入れて、足を動かす。もともと、見つけたら通りに入って追いかけるつもりだったのだ。大差はない、と考えた。
ふと、頭に父の言葉がよぎった。無茶はするな。だが、その言葉は杏華を抑えつけるには至らない。
杏華は胸中で「ごめん」と謝ると、そのまま外れ通りへと進入した。